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見下ろすループは青  作者: 木村薫
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 20 最初の一撃 ~二章 パンドラの光~

 空気が変っていく。

 俺の知っている、どの空気でもない。

 湿り気も、車の排気ガスの酸っぱい臭いも、雨が降る前の土埃の匂いも、青々とした畑の匂いも、稲の葉がそよぐ田園の匂いも、当てはまらない。

 卒業旅行で行ったL.Aみたいな乾燥しきった荒野の匂いでもない。東京のような様々な匂いを強制的に消した臭いでもない。

 感じる空気の変化に、心拍数が上がっていく。

 肌に触れる空気から五感全てで異世界の気配を感じ取りながら、意識の裏に猛烈な勢いで流れ出した映像を見ていた。

 まるで井戸の底から見上げる小さく切り取られた青空。

 強い香草の匂いに囲まれて、眩しい日差しを浴びていた。

 真っ暗の中で流れる河の上を疾走していた。

 全ての映像は、精一杯生きたであろう、俺とは違う、それでも俺の遠い記憶。

 俺、還って来たよ。俺も、お前達みたいに精一杯生きるよ。

 だから。


 『 愛しい子よ 貴方の成すべき事を やりぬきなさい 』


 唐突に女性の声に包まれた。

 それは、泣きたくなる程に優しく包容力に満ち溢れた響き。

 心の奥底で求めていた響き。


 『 おかえり ハルンツ 』

 

 遠い記憶の映像が止まる。そこは、夕日で照らされた砂浜。世界の全てが赤く染まったかのような光景。真っ赤な海を見つめていた男の背が振り返る。

 スラリと背の高い若い男。逆光で影になった男の顔で、僅かに目元が青く光った。

 こいつが、エアシュティマス。俺の中で憎悪の感情で眠っている記憶の主。そう気づいた途端に今までの比でない膨大な映像があふれ出す。

 意識のあちらこちらのディスプレイで一斉の再生ボタンを押してしまったような流れ方。

 その中で、一つの映像に目を奪われる。

 透明で清らかな水の流れに足を入れ、まっすぐに空を見上げていた。穏やかな日差しを受け、そよ風に髪を揺らしながら、澄んだ声で朗々と呪詛を唱えていく。それは、魂を縛る唄。繰り返す生命の営みを自ら断ち切る唄。その代償に願う永遠を唄っていく。

 恐ろしい意味の唄なのに、こんなにも晴れ晴れと迷いなく唄いあげていく記憶。これは、誰の記憶? エアシュティマスなのか? でも、これじゃあ……自分で自分に呪いをかけているようなものだ。

 何でこんな事をしているんだ。


 『 もう充分、頑張ったよ。この苦しみを終わらせよう 』


 唐突に、夕日に染められた砂浜の場面に戻っていた。

 青い瞳に見つめられたのは、一瞬。その一瞬に、膨大な記憶を見ていたのか?

 エアシュティマスが、その瞳を細めて笑った。


 『 この世界を 終わらせよう 』


 泣きたくなるほどの、激情が体を貫いた。

 これは誰の記憶? 俺の中の誰の記憶?

 嬉しさも、悔しさも、悲しさも、歓びも、誇らしさも、恨めしさも、全ての感情がエアシュティマスの言葉に反応して溢れ出す。

 何が起きているんだ。俺は、俺の記憶は、俺の感情は、俺のものだろう! 

 俺の人生を邪魔させない! 俺の意思で歩いていくんだ!


