1 始まりの夕暮れ ~ 一章 二人の距離 ~
ドアから一歩踏み出した途端、猛烈な湿気と暑さが肌に襲い掛かった。思わず回り右して建物の中に戻りたくなるが、背後から吐き出される人の波がそれを許さない。
押し出された勢いのまま、歩道の空いた空間に出てから振り返る。
築五十年という古いビルで効き過ぎた冷房がつらかったが、今となっては天国だったと思い知る。早くも噴き出した汗が襟に滲んでいく。不快感にネクタイを緩めて溜息。肺から零れた息が辺りと同じ湿度と気付いて、さらに体感気温も上昇する感覚にげっそりする。
「関口ぃ」
間延びした声に振り返ると、見知った顔。すでに汗だくなのは同じだ。
「たまんねぇな。取りあえず、どっか歩こ。この人込み見るだけで暑苦しい」
「水野でも滅入るか」
「当たり前だろ。あ、大塚さんじゃん。おーい」
水野もネクタイを緩めながら、人込みの中へ手を振る。
老若男女入り乱れる人込みの中から、よくも知り合いの判別がつくものだ。水野の器用さに関心しながら、右肩にかけたリュックを背負いなおす。
夕焼けの赤味を帯びた光に照らされコンクリート細工を壁面に施した、昭和のニオイを漂わす年代モノのビル。そこから一斉に出てきた人々の群れに、歩道にいた若い茶髪の集団は異様なモノを見る目つきで離れていく。
それはきっと本能だ。
何故か社会人の格好なのにリュックや肩掛けバック率が高い。スラックスの端から見えるソックスは綿の白。女性もどこか垢抜けないローヒール。大きなカバン。それでいて、外見の年齢より精力ある雰囲気。
若者が活気ずく夏の夕暮れの繁華街近くに突如現れた俺たちの共通項は、教師だ。学校の先生。教員。地方公務員。
夏休みの繁華街独特の猥雑とした雰囲気すら、この集団は規律していくだろう。いや、今はそんな元気はさすがにないか。五時間ぶっ続けの研修の直後にこの暑さ。ビルから出てきた顔は、どれも疲れた顔をしている。
「久しぶりだなぁ。去年の研修以来じゃない? 」
「そうだね。あいかわらず水野くん、元気だねぇ。夏男のままじゃない」
「おう。部活やってるぞ。見ろよ、この日焼け」
腕時計を僅かにずらすと、真っ白な肌が覗く。炎天下、毎日グランドにいる野球部の指導していれば日焼けもするだろう。大学時代から夏も元気だったが、それに磨きがかかったようだ。
一年ぶりに会った彼女は、より落ち着きと知性を漂わせている。
俺と水野と同じゼミ仲間。学生の当時から、彼女は飛びぬけて美しかった。男どもの、淡い憧れの視線を弾き飛ばしていた。
「それに比べて、関口くんは白いね」
「吹奏楽顧問。屋内。インドア派だから。大塚さんは? 」
「私はバトミントン。運動部でもインドア派。日焼けはしないけどさ」
体育館は蒸れてキツイのよねぇ。そう言って、手にしていた研修資料で顔を仰ぐ。僅かに化粧の香りが鼻先を掠めた。
ノースリーブの白のシャツから伸びる腕は、真っ白な筋肉質。程よい曲線美に、慌てて視線をずらした。
四年間をともに過ごして、卒業して、先生して六年。すっかり女の香りが濃厚に漂いだしている事に、腹の奥が僅かに熱くなった。偽れない事実に、罪悪感。
「よかったらさ、三人でどこか行く? もう六時だし飯でも」
「うーん。水野くんの薦めるお店は外れないから行きたいんだけど、実は先約があって」
その顔が僅かに綻ぶ。あ、これはデートか。
男の直感。素早く水野を見ると、逞しい顔が打ちひしがれていた。太い眉が八の字に下がってしまっている。まるでお預けを喰らった大型犬。
分厚い研修資料の入った封筒で頭を小突く。お前、彼女いただろうが。
「ごめん。今度飲み会あったら行くから、誘ってね」
「おう。他の連中誘って中間テストの辺りでやろうか。部活ないから時間とれるだろうし。なぁ、水野」
「そ、そだな。旨い店紹介するから」
「うん。期待してるから。本当、ゴメンね」
「いいからいいから。またね」
軽く手を振ると、小走りでかけていく。
バッグから取り出した携帯電話で、僅かな指先の動きで通話しながら人波の向こうに消えていった。
白のシャツが眩しい。少しだけ、侘しさ。
「あぁ。吉田ゼミの天使にも彼氏が出来たかぁ」
「時間の問題だっただろ。幸せそうだからいいじゃん」
「男前の台詞だねぇ」
太く褐色の腕を組んで唸る。
卒業から六年。教育大だったから、大部分は教師をしている。それなりに社会人している。
そう。みんな、もう大人だ。
キャンパスに迷い込んだ犬に眉毛描いてアホしてた俺たちも、分別をつけて大人になっている。気付いたら、もう大人の世界に入っていた。
「大塚さん、美人だしなぁ。そろそろ結婚しそうだ」
「なんだよ。残念? 」
「いんや。まだ決まったわけじゃないしっ」
「山ちゃんあたりに聞いてみたら? 仲よかっただろ」
「そだなぁ……ああぁ、でもやだな。ホントだったらおれ、ショックだよっ」
