15 涙の理由
枯葉で覆われた歩道を流れるまばらな人波に逆らって立ち止まる。流行の服に着飾った男女が、楽しげに歩いていくのを背景に、俺達は立ち止まっていた。華やかな会話や店から微かに漏れるクリスマスソングの音色が、別世界のよう。誰もが浮かれるこの場所で、俺達は本心をさらけ出そうとしていた。
「わたし、ひどいこと、してる」
「俺は、ひどい事されてるって、思ってないよ」
「ほんとう、いってない。ダショーのこと、だまってた」
「うん」
「さっき、エアシュティマス、ハルキ、とられそうだった。あぶなかった」
「でも、ミルが助けてくれた。体張って抱いてくれたから、俺は正気に戻れたんだ」
俯いた顔は、艶やかな黒髪が覆われている。コートの端を握り締めて、怯えるように声を絞り出すミルは、崩れる寸前の砂の山のようだ。ほんの少し、突付いたら崩れそう。今、水をかけたら流れてしまいそうな脆さ。すでに、砂粒がサラサラと表面を零れているかもしれない。ほら、雪崩が起きそう。
「ハルキ、おしごと、してた。せんせい、してた。いっしょうけんめい、いきてる」
「うん」
「なのに、かってにココ、きた。わたし、じぶんたちのことだけ、かんがえてた。ただ、ダショーをとりもどしたくて」
「うん」
「ダショー、きぼう。わたしたち、だいじ。ハルキ、わたしたち、きぼう。ダショーいたら、きっとうまくいく。そうおもってた」
「だから、あの時泣いたのか? 学校に来ちゃった時、職員室で泣いたのか? 」
夏休み明けの初日に、突然に学校に来たあの時の事だろう。泣きながら謝っていたのを思い出す。
あの時から、そう思っていたんだろうか。俺が普通に生活している事に気づいて泣いてくれたんだろうか。
ずっと、悩んでいたんだろうか。
判るはずもないのに。
異世界に住んでる相手に、生活があるなんて、普通は考えもしないもんだろう。ましてや、事情持ちで必死なミル側に、俺が平凡に生活しているなんて思わないだろう。
「ミルは優しいな」
そんな事考えないで、俺をかっぱらう方法だってあっただろうに。
俺の事なんか考えないで、異世界へ連れてけばよかったのに。
もっと自分達の事優先していけば、いいのに。
俺の事を優しいと言うミルは、優しいと思う。相手が傷つくなら、自分が傷ついて構わないなんて。
「ミルは強いな」
俺は、ただ一緒にいたいと、それだけ考えてただけだ。
自分本位で。離れたくない一心で。俺の気持ちを、優先していただけで。
俺こそ、自分の事しか考えてないよ。思わず、口の中で苦笑いをかみ殺した。
情けないのは、俺の方。
この一言も言えず、俺も俯いて尋ねる。
ミルは、この世界に来た理由を言ってくれた。本当の理由を、言ってくれた。
最も、認めたくない事だったけど。でも、それを確認しなくてはいけない。逃げられない現実になってしまった今、ミルにもう一度確認したかった。
「ミルは、俺を取り戻しにきた? って事は、俺は、本当にミルの世界にいた? 」
俯いたまま、頷く。揺れる長い黒髪の奥から、ポタポタと涙が零れて歩道のタイルに丸い跡が出来上がっていく。
「そっか。そうか。本当に、そうなんだ」
白い鷹が最初に残した言葉を思い出した。
『潮時ぞ』。あれは、こういう意味だったのか。
ミルの世界は、かなり事情持ちのようで。
異世界にいったダショーなる俺を、必死の覚悟で連れ戻さなければいけない訳があるんだろう。
たった一人の存在が希望になってしまうなんて、危うい世界。他に希望はないんだろうか。なんとか出来なかったんだろうか。こんな女の子一人を送り出さなきゃいけない程、イカレテるんだろうか。無茶苦茶だ。
涙を零し続けるミルの姿に、訳の判らない苛立ちまで感じてしまう。
「ミルが気にする事じゃない。全然ミルは関係ないよ」
「ちがう。ミル、『クマリ』。さいごの『大連』。なんとかする、あたりまえ」
「……よく判んないけどさ。一人で抱え込まないでいいんだよ」
何で、こうも一人で抱え込むんだろう。ミルは、それなりに責任ある立場なのかもしれないけど。いや、異世界に来るぐらいだから、それなりに向こうでは相応しい地位や役目を持っていたんだろう。
「ここでは、ミルはただのミルなんだから。俺、一緒にいたいよ。だから、ミルの悩みも一緒に持ちたい」
