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剣道の光 第一話 吉瀬善五郎  ~剣で人と町を変えた男~

作者: 三野原明音

 剣で人と町を変えられる、と本気で信じ、生涯を社会改革へと捧げた男がいた。

 その男の名は吉瀬善五郎。田主丸町における剣道の父と謳われた人物である。


 著名な剣道家が自伝などを後世に遺すことが多い中、善五郎は生前、一冊の本も物していない。しかし、現在の田主丸武徳館の前に佇む善五郎の胸像の碑文にあるが如く、「門下生六百四十余り、外に師に教えを受けた者数知れず、門下より斯道の大家、実業家、政治家を多く輩出し、師を剣聖と仰ぎ」賞賛する弟子たちが残した言葉から、彼の人となりと、当時の田主丸に起こった剣道の一大ムーブメントの活況ぶりを伺い知ることは出来る。

 今回は、過去の文献から彼に関する記述を拾い出し、可能なかぎり彼がどう生き、そしてどのように人々を巻き込んでいったのかを私なりにまとめてみたい。



 吉瀬善五郎は安政二(一八五五)年、古くから植木や苗木栽培がさかんな地として知られる福岡県浮羽郡田主丸町に、蝋製造を業とする吉瀬仁作の三男として生まれた。

 物心がつくと、彼は母方の祖父で大分県日田の全寮制私塾・咸宜園で学んだ秋山新一郎のもとで手習いをはじめ、長じて、同じく咸宜園門下の儒学者・吉富復軒より漢籍を学んだ。 

 明治五年、十七歳のころ、自らの病弱な体質を痛感。心身鍛錬のため、改めて撃剣(現在の剣道)を秋山の寺子屋で修行するも、やがて師もその才に気づき、さらに久留米藩の福井常三郎と妹尾敬八両師のもとで久留米藩御流儀・津田一伝流を学ばせ、修武の結果、ついにその奥義を極めたのであった。


 免許皆伝を許された善五郎は、あのひ弱だった体が嘘のように、筋骨隆々、気力旺盛なたくましい青年剣士へと成長した。

 そんなおり、世相は、朝鮮における日本と清国の覇権争いが激化する中、世界的な共産主義運動の高まりもあり、日本でも労働者や農民の間で社会主義思想が広がりを見せ始めていた。

 が、一方、急速な権利意識の向上や地域経済の発展により、日本人の本来持つ美徳や、自己犠牲の精神には暗雲が垂れ込め、地方の小さな町に過ぎなかった田主丸もその影響から逃れることは出来なかった。

 このような社会背景の中、自己改造を成し遂げた善五郎の関心は、いつしか地域における青少年の育成へと向かうのである。


 どのようにして子どもたちを振り向かせ、この町の未来を希望あるものに変えていくのか。

 善五郎は、熟考のすえ、自ら修めた撃剣の力によって青少年の持つエネルギーを善用へと導き、かつ互いの個性を尊重し、自尊の精神を養うことが出来ると信じた。


「青年よ、青年よ、銭を使わず撃剣使え」

 ついに剣道によって青少年を導くことを決意した善五郎は、近所に子どもがいると聞くと、その家を一軒々々訪ね歩き、ときには集めた弟子たちを従え、道の上で呼ばわり歩き、勧誘を続けた。


 ところが、当時は明治維新の廃刀令によって撃剣をする者は廃れ、わずかに祭りの余興などとしてその技が披露されるくらいのもの。

 特に農民にとっては、それがなんの役に、といった風で、なかなか子どもたちを出そうとはしない。


「息子さんに撃剣を習わす気はなかろうか」

「うちにゃ、竹刀や防具を買う余裕はなかです」

「竹刀や道具はわしが貸してやる」

「月謝はとても払いきらんですが」

「月謝はいらん」


 このようなやり取りを重ねて田主丸町ばかりでなく、善五郎は隣町や村々を尋ね、やがてその範囲は、浮羽郡、朝倉郡、御井郡、甘木や小郡にまで及んだ。


 苦節、数年。

 次第に善五郎の熱意は町の人々にも浸透し、一人、また一人、と子弟を道場へと送り出す家が増え、ついには稽古の合い間に、源平合戦を二手に分けて繰り広げられるほどに多くの門下生が集うようになる。