「お前が言うかな。彼女とうまくいってるんだろ」
歩道に溢れていた大量の教師の人波も、互いに声を掛け合い連れ合い、次第に少なくなっていく。
日の長い夏といえ、高層ビルの谷間となると、ネオンの方が明るくなってきた。
灯りに集まる虫のように、華やかに着飾った人だけは絶え間なく集まってくる。
「まぁ、俺の話は追々と。とり合えず、飯を食べに行くか」
「男二人になっちまったけど、しゃあないか……」
途端、油と香辛料のニオイの埃っぽい風がビルの谷間から吹き込んだ。
「きゃあ! 」
交差点前で風船を配っていた女の子がミニのスカートの裾を押さえようとした途端、原色の風船が幾つも街路樹の上へ飛んでいく。派手に企業名がプリントされた風船が、ゆうらりと風の合間を縫い夕闇の空へ上がりかける。
「ふうせんだ!」
「ママ、風船!」
「とって、とってよう」
雑踏から上がる可愛らしい声に、思わず笑みが零れる。
ビル風を操るのは難しい。口笛を奏でる。低く、高く、まっすぐに。音を空気に蕩かすように。この空気を貫く強さを持たせて。
流れろ。落ちろ。立ち止まれ。
上空を流れていた風が、辺りを包み込むように地上に向けて吹いてくる。と、舞い上がろうとした風船が押し戻される。それはまるで、映像を巻き戻しているような光景。
「あ、ゆうクンとこに風船がきたよ」
「わぁ! ふうちぇん! 」
「風船が降ってきたよ! ママ、これいいのかな? 」
いいんじゃないかな。これ、タダで配ってたぞ。
突然空から舞い戻ってきた風船に、子ども達は歩道を走り回って掴もうとはしゃぐ。
物理の法則を無視した光景に見蕩れた大人と、はしゃぐ子ども。戸惑いながらも、風船を飛ばしたアルバイトらしき女の子が「どうぞお持ちください」と声をかけ出す。子どもの親は「あら、まぁ」とか「すみません。じゃあ、遠慮なく」とか挨拶を交わす。なんとなく忙しく如何わしさすら感じた繁華街の空気が、この一角だけ暖かくなった感覚だ。
うん、いいことしたかも。
「関口。今、善いことしたって満足してるだろ」
「どっかに飛んでゴミになるよりいい」
「あんまり使うなよ」
「あんまり使ってないよ」
水野が太い腕で先を促すように引っ張る。
確かに、今の口笛を不審がられてはマズイ。カンがいい人が、この光景を見ていれば真相がばれてしまう。
「関口は結構お人よしだから。大丈夫かよ」
「だから、めったにしないって! お前の時とか今みたいな時とか、忘年会のかくし芸とかで」
「だから心配なんだって」
俺の能力。不可解な能力。空気を動かし風を操ったり、マジックのように物質に穴を開けたり。
水野の時は、バイクで転倒して砕けた腰骨をくっつけた。
俺は音を使って、モノを動かす。それは、物理を無視した法則。
「変な宗教とかにバレたら、お前マズイじゃん」
「教祖になって、大もうけとか。水野、一緒にやらない? 」
「あのなぁ」
「判ってる。水野だから言ってる。お前は、いい奴だから」
大学一年の夏。バイクの免許を取りたての俺達のツーリングで、山道の急カーブでトラックを避けようとハンドルを切りすぎて転倒した水野。トラックは走り去るし、信州の山奥で救急車なんて待ってられない。焼けたアスファルトの上で呻く水野の姿を見て、思わず俺は必死に唄っていた。
感じるままに。頭の片隅から湧き上がる唄を、朗々と唄っていた。
固く目だけは閉じて。ただ、砕けた骨と、ちぎれた筋肉と血管と神経を繋ぎ合わせる事に集中して。
死んでいった祖母や祖父と、能力は使わないと約束していたのに。
能力を使わず、二人の死に際を見送ったのに。
無我夢中で俺は水野を助けて。
唄い終わり恐る恐る目を開けた俺に、水野はまっすぐに目を見て言ってくれた。
「ありがとう」と。
偏見も恐れも持たず、未知のものを受け入れた水野を、俺は尊敬している。
「じいちゃんもばぁちゃんも死んだ今は、この事知ってるのはお前だけだ」
「彼女出来たら、ちゃんと見定めてから告白しろよ」
「彼女、うん、あぁ」
「関口の人生最大の難問だ。この大問題を受け止めて秘密にしておけるだけの彼女見つけるのは大変だよなぁ」
他人事の口調で言い切られ、思わず天を仰ぐ。
彼女出来ない歴二十八年。月にでもお願いすべきか。
ビルの切れ目から覗く白く細い月を見上げ、息を飲む。
「鷹? 」
純白の鷹が、ビルの屋上につけられたネオンの広告に留まっている。
確かに、視線があった。飛び込む金色の瞳。強い意志が、体を貫く。
『潮時ぞ』
その言葉が純白の鷹からなのは、確信できる。
金色の瞳が、笑みを浮かべるように細くなる。
鷹が笑う? そんな馬鹿な。
あっけにとられて空を見上げる俺の目の前で、数回羽ばたいて消えていた。気づけば、口をあんぐりと開けて呆けた俺は水野に小突かれているし。
何だったんだ、今の。