14 スキ
ガラスの向こうで笑っているミルを、ただ見つめた。
こんな気持ちになるなんて、出会った時には思いもしなかった。想像も出来なかった。
異世界……そう断言していいだろう、異世界から来たミルを好きになっていた。それまで一人で生活するのが普通だったのに、ミルがいない生活は考えられない。真っ暗でダイレクトメールと領収書しか待ってなかった家に、手料理を作ったミルが待っている毎日になっていた。一人で見ていた深夜のニュース番組は、ミルの「これなに? 」の質問コーナーになっていた。休日、本を読んでいるとミルが隣で図鑑を広げていた。ただ、傍に居てくれるだけで満ち足りていた。
そのミルが、異世界に還る事なんて考えられない。今の生活が消えてしまうなんて、考えられない。
「もっと、一緒にいたいだけなんだ。一緒に映画見たり、ドライブしたり、遊園地行ったり、散歩でもいい。ただ、一緒にいたいだけなんだよ」
「じゃあ、さ」
水野の声が、潜めるように囁く。
「ミルちゃんが関口を連れて帰りたいって言ったら、どうするよ」
「そんなの……」
一緒にはいたい。でも、ミルの世界はまるで中世のおとぎ話だ。魔法使いが実在して、刀を振り回して、喋る鷹がいる世界で暮らしていく自信なんてない。地球生まれの俺が、違う世界に行くなんて、想像も出来ない。
ただ、別れるのは、嫌だ。こういう考えを、自分勝手と言うんだろう。俺のわがままだろう。
ミルは、どう考えているんだろう。
「判らない。そんなの、判らない」
俺はこんなにも弱虫で、優柔不断。そんな俺が、ダショーとかいう魔法使いの記憶を持っているからと、ミルの世界で偉大な事が出来るはずもない。ミルが俺を連れて行かなくても、誰かが世界を救うだろう。大事な用事は済ませられるだろう。
これ以上考えるのが怖くて、カップを置いて歩き出す。ミルの声が聞きたい。別れる事なんか、考えたくない。
自動ドアが開き温かな空気に包まれても、満足出来ないんだ。たった数歩先のミルの傍に、いられればいいんだ。
ずっと、一人で平気だった。ずっと、一人で生きていくんだと思っていた。俺は、他のヤツより孤独に慣れてると思っていた。それなのに、いつの間にか俺はこんなにも寂しがりやで弱虫になっていた。
「あ、関口さん。これ可愛いんだよ」
俺に気づいた由美子さんが声をかけると、古びたチェロケースの影からミルの華奢な体が振り返る。ようやく見られた笑顔に、頬の筋肉が緩むのを実感。暖房が、心の中にまで染み渡る。
「由美子、そろそろ終わるぞ 」
「うーん。時計、買ってこうよ。新居に合いそうなのがあるのよ。あ、そうそう」
後からきた水野に駆け寄ろうとしていた由美子さんが、俺の耳元で囁く。
「ミルちゃん、青い指輪をじーって見てたよ。買ってあげたら? 」
「え……」
言葉の意味が判らず、振り返った俺の肩を水野が叩く。
「じゃあ、あとはお開きって事で」
「水野? 」
「思いっきり悩め。でもって、青春しろや」
「答えになってないだろ」
「オレが答え出してどーすんの。 じゃ、そーいう事で」
爽やかな青春ドラマ並の笑顔を残し、「まだミルちゃんと遊びたいのにぃ」とぐずる由美子さんを引きずって、店内の奥へと消えていく。
答えは自分で出すしかない。
それは、判るけどさ。出ないから悩んでるんだよ。
「はぁ……」
思わず溜息をついて顔を上げると、ミルにじっと見つめられていた。その視線で、胸の中のモヤモヤまで言い当てられてしまう気がしてしまう。茶色まじりの青い瞳には、魔力があるのかもしれない。こんなにも、好きになってしまったんだから。
「これ、綺麗だね」
心の感情を読まれないように、ミルの目の前に並べられている指輪へ話題を移す。
銀細工で細く複雑な紋様をつくる指輪の中に、青い石が蔦に絡まるようにデザインされたものがある。小さな小さな、シンプルな指輪。由美子さんの言っていたものは、コレだろう。
「なんの石だろうね。トルコ石?」
「ハルキ、わからない? 」
「うーん。俺、こういうのな苦手なんだ。でも、綺麗だな」
「ハルキのめのいろ、おんなじ。きれい、あお。そらより、きれい、あお」