 しかし、その頃、道場とはまったくの名ばかりで、稽古場は常に道端や空き地、神社の境内と、そのほとんどが野天である。冬ともなれば、子どもたちは素足をかじかませながらの寒稽古だ。


 このような状況も当初数名の弟子の頃は目立たなかったが、やがてその数が膨れ上がるにつれ、町民の間でも、「子どもたちのために武徳殿をつくろうではないか」という気運が次第に盛り上がっていく。


 時あたかも日清・日露戦争が勃発し、大日本武徳会が設立されるなど、全国的に武道の振興が世論として高まった時期であったことも幸いした。

 ただ、田主丸は小さな町のため、建築費すべてを公費で捻出するほどの余裕はない。

 そこで、有志の働きかけによって、設立趣意書を町民に広く配布し、浄財を募ることとなったが、この頃は、まだ寄付という概念も習慣もない時代。また、現金を出せるほど裕福な家庭も少なく、人口の多くを占める農家でも事情は同じであった。

 米なら出せる。

 農民は子どもたちのためなら、とこぞって米を供出した。

 かくして、寄付の大半は物納となり、ゆえに、その日から、善五郎と師範代の奥田博一は二人で天秤棒を担ぎ、家業や道場の練習の合間を縫って農家を訪ねる、という骨の折れる作業を丸一年の間、続けたのである。


 このような苦難を経て、明治四十四年二月、ついに、人々の願いが実り、板町に田主丸武徳館が落成する。

 建物は、学校などの公共建築物を手掛けてきた西村伊佐吉氏によるもの。六百六十平米の敷地に建てられた木造平屋の瓦葺きの堂々たる武道場は、町民の善意の象徴として、また、門人にとっての心の故郷として、昭和四十六年に火災で焼失するまで同地に存在した。


 

 さて、武徳館での稽古は、毎日朝六時から二時間行われ、その後、門弟たちは皆、学業や仕事場へと向かう。集合の合図は決まって朝五時に鳴る常行寺の鐘の音であり、それを聞いて子どもたちは防具を身に付け、竹刀を持ち道場へと急ぐ。

 この鐘を毎日鳴らすのが他ならぬ吉瀬善五郎である。


「鐘つきの先生」

 いつしか彼の習慣は地域の時計代わりとなり、この行為は雨がふろうが風が吹こうが、二十八年の間、一日たりとも休むことなく続けられた。


 善五郎は、入門にあたっては門弟から必ず二本の白扇を受け取る。これが唯一、彼が弟子たちからもらう品である。

 もらった扇には、善五郎自らが「武徳」と揮毫し、後日の剣道大会の褒美として本人に与えるのである。 

 善五郎が弟子たちから受け取るものは後にも先にもそれだけで、生涯無報酬を貫いた。


 ある時、医師の息子でのちに亜細亜大学剣道部師範であり全日本剣道連盟の顧問となる江上後郎が親から託された品を渡したところ、「他の貧しい子どもたちのことも考えなさい」と丁重に断られたという逸話が残っている。


