21 はぐれたネジ 一個
次々と爆ぜる火柱が、峰を襲っていく。
巻き上がる爆風が、濃霧を払っていく。
見下ろした乳白色だった世界に、幾多の船が姿を現していく。静かな境内のような光景が消えていく。
濃霧の向こうから現れたのは、宙に浮かび要所要所を金属で補強した、帆船。簡略化して四つの動物が書かれた帆を勇ましく掲げた船は湖に浮かぶ観光船ほどの大きさだが、その外観は極めて戦闘的だ。金属の筒が備え付けられている物々しさに、ファンタジーもロマンも感じられない。それは、空飛ぶ軍艦なのだろう。翼もなく、プロペラもない異様な船が、何十隻も宙に浮いて天鼓の泉を取り囲んでいた。
「法王軍……法王軍がいない! 法王国はクマリを見殺しにするおつもりなのか……! 」
『ミル、一体何が起きてるんだ! 』
「私達を狙って後李が挙兵したのです! 異世界の扉が開くのを、ここで待ち構えていたのでしょう! 捕まって下さい! 安全な場所まで移動します! 」
『ミル……うわっ』
興奮しているミルは、自分が日本語を喋っていない事にも気づいてないのだろう。素早く雷光の姿勢を安定させ、軍艦群のはるか上空を全速力で疾走させていく。
囮のコートを爆破して勝利を勘違いしているのだろう。兵士達の雄たけびが微かに遠くなっていく中、俺はもう訳もわからずしがみついていた。
耳元で風鳴りが響き、頬を冷気が切り裂き、あまりの風圧で酸欠状態。
再び魂の記憶が脳裏に蘇る。再び意識が朦朧となり、映像の底へ落ちていく。
『ハルキ、だいじょうぶ? 』
『……多分。大丈夫。しばらく、休ませてくれれば、大丈夫……うっ』
『きょう、ここでやすむ。ゆっくり』
『あ、ありがとう』
こみ上げる吐き気と戦いながら返事をすると、ようやくミルの顔が綻ぶ。
あれから二時間は上空を爆走してたどり着いた深い森の奥の渓流で、俺は岩に座り込んで動けない。
まだ体が飛んでいるような感覚。ぐらりと視界が揺れ動いている。すっかり乾燥した服に、今度は冷や汗が染みていく。絶叫系のアトラクションは強いほうだったのに、この有様だ。というか、ミルは何故に平気なのだろう。
ヨレヨレの風体の俺を見て、ミルは折り紙のように折って作った木の葉のカップで澄み切った渓流の水をくみ上げる。
「本当は温かいものを用意したいのですが……『すこし、のむ。これ、すっぱい』」
『うん』
木の葉のコップを受け取り、差し出された小さな赤色の木の実を齧る。目が覚めるような強烈な酸味で、乗り物酔いが微かに消えていく。
心配げなミルに渋い顔のまま笑いかけると、ようやく安心したように微笑んだ。
ここがミルのいた世界だと、叩きつけられる。
ここがどういう場所かも判らない。今、自分の身が安全なのかも判らない。言葉も判らず、何を食べれば安心なのかも判らない。
すでにぶら下っているだけの状態のネクタイを引き抜き、乱暴にスラックスの尻ポケットに突っ込む。異世界に来てまでネクタイしてるなんて、可笑しな話。
そうだ。今まで俺が持っていたものは、何も役に立ちはしない。
ミルが作ってくれた木の葉のコップを見て苦笑してしまう。俺は、このコップの作り方も知らない。雷光と呼ばれていた獣の操り方も知らない。辛うじて風の唄を唄えるぐらいだ。
陶器のコップで清浄された水を蛇口から取り出せたのは、先人からの知恵を活用し社会がモノを作り上げるシステムの中にいたから。
自動車を運転出来ても、自動車を作り上げる事は出来ない。タイヤの仕組みも、エンジンの仕組みも、沢山の部品を組み立てるネジの作り方すら、俺は知らない。
沢山の人々が知恵と力を出し合い、組み上げているのが工業製品。工業化された社会。その仕組みからはみ出した俺は、ただのネジにすぎない。
たったひとりでは、何も出来ない。木の葉でコップを折る事さえ思いつかなかった。
その事実を突きつけられたショックで、溜息をついてしまう。
『ハルキ、まだ、きもちわるい? 』
『あぁ……それは大丈夫だよ。コレ、効くね。だいぶよくなったよ』
ドングリ程の木の実の残りを、一気に口に入れて無理して飲むこむ。この木の実は、確かに乗り物酔いに効く。
強烈な酸味に顔を歪ませると、ミルは声を上げて笑う。今日、ようやく笑った顔を見れた気がする。
当たり前の日常が続くと思っていた朝から、異世界で爆発に巻き込まれそうになって逃げてる今の状況が信じられない。
