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不感症

作者: 石食み

 股下で女が啼いている。

 途切れ途切れに奏でられる、その胸焼けしそうな程に甘ったるい声に、男は何も言わず動きを早める。比例するように声が大きくなる。僅かに歪んだ表情は夜闇に隠すように溶け消えた。


 「――しかし、思ったより平気そうじゃねぇか」

 「ホントっすよ。心配して損しました」

 思い出した、の調子で切り出した村瀬の言葉に三浦が追従する。受けて、小鳥遊は、本題はそれか、と思った。

 街はすっかり夜に染まっている。行きつけのバー【ストレイシープ】は知る人ぞ知る、という表現が綺麗にハマる隠れた名店だ。店内の明るすぎない光と、流れるクラシックだかジャズだかの落ち着いた曲調が酔いを心地よく刺激してくれる。いつものテーブル席には、既に空グラスがいくつか置かれていた。

 「結局いつも通りって訳だ。だから心配するだけ無駄だって言っただろうが」

 ピザをエールで流し込み、宇多井が三浦の肩を抱く。やめてくださいよ、の抵抗は弱い。

 「コイツが女と長く続かねぇのは昔からだ。今更凹むかよ」

 「だが、今回はあの愛しの君だぞ?せめてもうちょい続くと思ったんだが」

 「その程度だったんだろ」

 挑発的とも取れる勝手な言葉に、しかし小鳥遊は反論しなかった。言いかけた言葉を飲み込むようにグラスを傾ける。その態度を見て、擁護しようとした三浦が口を閉じる。

 「賭けは俺の勝ちだな」

 「賭け?」

 「何日持つかって、いつものヤツ」

 ああ、と相槌とため息の中間がテーブルに落ちた。氷とグラスがぶつかる音。「おかげでまだ飲める」宇多井が嬉しそうに笑って手をあげた。村瀬は顔を引き攣らせるが、止めることはない。

 席の向こうで三浦が真面目な顔になった。

 「なんでそんなに続かないんですかね。今回だって、別に怒らせたとか喧嘩したわけじゃないんでしょう?」

 「まあ、怒ってる感じはしなかったな」

 「愛が足りなかったんだよ」

 「愛って。とっかえひっかえの先輩が言うと説得力無いっすね」

 「セックスが下手とか」酒気を帯びた下品な笑いを口から漏らす宇多井。を、盆が容赦なく叩く。

 「何話してんの」

 会話を割ったのは水谷だ。先程宇多井が呼んだこの店員が四人と旧知の仲だという所も、彼らがこの店を頻繁に利用する理由の一つだった。

 ショートに切り揃えられた赤髪の上に乗るホワイトブリムはマスターの趣味だが、ハーフエプロンと合わせ綺麗に着こなしている。その自慢の美人顔には怒りの感情が浮かんでいるが、それが本気では無いことぐらいは付き合いでわかる。

 「遅いぞエリ。ビール追加で。あとツマミ、はポテトでいいか」

 「先輩がまた振られたんですよ。で、続かない理由はなんだろうって」

 「ああ、いつもの」

 「そうだ。エリ、お前、コイツに抱かれてみろよ。それで答えがわかるじゃねぇか」

 「ウタ!」村瀬が声を張り上げる。あたかも緊張を切り裂くように、気の抜けた着メロが都合よく鳴った。

 「……悪い、妻からだ」

 宇多井は携帯を耳に当てつつ、外へ。ドア鈴が鳴り、弛緩した空気が戻ってくる。「逃げたな」村瀬がつぶやきつつ、軽く目礼。水谷は入れ替わるように空いた席に腰掛け、流し目を向ける。ついどもってしまった。

 「な、なんだよ」

 「……顔はいいんだけどねぇ」

 「ちょ、本気にしないでくださいよ!あんな酔っ払いの戯言……」

 「冗談。今更コイツらをそういう対象には見れないって」

 他人の悩みで遊ぶなよ……。小鳥遊の疲れたつぶやきに場が凍った。一拍遅れて気付き、慌てて弁明しようと言葉を重ねるが、底なし沼にはまるだけで解消されない。寧ろ哀れみつつ同情してくるのでたまったもんじゃない。いたたまれない心持をリセットすべく、苦肉の策でちょっとトイレ、と席を立つ。後ろから聞こえてくる声に聞こえないふりをしながら。