あぁ。誰かの結婚式で見知らぬおじさんが言っていた言葉って、こういう事だったかもしれない。
苦しみは半分。喜びは倍に。
一緒に悩めば、その苦しみは半分になるだろうか。これが、一緒に生きていくって事だろうか。
なら本望じゃないか。
俺の中で、何かが決まる。
ミルの顔に、そっと手を添えた。
流れる髪を分けて、顔を向かせる。
真っ赤な目をして、涙で濡れた顔。綺麗で、清らかな、大好きなミル。
「一緒に考えよう。どうすればいいか。ミルの心配が何なのかまだ判らないけど、きっと方法がある」
「ハルキ……」
「俺、ミルが好きだから。大好きだから。一緒にいたいから。だから諦めない」
そうして決めた道なら、きっと後悔しないだろう。俺の中の、ミルが好きな気持ちは、一番大事なものだ。一番、譲れない事だから。
チョークで荒れた俺の親指は、ミルの柔らかな肌には少し痛いかもしれない。
でも零れる涙が綺麗で、全て受け止めたくて。見下ろした濡れたミルの頬を流れる涙を、ささくれた指で拭っていた。
何度も、何度も。
ミルは、じっと俺を見上げて涙を零し続けた。
「きっと、方法があるよ。一緒にいられる方法があるよ」
「……うん」
「だから、だから」
一緒にいさせて。傍にいさせて。何時も、横にいて。
「だいすき」
薄紅色の唇が、短い言葉を零した。
「だいすき」
世界が、止まった。心臓の音が、消える。雑踏の気配も、感じない。
全ては、腕の中のミルだけ。愛しい、その存在が全て。
「ハルキ、まもる。なにがあっても。だいじ、ハルキ。だいじょうぶ」
それは俺の台詞だろ。
気づいたら、抱きしめていた。
投げられる好奇の視線なんて、関係ない。人目ある陽の下だなんて、関係ない。
腕の中のミルを失わないように。その心が逃げてしまわないように。今のこの瞬間が消えてしまわないように。
強く強く。ミルの腕も俺の首の後をかき抱いていた。
「ハルキ、まもる。だいすき」
「うん……愛してる」
「だいすき」
「大好き」
大好き。愛してる。これ以上を表現する言葉があれば、いいのに。
胸に溢れ出てくる気持ちを、もっと表現できればいいのに。
だから、こうやって抱き合うのかもしれない。ただ、肌を触れ合わせたいと、思うのかもしれない。
俺とミルは、じっと抱きしめあった。
露骨な視線も、よそよそしく避ける気配も、無視して。
だって、世界にいるのは俺とミルだけなんだから。
坊さんが走るほど忙しいから、師走。
いつの時代も忙しい時期らしい。冷静沈着であるべき僧侶も走ってしまう十二月。もちろん教師の仕事も忙しい。
冬休みなんてのは、部活がない人が満喫するものだ。
期末テストを終わらせ成績を出して保護者会をして一安心と思ったら、休み中の課題を用意。ようやく休みに入っても補習の準備や新学期の準備に追われている。冬休み明けに早々と実力テストもあるし、三年生の受験も本格化する。俺の担任クラスは二年だけど、三年の授業も受け持っているから休み中の補習もある。もちろん部活も。休む暇なんてない。冬休みに入ってからも、朝に学校行き仕事と部活をして、夜に帰る生活は変らない。
「ふぁああ」
特大の欠伸で大きく口を開いたところで、カウンター向こうのキッチンにいるミルと目があう。
「ハルキ、ねむたい? おふろ、はいる? 」
「うん。そうだなぁ。でも、この本読んでおきたいし」
「しごと? 」
「仕事の一つかな。今度の授業のネタ探しだし」
「しごと、しすぎ。すこし、やすむ」
少し眉を寄せるミルの顔に苦笑して、本を閉じる。
なんだか、すっかり家族みたいだ。キッチンから淹れたてのお茶を持ってきてくれるミルは、新妻……い、いや、そういう連想はヤバイ。
「お、お茶ありがと。風呂から上がったら飲むからおいといて」
「でも」
「じゃ、先に寝てていいよ。おやすみー」
あたふたと、用意されていたパジャマを掴んで脱衣所へと飛び込む。
あぁ、ヤバイ。
先週、動物園デートでミルの告白聞いてから、意識しすぎだ。好きな相手と一緒にいられるのは幸せだけど、一つ屋根の下で暮らしながら何も進展がないのは、苦痛をともなう忍耐が必要なわけで。
水野はそんな俺の相談を聞いて、呼吸困難になるほど電話口で笑いこけるし。これから先の展開は、難しい。
複雑な思いが混ざった溜息をついていた。