16 願い
遠くから救急車のサイレンが聞こえる。
築四十年の家は、外の木枯らしの寒さも音も完全には塞げない。湯上りの体から急速に熱を奪っていく。まだ濡れた髪をタオルでガシガシとかき回しながら、灯りがついたリビングの扉をそっと開ける。ミルは、もう寝ただろうか。
「あれ? まだ起きてるの? 」
「あぁ、うん。その、みてた」
基本、早寝早起きのミルが十一時過ぎまで起きてるのは珍しい。リビングの暖房もまだついたままで、その温かさにホッとすると同時に首を傾げる。
「お茶を入れ直す」というミルの後姿を何気なく追いながら、ミルが座っていた椅子に座ってみる。視線の先には、隣の仏間。壁の本棚に置かれた両親のスナップ写真が見える。これを見てたんだろうか。
「寝れなかった? 」
「うん」
「思い出してた? 」
「なに? 」
「家族の事。ミルの家族の事、思い出してた? 」
驚いた顔のミルが、二つのカップを持って戻ってくるのを笑って迎える。
本当に、ミルは何も言わない。言わないで、何かを抱えている。
俺には、頼りなくて話せないのだろうか。辛すぎて、話せないのだろうか。いつか、何でも話してくれるようになるだろうか。
「ミル、そういえば家族の事話してないよね」
「なんで? 」
「俺の家族の写真見て、何か考え込んでいたんじゃない? 最近、何か変だよ」
「へん、ハルキ、いっしょ。さっきも」
「さっきは、その、アレさ」
やぶ蛇だった。
「ミルのお父さんとお母さんって、どんな人なの? 」
どうにか話の向きを変えよう。そう振った途端、ミルは小さく口元で笑った。
「すこし。あまり、おぼえる、ない。わたし、しんでん、そだった」
「しんでん……神殿? 神様を祭る、神殿? 」
「わたし、クマリ、さいごの『大連』
先週聞いたような単語。半乾きの髪を思わずかき上げる。『大連』というのが、ミルの地位なのだろうか。
「じゃあ、お父さんともお母さんとも、あんまり一緒じゃなかったの? 」
「三つで、しんでん、いった。八つで、ぜんぶ、きえた」
「……消えた? 」
「しんだ。クマリ、なくなった。みんな、しんだ」
「……そうか。ごめん」
「ごめん、ちがう。わたし、ちゃんという」
何て事を軽く聞こうとしたんだろう。そう思ってカップを持って立ち上がろうとした途端、ミルが手を押さえた。
冷たい手に、青い石の指輪が光っていた。
「ハルキ、しって。きいて。わたし、はなす」
「ミル……辛かったら、無理しなくていいんだよ」
「はなす。はなす、する」
茶色交じりの青い瞳が、まっすぐに俺を射抜いた。心を摘まれたまま椅子に座り直した俺は、壮大な話を聞いてしまった。
八つで、ミルの生まれた『クマリ』という国は滅んだ事。
隣の『後李帝国』に攻め入られ、ミルが人質のようにいた神殿が治める国『聖エリドゥ法王国』に助けを求めたが、援軍すら出してもらえなかった事。
僅かな家臣と神殿を抜け出し『クマリ』に着いた時には、全てが燃やされた後だった事。
八つの女の子が、何が出来るのだろう。まだ大人に保護してもらう年齢じゃないか。
大変だったね。辛かったね。
そう声をかけても、楽になるのは自分の心だけだ。必死にその時間を生き抜きてきたミルに、何て言えばいい? 沈黙しかないじゃないか。
カップを包んでいた俺の手は、ミルの手を包んでいた。
ただ、心に触れられるよう。そう思って。
「クマリついたとき、みた。そら、のぼる、ひかり。『主様』、ダショーのいのち、はこんだ。それ、ハルキ」
「『主様』……あぁ、最初に会った白い鷹だね? あいつ、俺を地球へ運んだって事か」
数ヶ月前からの記憶の欠片が、再び音を立てて組み合わさっていく。
荒涼とした大地。灰色の薄暗く重たい空。空を駆け上がる感触。この記憶が、その時のものだろう。
目を閉じて、その光景を思い出す。俺、一度、死にかけたんだ。それを助けてくれたんだ。
あおの白い鷹が『忘れたのか』と驚いたのも、無理ないかも。
「だから、ハルキ、おとうさんおかあさん、ふたりいる。クマリと、ここ」
「ミルの世界での俺の両親かぁ。不思議な感じだな。ミルは、その俺の両親には会った事あったの? 」
「おとうさん、ない。でも、はなし、きいた。おとうさん、かたなつくるひと。とても、とても、ちから、あった」
ミルの目が、微笑む。
ようやく、柔らかな表情をして見つめてきた。
動物園で俺の両親の写真を見て「ちがう」と言ったミルは、この事を伝えたかったんだろう。
両親は、もう一組いると。俺の為に死んだミルの世界の両親を、無視するなと。沢山の人が死んだという、その光景を忘れるなと。
そんな無茶苦茶な話、簡単には信じられないのに。でもどうしてだろう。今の俺は素直に信じていっている。