 また、お金に無頓着であったことを示すもう一つのエピソードがある。

 善五郎の長男・五郎が田主丸小学校に教師として赴任し、いただいた初月給を善五郎に渡したところ、びっくりした彼は、即座に学校の校長を訪問。

「先生は、我が息子を教師として雇っていただいたうえ、なお、お金までいただけるとは」とお礼に駆けつけた。

 自らは生涯一度も金銭を受け取らず、教えることを唯一の喜びとした善五郎らしい逸話である。


 さて、善五郎の剣道の腕前はあまり語られることがないが、ここで当時の高弟奥田博一の長男・茂人氏が描写したものを少し長いが引用してみよう。


「津田一伝流の奥義を極めた吉瀬先生の剣道は、『待ち』の剣道ともいうべきものであった。動に対しては静で、攻撃に対しては防御で応じた。竹刀を下段に構え、相手の動静を静観する。自分から先に仕掛けることは決してしない。打ち込まれたら、目にもとまらぬ速さでかわし、相手が崩れたところをすかさず反撃する。『剣は人なり』というが、吉瀬先生の剣はその性格をよく表していたように思える。たとえ練習試合であれ、互いに勝ちを意識して喧嘩腰になるとみると、ただちに試合を引き分けた」


 善五郎は当時としては珍しく百七十センチ以上の長身で、それを活かした下段で構えるのを常とした。

 また、もうひとつ、弟子であり、日本の高名な漢学者であった国士舘大学客員教授・福島正義の描写がある。


「稽古に入ると気合は大したものであった。声ではなく、『ヒョー』と腹の底からなる気合である。今なお耳底にかすめるを覚ゆる。

 先のニコニコした「爺」は全く真剣なる気合の士と代わるのであった。三本勝負の引き立て試合をやられる時は一本は必ず先取された」

 


 ただ、善五郎は剣道の実力に比して、段位などには無頓着で、周囲が逆に心配して進言するほどであったようだ。確かに、彼が道場を開いたのは青少年の育成が主眼であり、他のことはある意味、どうでも良かったのであろう。

 孫に当たる今村武助は当時、月刊剣道日本の取材でこう語っている。


「いたずらな闘争心ていうた好かんだったごたる。本心は試合もやろごたなかったじゃなかろうかなぁ。(略)ほうびは勝ったも負けたもナシで、みんな同じ賞品たいな。そして、『どっちも良かった』て、良かとこば見つけてほめてくれてなァ。ヘタでも嬉しかもんなァ。子どもはそげん言うてもろたら。そういうこつで、なんていうたらよかかなァ、子どものたましいば奪ったていうか。二里ほども離れた山のほうの村から子どもたちがおおぜい稽古に来よったたい」

 

 さて、ここで、善五郎が剣道の普及によって青少年の健やかな成長を目指した、その根っこにある思想について触れておきたい。


 善五郎は、江戸後期において日本最大級の私塾であった咸宜園で学んだ秋山、吉富両師の弟子であり、彼の道場運営のあり方にも咸宜園の塾頭・廣瀬淡窓の方針を伺わせるものがある。

 咸宜園では、その頃の私塾が身分階級に分けられることが多い中、学歴・年齢・身分を問わない平等な精神の下、門下生一人々々の意志や個性を尊重する教育方針が貫かれていた。

 幼い頃から淡窓の思想に触れてきた善五郎の子どもたちへの接し方は、まず一人の人間として相手を認め、決して頭ごなしに叱ったり、子供扱いをするということがなかった。 

 相手が範士であろうと、子供であろうと、まずは「さん」付けであったという。

 親から連れられ、剣道がしたくない、とむずがる子供にも決して無理強いはしなかった。

「おお、したくないならしないでもよい。早く起きてここに来るだけでも偉かった」

 と、慈愛深く子供に声をかけるような師であった。


 稽古が終わる時には、師であろうと弟子であろうと、正座して、互いに深々と一礼を交わすことを旨とした。この美風は、高弟であった中村藤吉が開いた東京都杉並区の大義塾において、百年以上の時を経て現在も受け継がれている。


 こうして、田主丸武徳館において剣道を通じて善五郎の指導を受けた子どもたちは、その後、経済人、政治家、学者、剣道家というさまざまな立場で日本や福岡、田主丸を舞台にして其々が活躍することとなる。