俺は昼前までコーヒーを飲んでたのに、今は渓流の生水を飲んでいる。不思議な感覚。
『わたし、ちいさいとき、のんだ。ほんとう、きく』
『ミル、この辺りで育ったの? 』
思わず、着陸寸前の緑の光景を思い出し驚いてしまう。辺り一帯は、遠くにエベレストのような大きな山脈の麓に広がる樹海そのものだった。人家など、ありえない程に深い森だった。
『わたしのくに、なくなった。そのあと、すこしだけ。ここ、クマリ、だいじ、ばしょ。だれも、こない。あんぜん』
『ここはクマリの土地なのかい? 』
『クマリ、まもる、ばしょ。クマリのもの、ちがう。ここ、だいじ、ばしょ。「言い難いですね。クマリ族が守り預かっている場所であって、クマリの地ではないのです。……そう」『神苑』いいます。かみさま、『精霊』いるばしょ』
『神苑? 精霊? クマリの人にとって、聖地のような感覚? エルサレムみたいなもんかな? 』
信仰で守られた場所なのだろうか。
ここにたどり着いた天鼓の泉の絶景も、神が宿る場所とされても不思議じゃない迫力に満ちていた。
そうなると、クマリの人にとって聖地なのだろうか。この世界の信仰を持つ人にとって、ここは踏み込む事も躊躇わす聖地なのだろうか。
『判らない事ばかりだな。そんなに大切な場所なのに、さっきドカーンと天鼓の泉は爆発しちゃうしな』
『あれは「後李帝国」。クマリ、なくした、つぶした』
『あの軍隊が? ミルの国を滅ぼした後李帝国……』
『はい。おぼえる。後李帝国、きけん。ダショー、ゆるさない。ハルキ、きけん』
真顔で言うミルの口調に、大げさなものは感じない。
つまり、さっきの爆発はココに還って来た俺を狙ったという訳だ。いきなり命の危険に晒されていた訳だ。
衝撃的な事実に眩暈がしそうだ。なんてドラマチックな俺の人生。
『この世界で生き抜く為に、憶えなくてはいけない事だらけだなぁ……』
『だいじょうぶ! わたし、おしえる。ハルキ、まもる』
胸の前で拳を握るミルが力強く宣言した。茶色交じりの青い瞳には、力が漲っていた。
『わたし、にほん きたとき、たくさん、おしえてくれた。もの、つかうこと。あぶないこと。せかい、おしえてくれた。わたし、うれしかった。あんしん、した。こんど、わたし、ハルキ、たすける! 』
『ミル……』
「ハルキに会えなかったら、私はどうなっていたんでしょう……。本当に、頼もしかった。ハルキの傍で過ごせたあの時間は、とても幸せだった。安全が保障された世界は初めてだった。クマリの地が、この世界がハルキにとって危険な現状だという事が申し訳ないほどです。でも、私は精一杯、ハルキを守りますから! 『こんど、わたしが、ハルキ、たすける! 』」
『……うん』
そうだ。ミルが最初に日本に来た時も不安だったんだろう。
俺も、あの時のミルのように頑張ればいいんだ。
言葉を覚える。生活習慣を覚える。世界情勢を知っていく。そうやって、一つ一つ問題をクリアしていこう。今度は俺がミルに教えてもらえばいい。
あの時のミルが物事を覚えていく幼児のように。俺も幼児のように、物事を真似して覚えていこう。やれる事をこなしていこう。
少しずつ、道を切りひらいていこう。
『じゃあ、まず何をしようか』
『とりあえず、ごはん。たべるもの、さがす』
『そう、だな。コンビニなさそだし』
俺が思わず零した言葉に、ミルは苦笑して頷いた。
『こっち、なにもない。がんばる』
『よっしゃ! 頑張るぞ……って、俺、何にも持ってないよ』
千切れてボロボロなYシャツを巻き上げて立ち上がって気づく。俺が持ってるものは、今や役立たずのガラクタと化した携帯と財布だけ。汚れた靴下に、校内の上履きだったサンダルをつっかけている間抜け姿だ。
と、唐突にミルは背負った大黒丸を肩から下ろして、ニットのタートルセーターを脱ぐ。現れたのは白い柔肌ではなく、半袖のTシャツ。そして、チェニックに隠された腰元に下がったシザーバッグ。家にあったはずの果物ナイフが、頭を覗かせていた。
あんぐりと口を開いた俺に、まるでアクション映画のヒロインのようにミルが『大丈夫』と微笑んだ。
「私が、ハルキを巻き込んだのです。この運命に、この世界に巻き込んだのだから、私がハルキを護ります。全力で、護り抜きます」