微かに残っていた記憶の欠片のせいだろうか。繋いでいるミルの温かさのせいだろうか。
「おかあさん、さいご、わたし、みた。うつくしい、きれい、ひと。おなかのハルキ、『主様』にあずけた。なまえ、つけた。なにか、わかる? 」
「ミルが看取ってくれたのか? 名前、つけてくれたのか? その……ミルの世界の、俺の母親? 」
口にする単語、おかしくないだろうか。ミルの世界の俺の母親。俺の知らない、知らなかった母親。もう一人の母親。その人が、死ぬ間際につけた俺の名前はなんだろう。
息を飲んだまま見つめる俺に、ミルは泣きそうな顔で微笑んだ。
「ハル。ダショー・ハルンツの、ハル。こっちのなまえ、ハルキ。ハル、いっしょ。すごい」
「……そう。そうか」
こんなのは偶然だよ。
そう言いそうになるのを、飲み込んだ。きっと、ミルはこの言葉を伝えたかったんだろう。この言葉を信じてきたんだろう。異世界にいった俺の名前にも『ハル』がついている偶然を、必然として信じていたいんだろう。だからこそ、ミル達を救ってくれると信じてきたんだろう。
沢山の期待と希望。俺の名前を知ったミルの心に、どれだけの希望が生まれたんだろう。その後、俺がこの世界で足つけて生活している事を知って、どれだけ自分を責めたんだろう。どれだけ絶望して葛藤したんだろう。自分の世界と、俺の幸せと、一緒にいたいという思いと、引きちぎられそうになったんだろう。あの日、職員室で流した涙は重かったんだ。こんなにも想いや願いが詰まっていたんだ。
押しつぶされそうな想いを、否定できない。とてつもない絶望を耐えるために信じてきた希望を、打ち砕けない。
ミルが押しつぶされそうなら、俺もその絶望を背負おう。けど……。
「じゃあ、俺は本当に、ダショー・ハルキなんだろうね」
「うん」
「少し、恥ずかしいけど」
「ダショー、しんでんのぬし。『聖エリドゥ法王国』のおうさま。じしん、もつ」
「いきなり凄い話なんだけど」
「うん」
世界を救う勇者になんか、なれない。
王様になんかにも、なれない。
出来るのは、ミルの手を握る事だけ。
そんな俺が、何を出来る?
「ハルキ、あえてよかった。こっちのおや、ハルキそだててくれた。ありがとう、きもち、いっぱい」
「俺も知らなかった。ミルの世界で、一度死にかけたんだな。両親が、いたんだな」
「ハルキ……いきてて、ありがとう」
ミルの瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
俺は、どうすればいい? 異世界に、行くのか? 何も知らない世界へ。ただ、ミルを想う気持ちはあるけど、それだけでトンデモナイ世界へ、行くのか?
魔法が存在して、魔法使いがいて、四本足の動物も空を飛んでて、どうやら戦争してて、治安が悪そうで科学も進んでなさそうな場所へ?
「びっくりした? おどろく、した? ハルキ、だいじょうぶ? 」
「あぁ、うん。驚いたけど、大丈夫だよ」
笑った顔が、僅かに遅れたのに気づかれただろうか。思わず顔を伏せて、ミルの手を離す。
怖いんだ。恐ろしいんだ。自分がどうなるか、怖いんだよ。
こんないい大人になって、知らない世界へ飛び込む事が、怖いんだよ。
きっと今、人生の選択の崖っぷちに立っているんだ。その事が怖いんだよ。
そんな事にビビる俺の顔を見せたくなくて、偽りの笑顔をのせた顔を上げる。
ごめん、ミル。俺は怖いよ。
「ねぇ……ハルキ。わたし、おねがい、ある」
ミルの口から零れた『お願い』の言葉に、思わず体を固くする。まさか。
「いっしょ、ねて。てをつなぐ、ねて。はなしたくない」
「……は? 手を繋いだまま、寝たいの?! 」
てっきり、一緒に私の世界に戻って欲しいと言われると思った俺は、口をぽかんと開けた。
手を繋いだまま一緒に寝る……一緒に寝る?! 一緒に寝るって?!
「おねがい……だめ? 」
困ったように首を傾げるミルを見て、俺の体温が急上昇する。
そ、そりゃ、寝たいよ。寝たいけど、手を繋いだままっていうリクエストの意味は、「手を出すな」という事でしょ。その、いや、明らかに未成年で、そーいう関係はいけないし。
違う! 俺、何考えてる!
でも男にそのリクエストは難題だろ!
僅かな間で悶絶する俺を見て、ミルは俺の手をとった。
「ハルキ、おおきいて、だいすき。やさしい、て。あったかい。きっと、ねれる」
「そ、そっか。うん。じゃあ、手を繋いだまま、寝ようか」
ミルに邪心はない。煩悩だらけは俺の頭だ。
幼い子どもが、寝れない時に母親の温もりを求めるようなものだ。そう、そういうものだ。
でも……今夜は寝れそうにない。