11 蘇る呪詛
木枯らしが吹く中で、白熊が嬉々として水に飛び込む。オットセイが寒空に叫ぶ。テーブルのコーヒーは湯気を立てて、急速に熱を奪われていく。
こんな寒い行楽だけど、来てよかった。少なくとも、シマウマの前で「そら、とばない? なぜ? 」とのたまったミルの誤解は解けた。
ミルの世界では、四本足も空を飛んでいるのだろうか。最初に空飛ぶ麒麟に乗ってきたミルにとって、空飛ぶ動物は鳥類のみという事実は衝撃だったらしい。目を丸くして「とばない? これ、とばない? 」と聞いて園内を駆け巡った。こんなに動物園が面白いなんて思わなかった。
いい年して象やカバやペンギンに大歓声を上げて、高台の休憩所に陣取った俺達は傍からみれば小学生の遠足状態だっただろう。十二月の午後は予想通りに人も少なく、遠慮なくテーブルにケーキを並べてはしゃいでる。
「うま! サイコー! 」
紅芋のタルトに特製モンブラン、アーモンドとリンゴのパイ。これほどの幸せはない。あぁ、冬って最高!
「関口の緩みきった顔、普段から想像出来ない」
「別にいいじゃん。人の幸せな時間を邪魔するなよ。それより、式場とか決まったのか?」
「なんとかね。春休みに式を挙げるよ」
「へぇ。じゃ、今忙しいんじゃないの? 」
「まぁね。住むトコも家電も揃えなきゃいけないし大変だよ」
大変だよ。そう水野はいうけれども、由美子さんと頷きあう顔は嬉しそうだ。結婚って、そういうものなんだろう。苦労は半分、喜びは二倍になるって、誰が言っていた言葉だろう。同僚の結婚式に行った時、どっかの親戚のおじさんだったか。
水野達の結婚は、もう始まったのかもしれない。一年もしたら、子どもが生まれたりするんだろうか。そしたら、そしたら……。
今みたいに、ダラダラした付き合い出来るだろうか。
「そうそう。こないだ衣装選びしたの。ミルちゃんも見て見て」
「すごいぞ。これで半日終わったんだから」
バッグから取り出されたデジカメの液晶画面に、色鮮やかな衣装をまとった由美子さんが現れる。
少し照れ気味な白無垢姿、色内掛けにカクテルドレスにウエディングドレスと変っていくたびに、誇らしげにお茶目に変化していく。水野が撮っているんだろう。カメラアングルも遊びが入り、どアップまである。幸せの悪乗りだ。なんだか、家庭をもっても、二人のこのノリは変らない気がする。
僅かに将来の水野家が予想できるカット集。
「これ、ユミコさん? 」
「どれが一番可愛いかな。私はこのドレスが可愛いと思うんだけどなぁ」
「おひめさま? 」
目を真ん丸くしたミルは、首を捻って考え込む。つと、立ち上がって近くの売店の軒先に立って売り物の一冊の絵本を指差した。白鳥の湖。幼児用にデルフォメされた表紙の絵には、魔女の呪いで昼間は白鳥にされたお姫様が書かれている。白いウエディングドレスに、ティアラのお姫さま姿。もしかして、由美子さんを絵本のように城持ちの姫様と思ったんだろうか。
一瞬、水野達三人で顔を見合わせてしまった。確かに、結婚するからとこんなドレスを着るのは変だ。当たり前だと思っていた事を、どう説明すべきか。
「結婚する時にね、女の人がお姫様の格好するのよ。女の人の人生の晴れ舞台でしょ? お姫様みたいに大事にしてねって」
そう説明するか。由美子さんの妙に説得力ある解説に、ミルはもう一度首を捻る。北風が、艶やかな黒髪を揺らしていく。
異世界の人間でなかったら、ミルは大学生ぐらいの年齢だろう。そんな子が首を捻るのはやや子どもっぽいかもしれない。それでも、懸命に考える仕草は可愛らしい。
俺は携帯を取り出して、写真のフォルダを液晶画面に出した。27年前の父さんと母さんが、赤ん坊の俺を抱いて微笑んでいる。
「これ、ダレ? 」
「これは俺の父さんと母さんの」
「ハルキの? 」
「そ。こうやって結婚して、子どもが出来て、家族になってくんだよ。俺ん家は両親とも早く死んだから、一人暮らししてるけど」
「お前、こんな写真入れてるのか? 」
「死んだばあちゃん新しいもの好きでさ。ばあちゃんの携帯の中に入れてあった写真がもったいないから、メモリーカードへ移したんだよ。それから結局消せれなくてさ」
こういうものって、なかなか消せられない。新し物好きだったばあちゃんのパソコンやケータイから、遺品整理の時に膨大な量の写真が出てきて当時はずいぶん驚いた。が、ばあちゃんが大事に思っていた想いまで消してしまうような気がするから、今ではお守りのように持っている。
親指を動かすと、次々に写真が出てくる。久しぶりに見る写真は、自分の過去でも新鮮だ。