「そうかな? 」
今まで疎ましかった自分の目の色をそんなに綺麗と褒められたら……あぁ俺、頭の中が沸騰しそうだ。体中の血液がボコボコと沸騰してるんだ。だから、冷え切った手が熱くなってるんだ。
目の合った店員さんが、にこやかな笑顔で「指のサイズ、測りましょうか」という申し出をしてくれたのを、上の空で聞いて頷いていた。
ロクに値札を見ないで「買います」と言って財布からカードを出していた。
正気が戻ったのは、北風吹き晒す店の外に出てからだ。
興奮して火照った頭が冷えた。寒空の下で、ようやく理性を取り戻す。
「ハルキ、これ、いいの? 」
「うん。ミルに似合う……けど、少しサイズ大きいかな。ブカブカしてない? 」
「だいじょうぶ。ありがとう」
ミルの細い指で、指輪がクルクルと回っている。一点ものの手作り。似たデザインの指輪があったが、「このいし、いい」というミルの言葉で即決。歩きながら右手の薬指を眺めるミルは、少し困ったような笑顔を浮かべている。
何故だろう。ミルは、時々こんな顔をする。嬉しいけど、その前に大きな感情が邪魔している表情だ。素直に喜べない、そんな事を言っている顔だ。最初の頃は遠慮しているのかと思った。生活を全て俺に依存しているのだから、素直なミルは遠慮しているのだと思っていた。でも、今日の告白を聞く限り、そんな簡単な訳だけではないと確信する。
俺に隠している事がまだあるんだろう。それが何なのか想像も出来ない。大きな重い事情を細く小さな体に押し込んで、平然を装うミルから無理には聞きたくない。きっと、俺もミルも傷ついてしまうから。
このままじゃ、いけないんだろうか。
二人で、何もなかったことにして、この世界で生きていったら駄目だろうか。
落ち葉が積もった通りを並んで歩いてる俺達は、周りのカップルと何も変らない。何も変らないのに、抱えたものが重過ぎる。屈託なく笑うミルの顔が、見てみたい。
「ねぇ、この後どこ行こうか」
「ゆみさんとみずのさんは? 」
「急に用事が出来たみたい。また、こうやって出かけたいね」
「うん。どうぶつえん、おもしろかった」
「そっか。……ミルは、行きたい所ある? 山とか、海とか」
「ハルキ? 」
沢山の時間を共有したいよ。もっと沢山の表情を見てみたいよ。そんなのは、当たり前の感情だと思うけど、俺とミルには許されないんだろうか。
小洒落た通りと街路樹の向こうに、灰色の雲。重そうな冬の雲の切れ間から一筋の光が差し込む。あの光のカーテンは、どこに当たってるんだろう。
俺達を当ててくれ。天から差し込むその光を、俺達に当てて下さい。
あの光の先に神様なんていないと知ったのは、いつだろう。そんなに現実甘くないと知ったのは、いつの頃だろう。
神様なんて、信じてなかった。けど、今なら信じるから。ミルと出会わせてくれた存在を信じるから。
だからどうか、俺からミルを取り上げないでくれ。
何処にも、行かないで。
「いっぱい、行こう。色んなところ、ミルと見てみたいんだ」
細い手を思わず繋いだ。指先に触れた指輪の冷たさが、切なくなる。手を繋いでも、言葉を尽くしても、ミルの心を変えるにはどうすればいいのか判らない。
「クリスマス、一緒にケーキを焼こうか。ばあちゃん仕込みの特製チーズケーキも作ろう。正月はさ、初詣しよう。屋台でたこ焼き買ってさ。おみくじもしよう。あと、節分もしよう。海苔巻きの丸齧りも。水野達の結婚式も出ような。で、桜が咲いたら花見しようよ。弁当もってさ」
「ハルキ……」
「だから、だから、一緒にいよう。一緒に、暮らしていこう」
「ハルキ……」
返事は、ない。
俯いて、歩くミルが答えを俺に突きつけていた。
繋いだ手が、強く強く握られる。
信じていいのか? その手の強さを、信じていいのかい? 繋ぐ手の強さがミルの本心だと、信じていい?
「ハルキ、やさしい。とても、とっても、やさしくて、どうすればいい? 」
震えた小さな声が、零れた。黒髪の影でミルの顔が見えない。
「わたし、ひどいこと、してる。なのに、ハルキやさしい。なんで? 」