 特にお膝もとの剣道の分野でいえば、当時、一道場から範士十一人を輩出した水戸市の東武館が有名であったが、それに比して田主丸の人口は何十分の一しかない田舎町であるところ、剣道範士五人を輩出した。門弟たちの実力は、善五郎の死後、全日本青年団剣道大会で田主丸町青年団が優勝したことによって実際に証明される。


 猛者揃いの剣士たちの中でも、やはり特筆すべきは、史上五人しかいない剣道十段の一人、中野宗介範士と、日本剣道を北米に普及させ、一時は二万人の門弟を従えたという大義塾々長・中村藤吉範士であろう。


 この中野・中村両氏のいずれだったかは判然としないが、たぶん中村範士であったか、次のような子弟愛を思わせる話しがある。


 中村が田主丸に帰郷するときは、まず真っ先に善五郎に挨拶を申し上げるのを常とし、それまではたとえ道端で他の者にあっても絶対に口を利かなかった。そして、それは善五郎の死後も変わることなく、まるで生けるが如くに墓に語りかけて挨拶を終えるまでは、どのような友人や知人とすれ違っても言葉をかわすことはなかったらしい。今では信じられない行動であるが、昭和初期頃は、まだこのような師を純粋に慕う気風が残っていた。


 昭和七年の春、善五郎は喜寿を迎えた。

 もうその頃、彼は高齢でもあり、自らが竹刀を執って教えることはなかったが、毎日防具を付け、弟子の奥田が子どもたちに教える姿を威儀を正して見守った。門弟たちは善五郎の喜寿を祝って、ともに田主丸天満宮を参拝し、師の末永い健康を願った。


 翌年の夏。善五郎は突然の病魔に襲われる。

 折悪しく、善五郎の家は道路拡幅工事のために移動を強いられ、奥田は田主丸の屏風山と呼ばれる耳納山麓の別荘で療養に専念するよう彼に進言した。

 が、善五郎は聞き入れない。


「もとより剣道と生死をともにする覚悟。子供たちの元気な姿が見たい」

 彼は床を武徳館に移すと言い張り、大工に頼み、片側に硝子窓が付いた簡易寝室を作った。

 昭和七年七月三十日。 

 子どもたちの練習を見ながら、善五郎は静かに息を引き取った。


「俺が死んだら棺の前で剣道をしてくれ」

 

 享年七十八。命日は奇しくも明治天皇御崩御と同じ日であった。


 

 福岡県久留米市田主丸町には現在も田主丸武徳館(火災消失後、昭和四十八年に再建)があり、その前に吉瀬善五郎の胸像が建てられている。

 また、同町の来光寺の敷地内には、善五郎門下の剣道十段・中野宗介を称える記念碑もある。


 もし訪れた方の運が良ければ、武徳館の中で剣道の修行に励む子供たちの凛々しい掛け声が聞けるに違いない。




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【参考文献】

 下記の書籍、サイトを参考にさせていただきました。後記して感謝申し上げます。

福島正義, 『剣道の光』,昭和46年4月発行

奥田茂人, 『ある剣人の生涯~奥田博一範士伝』,千年書房株式会社,平成四年十一月三日発行

月刊剣道日本, 『筑後田主丸・吉瀬善五郎が剣道で町づくりする話(上)』,スキージャーナル株式会社, 昭和60年5月号

月刊剣道日本, 『筑後田主丸・吉瀬善五郎が剣道で町づくりする話(下)』,スキージャーナル株式会社,昭和60年6月号

大分県日田市ホームページ, 『咸宜園とは』,最終アクセス日,令和6年8月23日,

URL https://www.city.hita.oita.jp/shisetsu/kangien/about/12278.html

「咸宜園」,『フリー百科事典ウィキペディア日本版』,最終更新日,令和6年7月24日9時46分

「廣瀬淡窓」,『フリー百科事典ウィキペディア日本版』,最終更新日,令和5年12月10日 11時56分





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