「赤ちゃんかぁ。いいよなぁ。可愛いよなぁ」
「気が早いって」
ウットリと自分の世界に入る水野と、現実に引きとめようとする由美子さんが、早くも夫婦漫才をはじめだす。その騒動を横目で見ながら、ミルの表情の変化が気になる。じっと両親の写真を見つめる表情は、あまりに真剣だ。それも、衝撃を受けたような表情。
「わりと両親に似てると思うよ。鼻筋は父さんだし、目元は母さん似だし。目は俺だけ青なんだけどな」
「……ハルキ、このふたりのこども? 」
「うん。まだあるなぁ」
何年ぶりだろう。最後に見たのは、ばあちゃんの遺品整理の時ぐらいかも。となると、何年ぶりか。
うっすらと細かい埃を被っていたような、記憶。夫婦漫才を中止した二人が、好奇心で光らせた目を向けていた。
「見せモンじゃないぞ。えーと、これが一歳の誕生日だろ。これは……」
はちきれそうなまん丸のピンクの頬にエクボを作っている赤ん坊。一本の蝋燭が立てられたケーキがあるから誕生日の写真だろう。自分ほどの大きさのクマのぬいぐるみに抱きついている写真。母親に抱かれて電車に懸命に手を伸ばしている写真。ヨチヨチ歩きで鳩を追いかけようとしている写真。
両親が俺に残してくれた、最高のプレゼントだ。俺は、この二人から沢山の愛情を貰っていた事が判る。生まれた俺が何故か青い目だから二人は悩んだと思うが、愛情を注いでくれたのは判る。赤ん坊の俺が主役のアルバムで、僅かに小さく端に写る両親は、穏やかな笑顔をしているから。
水野と由美子さんは、すっかり「赤ちゃんが出来たらきっと……」という仮想の話で盛り上がっている。が、ミルは思い悩むように重い雰囲気。
「ハルキ、こども? うまれた? 」
「そうだよ。こうやって、結婚して、子どもが出来て、家族になるんだ」
なんだか幼稚園児が小学生に『赤ちゃんはどこからきたの? 』と質問されたような、妙な焦りに困ってしまう。まさか、こんな説明がいるとは。ミルの世界では違うんだろうか。チラリとそう思ったが、とても聞く勇気はない。
「とにかく、結婚ってこういう事」
フォルダを閉じ、話題を変えようとした途端だった。
ミルの手が俺の手首を掴んだ。その強さに、思わず顔を上げる。怖いほど真剣なミルの視線が、俺を見ていた。
「ちがう。ハルキのとうさん、かあさん、ちがう」
日本語が、判らなくなったんだろう。そうに違いない。
「しんだ。『後李帝国』、クマリへ来た。クマリ、しんだ。わたしたち、だめ、した。でも、だめ。さがした。ハルキ、さがした。みつけたハルキ、しらない? おぼえてない? 」
痛いほどつかまれる手首が、現実を叫ぶ。見つめるミルから、視線が外せない。穏やかだった茶色混じりの青い瞳の中に、今まで見たことのないほどの怒りが見える。その怒りは、俺に向けられている。けど、ミルの話が全く判らない。言葉はなんとなく判るが、意味が判らない。
「ハルキ、きぼう。わたしたちの、だいじ、きぼう。でも、ぜつぼう。でも、だいじ。だから、ダショー・ハルキの」
「俺はダショー・ハルキじゃない! 」
気づいたら、ミルの手を払いのけていた。携帯が飛んで、テーブルのカップを倒す。湯気を立てて褐色の液体が広がっていく。感情が壁をぶち破っていく。今まで抱えていたモヤモヤが、言葉となって広がっていく。
「いくら俺が唄を唄えても違う! 俺はダショー・ハルキでも……ダショー、ダショー、えあしゅてぃます、なきあ、でもなくて」
土煙を上げて崩れ落ちていく日干し煉瓦の壁。耳をつんざくような赤ん坊の泣き声。腹の底からわきあがる憎悪、苛立ち、悲しみ。紅に染まる大海原へ響く、狂ったように奏でる弦の音。愛しくて、苦しくて、泣くような歌声が水平線へ消えていく。
激情が、何処からともなく湧き上がる。俺の抱いた一瞬の苛立ちの感情が誘い水だったように、おぞましい程の負の感情が映像と共に噴出してくる。
頭の中にフラッシュされる記憶に俺の意識が飲まれる。これは誰だ。この感情は、誰の記憶だ。俺じゃない。俺じゃない誰かのものだ。今まで見ていた記憶の欠片ではない。
怖い。怖い。怖い! 俺の中に何かがある!
『 その半身に父祖の血がある者よ、この大地に流れていく限り、恐れろ、怯えよ、命乞いをしろ。私の雷が五臓六腑を焼き尽くそう。末代までの苦しみを与えよう 』
口が呪詛を唱えていく。異界の言葉であっても、ソレが身の毛がよだつほどの意味が判る。
水野が由美子さんを庇うように立ち上がる。
違う、違うんだ! これは俺じゃない! 俺なんかじゃない!