 『俺は……っ』

 『ハルキ! 』


 鼓膜を震わし耳で聞こえる声に、意識が急にはっきりと起き上がる。

 目を開けて飛び込んだ光に、今までが夢だったと気づく。何て夢だったんだろう。

 目の前で心配げな顔で俺を覗き込むミルに笑いかけると、その大きな瞳が微笑み返す。

 ミルがいる。その安心感に大きく息を吐き出してから、辺りをうかがう。

 そこは真っ白な世界。


 『ハルキ、だいじょうぶ? 』

 『あぁ、うん……ここは』


 ミルの世界に着いたのだろうか。

 くるぶし程の浅い水から起き上がる。噴水広場からずぶ濡れだが、ここではさほど寒さを感じない。むしろ、暑くて水の中が心地よいぐらいだ。

 玉砂利が敷き詰められた水底から、炭酸のように次々と水が噴出してくるのを手の平で感じる。澄み切った泉の中で寝ていたようだ。

 澄み切った空気がゆっくりと流れ、辺り一帯に漂う乳白色の濃淡がうごめいて、乳白色が霧である事が判る。


 『ここは何処? 』

 「ここは天鼓(てんこ)の泉ですね。ここが扉なのです」

 『……? 』


 ミルの口から、理解不能の言葉が飛び出る。思わず顔を凝視してしまうと、ミルが慌てて言い直す。


 『ここ、天鼓(てんこ)の泉。だいじ、ばしょ』

 『天鼓(てんこ)の泉……天国みたいだ』

 『うん。わたしたち、クマリの天国。「クマリ族にとって、ここは聖地です」。『だいじ、ばしょ」』

 『ミル、日本語がぐちゃぐちゃだ』

 『ごめんなさい。なんだか、へん』

 『変じゃないさ。だって、ミルの世界へ還ってきたんだ。そうだ、還ってきたんだね』


 互いの手を取り合うように、水の中から立ち上がる。

 静かな空間だ。俺達の体から滴り落ちる水音と、湧き上がる微かな水音以外は音がない。霧が微風で蠢くその動きにすら、音があるように感じられる静けさだ。

 目を凝らすと、そこが森の中だと判る。霧の切れ間から、大きな幹や茂る大枝の影が見える。まるで神社の境内に近い。途方もなく長い年月で作られた静けさの光景だ。

 ここが、異世界。ミルが生きてきた世界。俺が生きていた世界。

 その妙な感覚に囚われた時、俺の鼻が聖地らしからぬ匂いを感じ、首を傾げる。

 酷く懐かしさを誘う異臭が僅かに鼻先を漂っていく。昔、子どもの頃に嗅いだような臭い。いや、学生の時も強烈に嗅いだような記憶がある。あやふやな思い出の蔦を必死に手繰り寄せた。

 ミルも感じたらしい。俺の腕を引っ張り、泉から出て周囲を警戒しだす。

 その僅かな物音すら聞き逃すまいと、鼠を探す猫のように耳と第六感を研ぎ澄ますのを感じる。

 辺り一帯は、濃い霧に包まれている。乳白色な視界の向こうに、何があるんだろう。

 そうだ。あの時は真っ暗で視界がなくて、それで、夏のキャンパスで水野と馬鹿やってたんだ。


 『ミル、これ……花火の臭い? 』

 

 硝石と硫黄の独特の臭い。

 夜中に忍び込んだキャンパスでロケット花火を乱射した大学二年の夏を思い出し、臭いの正体に気づいた途端だった。

 ミルが突然、足元の水面へ指を走らす。

 波立つ水面に刻まれる文様は、流れ消える事なく氷の彫刻のように刻まれる。曲線と幾何学模様で出来上がる美しい絵。


 「優しき父よ、水の父神エンリに願う。吾が友、雷光の召還を」


 短い唄と共に、水面から懐かしい獣が湧き出してくる。


 『き、麒麟(きりん)? 』

 「ハルキ、乗って下さい! 」

 『は? 』

 「雷光に乗って下さい! 『のる! 』後李(こうり)の軍が近くに来てます! 」


 乗る。その単語しか判らないまま、麒麟(きりん)にまたがる。夏以来の麒麟(きりん)に驚いていると、ミルがコートを脱いでいた。

 チェニックの下から、真珠のような小さな珠を取り出し息を吹きかける。


 「吾が名と息吹をもって契約を施行する。吾が名は(すばる) ミル」

 

 七色に乱反射する小さな珠が、シャボン玉のように半透明になり膨らんでいく。

 ミルは膨らんでいく珠を脱いだコートへ着せるように素早く中に入れて、宙へ飛ばす。途端、まるで透明人間いるように、コートがヒラリと宙を飛んでいく。

 風がコートを着て空へ散歩を始めたような光景に見蕩れかけると、俺の背後にミルが飛び乗り麒麟(きりん)の腹を蹴り上げた。

 その慣れた動作と同時、雷光と呼ばれた麒麟が猛烈な勢いで飛び上がっていく。

 宙に足を出し駆け上っていくスピードは、ジェットコースターが宙返り目指して疾走するようだ。耳元で風を切り裂く音が鳴り、乳白色の霧の中を突き進む速さで、上下も左右もわからない感覚。思わず指の間をなびく手触りの良い(たてがみ)を掴んでいた。

 視界のない状態で、訳も判らず猛スピードで進む事に恐怖を覚えた瞬間だった。背後で突然、爆音が弾けて突風が襲い掛かる。

 突風は熱を持ち、視界全てを被っていた濃霧の幕を引きずり払っていく。露わになる視界に、俺は宙を翔ける感覚に恐怖していたのを忘れていた。初めて見る異世界の光景に見入っていた。

 飛び立った泉。それはまるで、神様が戯れに地表に巨大な鋭い岩槍を突き刺したような光景。そこは天空に突き出した大岩の先端だった。

 地表を覆う緑。そびえる槍のような岩山の頂の森、そこに湧き出していた清らかな泉。

 地球ではありえない絶景の中、爆音と共に紅の炎が立ち上っている。 その事に気づき、俺は雷光にしがみついた。

 はるか下の天鼓(てんこ)の泉で爆ぜる火柱と、吹き荒れる爆風は、一帯の霧をなぎ払って状況を強制的に露わにしていく。

 飛び立つ寸前に飛ばしたコートは囮だったと、今気づいた。

 火柱を上げ大岩の欠片を落としながら崩れ行く天鼓(てんこ)の泉の周りから、雄たけびや罵声のような声が轟きわたる。誰かいる。友好的でも平和的でない、大勢の人間が辺りにいるのは確かだ。


 「後李(こうり)帝国は神をも恐れぬのか……天鼓(てんこ)の泉も壊してしまうというの?! 」


 ミルの悲鳴のような声は理解出来ない。けど、そこに激しい怒りを感じた。

 あの場所を壊す。それが恐ろしい行為だというのは判る。

 そして、俺は完全に『コチラ』へ来た道を失った事に気づいた。

 

 


 


 

 

 


 


 

 


 

 

 

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