10 温もりの感触
車のキーを取りだそうと彷徨っていた手で、慌ててポケットを探る。入れっぱなしだったハンカチしか見つからないけど、まぁしょうがない。
「えぇっと、その、泣かなくていいよ。ね? 」
大きくシワのあるハンカチを無理やり広げて差し出す。ミルは受け取る事もせず、首を振った。
「ダショー・ハルキ、……。おしごと。……、……。ミル、『大黒丸』……、だめ。ごめんちゃい。ミル、だめ、……」
幼児番組で耳にした日本語を駆使して、必死に何かを伝えようとしている。けど殆どが通じない言葉だから、意味は判らない。でも、その表情と僅かな単語で染みるようにミルの気持ちが伝わる。
勝手に学校に来た事を謝っているんだろう。まさか、こんな騒動になるとは思わなかったんだろう。知らない人に囲まれて、不安だったんだろう。たった一人で、ここまでどうやって来たか判らないけど、怖かっただろう。
……いや、違うかもしれない。
ミルは一人で異世界に来るぐらいだ。ここ一週間の共同生活で判ったのは、ミルは精神的に強い事。言葉も文化も違う世界で、彼女は涙一つ不安げな顔一つ見せなかった。そのミルが初めて泣いた。ポロポロと、大粒の涙で頬を濡らした。俺が思う以上の理由があるのかもしれない。
月に照らされたミルの影まで、心細そうに伸びている。校門の桜がザワリと揺れる。いつの間にか涼しくなった風が、俺とミルの間を駆け抜ける。
「ごめんちゃい。ごめんちゃい。ダショー・ハルキ、ごめんちゃい。……」
「もう、いいよ。怒ってないから。だから泣かないで」
「ごめんちゃい。ごめんちゃい……」
「ミル、もういいから」
言葉じゃ、伝わらない。伝えられない。
思わず、手を伸ばしていた。恐る恐る、ミルの肩を抱いていた。想像以上に華奢なミルは、すっぽり俺の腕の中に入ってしまった。ミルは慌てて身を引こうとしたけど、俺は思わず腕に力を入れていた。
言葉じゃ、伝わらない。心が伝わらない。もどかしい思いは、こうする以外に伝えられない気がした。
大切な事を、伝えたいんだよ。体温で、伝えられるのならいいのに。触れ合う感触で、ミルの気持ちも俺の気持ちも伝えられるのならいいのに。
「俺こそ、ごめんな。一人にしてごめんな。仕事だから、どうしようもないけど、それでもミルを不安にしてごめんな」
「ダショー・ハルキ」
「ハルキでいいよ。ダショーなんて知らない。俺はハルキだよ」
ほんのりと温かい。ミルの髪に、そっと顔をうずめてみる。
きっとミルは、何か知っている。俺に関する何かを、知っている。だから、こんなにも泣いているんだ。あの白い鷹の言った事が本当ならば、俺は何かを忘れているらしい。
研修帰りのあの日、異世界と接触したあの時から俺の頭に蘇る映像の欠片は、忘れた記憶の欠片なんだろう。バラバラのピースだけ溢れ出ている状態だけど、全体の絵が完成する時がくるんだろうか。そしたら、どうなるんだろう。俺は俺じゃ、なくなるんだろうか。ミルが呼ぶ『ダショー・ハルキ』になるんだろうか。
ダショーという言葉が、何を意味するか知らないけれど、そんな名前で俺を呼んで欲しくないんだ。俺は関口晴貴で、ダショーなんて言葉はつけて欲しくないんだ。
今の俺を見て欲しい。今の俺の名前を呼んで欲しい。何者か判らない俺の事を呼ぶんじゃなく、今の俺を呼んで欲しい。
オカシイな。これじゃあ。俺はミルの事が好きみたいじゃないか。
異世界から来た、正体不明の女の子なのに。何も知らない相手なのに。
思わず空を見上げる。
澄み切った秋の夜空は黒々とした闇を広げてる。その底なしの暗闇に平然と光り輝いている月。
そうだ。何も判らない不安の中で、ミルの事を考える気持ちだけは煌々と存在している。偽れないほど、輝いている。ミルの事を考えるだけで、こんなにも苦しいんだ。悲しいんだ。ドキドキするんだ。
ミルにどんな秘密があるか判らない。何で泣いているのかも、心の中の本当の理由まで判らない。俺は何が出来るか判らない。どうしたら、ミルが泣き止んでくれるかも判らないんだ。
言葉は伝わらない。思いも判らない。ならせめて、温もりの感触だけは伝えたいんだ。
「大丈夫だよ。そんな顔すんなよ。大丈夫。だから、笑ってよ。ミル、笑ってごらんよ」
俯いたミルの顔が、俺を見上げた。茶色交じりの青い瞳から、涙が一筋零れ落ちる。
笑って。あの月のように微笑んで。俺は、それだけでいいんだ。ただ、ミルに笑って欲しいんだ。
「ハル、キ。ハルキ。ハルキ」
軽い音がして、俺の背に温かい感触がしがみついた。
足元に転がったチェロケースを見て、一瞬目を疑った。
今まで片時も離さずに持っていた大黒丸を、離している。白い鷹ですら、ナントカの宝と言っていた大切らしい、その刀を放した。その手で、俺にしがみついてくれた。
「ミル」
「ハルキ、ハルキ」
言葉が足りない。温もりも足りない。もっと、もっと、心の中身を見せたい。伝えたい。この気持ちを全て与えたい。
爆発しそうな感情で、ただ強く抱きしめる。
そうだ。俺は、ミルが好きなんだ。大好きなんだ。
思いっきり、ミルの黒く艶やかな髪に頬をうずめた。華奢な肩を強く抱く。ほんのりと甘いシャンプーの香りと、仄かな体温が心地よい。
心臓のドキドキは、心地よい速さに変っていく。満ち足りていく。大好きだ。やっぱり、大好きだ。
俺、ミルが大好きだ。
その瞬間、場違いな音が低く長く響く。
聞き覚えのある音。僅かに俺の腹部に伝わる振動。
まさか。
そぉっとミルを離しその顔を覗き込むと、色白な頬も首筋も見る間に熟れたプラムのように、赤く赤く染まっていった。
「ひょっとして、お昼、食べてないの? 」
俺の質問に返すように、再び低く鳴る音。明らかにミルの腹部から盛大な腹の虫が空腹を訴えている。
可哀そうなぐらい真っ赤になったミルに、思わず微笑みがでる。
なんて、かわいいんだろう。あぁ、俺、重症だ。腹の虫を響かせる姿も可愛く思えてしまうなんて。
思わず笑い声が溢れると、真っ赤になったミルが俯いてしまう。見下ろす艶やかな天使の輪が浮かぶミルの頭を、何度も何度も撫でた。
知りたい。どんな事でも知りたい。ミルのどんな事も知りたい。見たい。
「ごめんごめん。じゃ、行こう。ごはん、たべる、いく。いいね? 」
「ごはん、たべゆ。うん。うん……ごめんちゃい」
「ごめんなさいは、いらない。遠慮しないでいいから」
「えんよ、ない、いいから」
「……そこは真似しなくていいから」
まだ溢れる笑い声を抑えきれないまま、地面に転がったチェロケースを拾い上げてトランクに押し込める。
助手席にミルが乗り込むのを見ながら、キーを回す。
エンジンがかかる。俺の中の何かも、動き出した。
ミルの秘密が何でアレ、俺はきっとこの気持ちのまま突っ走るだろうな。
ギアをあげてクラッチを離す。アクセルをゆっくりと踏んでいく。
俺とミルの関係は、何か変った。多分、そう思ってるのは、俺だけじゃないと思う。
チラリと助手席を見ると、俺の顔を見ていたミルと視線が絡み合う。ライトの光と街路灯の微かな灯りの中で、ミルは微笑んだ。
うん。俺の妄想じゃ、ないと思う。
何か、変った。
「おひさしぶいです。」
「日本語判るようになったんだね。雰囲気変わったなぁ」
「チェロ背負って、どうしたのさ」
「中身はアレだよ。あの刀」
落ち葉舞い散る動物園。
動物の彫刻を前に、ブーツにツイードのコートでチェロケースを背負うミルは、黙っていれば育ちのよさそうな音大生。久々に会った水野と山口さんも驚いている。
そのチェロケースを僅かに揺らして、中の音を聞かせると目を丸くした。
俺達の周りを歩く人たちも、まさか刀が入っているとは思っていないだろう。音大生風で清楚に見える女性が、立派に銃刀法違反してるなんて思わないはずだ。
「なんで? そんな危ないもの置いてこればいいのに」
「だいじ。『大黒丸』、『クマリ』、だいじ。もってる」
元々、このチェロは演奏者になれなかった夢を俺に押し付けようとしたじいちゃんの物だ。じいちゃん、こんな風にケースを使われるとは思ってもいなかったと思う。ごめん。でも助かってるよ。
死んだら、じいちゃんに謝っておこう。なんか、そういうの多くなってきたけど。
「さっさと中に入ってケーキ食おうぜ。学校の近くにメチャ美味い店が出来たんだよ」
『大黒丸』という名前らしい刀は、かなり大事らしい。夕方の学校で抱き合った時以来、刀を落とす事はしていない。あれが例外だったようで、外出する時は必ず担いでいる
まぁ、それはともかく。
ケーキの紙箱を見せて、思わず顔が緩む。
合唱コンクールの細案も提出し、期末テストの問題も作り上げた休日は素晴らしい。テスト週間だから、外出しても生徒に会う心配は殆どない。遠慮なく、水野達と動物園に来た。北風が吹く動物園なら、人もあまりいないだろう。人込みに不慣れはミルに配慮して、寒空のお出かけ。それでも、買い物以外で外に出かけるのは新鮮なのだろう。ミルは朝からソワソワしていた。
いや、俺もソワソワしているかもしれない。こういう、デートらしい事はしなかった。あえて、してこなかった。
好きな相手と一つ屋根の下。だけど、好きな相手を何一つ知らない。知ろうにも言葉は通じないし、知る事は、俺の場合は怖い事でもある。
手を繋ぐ事もしていない。肩を抱いたのは、あれっきり。
それでも、ミルが傍にいてくれる幸せ。
水野達のデートに付いてく名目で、ダブルデートもどき。
必死で過ごしてきた俺への、ささやかで密かなご褒美。