 「やっぱりイケメンは下手っていうしなー」

 「こっちを見て言うな」

 「え?え!?」

 「変な悪ノリはやめろよ」

 「……瑛梨さんの口からは聞きたくなかったっす」

 「ごめんごめん」


 柔らかい朝の陽ざしを全身に浴びて意識が覚醒した。久しぶりにすっきりとした目覚めだった。遠くで鳥のさえずりが聞こえる。スクーターのエンジン音。誰かの走る足音。微睡から浮上する心地良さと寝起き特有の気怠さを息と共に吐く。固まった筋肉をほぐすように四肢を伸ばした拍子、落ちたタオルケットに隠されていた肌色が視界に入った。およそ男の肉体には無い曲線美を持った肢体。

 驚いた。ギャグマンガの世界観ならコミカルに飛び上がっていたかもしれない。疑うように目をこするが、当然消えることは無い。昨日を思い出そうにも、霧が掛かったように記憶が再生されない。自分が自分で無くなったかのような錯覚。

 慌てて周りを見渡しても、映るのは勝手知ったる我が家のみ。独身男性の一人暮らし、という点を考慮しても、お世辞にも綺麗とは言えない、雑然とした部屋が変わらずあるだけだった。

 「……もう朝?」

 聞き覚えのない女声が響いた。当然、横で寝ていた女が起きたのだった。実際に動き喋っている姿を見てようやく夢を疑う心が消えた。とはいえ、混乱している事には変わりない。結果、口をついて出た言葉は当たり障りないものだった。

 「起きた?」

 「うん……」

 寝返りをうった女の顔を見て息を飲んだ。美女、と表現するのはその陳腐さから憚られる。それほど……ベッドマットに潰され歪んだ輪郭からでも、美人で通っている瑛梨と比較して比べ物にならないと確信できるほどに完成されていた。しかし、記憶のどこをつついても、この理想との関係性は出てこない。知っているような知らないような、懐かしいようなそうでも無いような。

 身体のラインに沿って扇情的に乱れた長髪の、そのあまりの艶かしさと、情事を想起させられる、直接的すぎる視覚情報に混乱も相まって言葉を続けられない。

 固まった俺の横を緩慢な動きで起き上がった女が通った。そのまま投げ出されたままだった衣服の回収を始める。一糸纏わぬ姿を恥じることなく、寧ろ見せつけるかのように堂々とした行動に、むしろ異常なのはこちらなのではと錯覚する。

 「えっと……何か食べる?」

 「まだいい。――ねえ」

 「?」

 「きもちかったね」

 不意の、屈託のない言葉に動きが止まる。

 なんだそれは。

 頭にノイズが走る。安心する声。歳を食った声。優しい声。幼い声。幾度となく繰り返されるシーンの中、俺は決まって同じ返事を返す。見た者全てを魅了する笑顔の奥、瞳に写った男の姿が濁るように溶けた。

 「シャワー借りていい?」

 「ああ、そっちに……」

 気付けば、求められるがまま機械的に案内している男の姿があった。


 待ち合わせ場所に指定された駅前広場は、都心部に近いというだけでただでさえ人が多いのに、夕方と言う時間帯も相まってさらに人でごった返していた。早上がりで空いた時間を埋めるような誘いにこれ幸いと乗ったが、失敗だったかもしれない。小鳥遊は携帯をいじりながらそう思った。猥雑な喧騒はうっとおしく、それだけで疲れる。

 「お兄さん、今暇ですか?暇でしたらお茶とか行きませんか?」

 声をかけられたのは三回目だった。前二回と同じように無視しようとしたところで、喧騒が少し遠のいたことに気付いた。視線を上げれば、ゴスロリィタの、そこそこ顔の整った年若い女性と目が合う。だが、何よりも目を引いたのは全身を覆ってなお余りのある傘。なるほど、人が避けていたのはこのためだったんだなと納得しかけて、しかし頭に別の疑問符が浮かぶ。解消すべく空を見上げれば、鰯雲が茜色に染まっていた。

 「日傘じゃないんですよ」

 視線の動きから察したのか、女性が笑いながら答える。

 「涙に濡れないように差しているんです」

 「涙?」

 あまりにも頓狂な発言に、小鳥遊は思わず反応を返してしまった。勿論、雨なんか降っていない。降る予定もない。降水確率は堂々の0%。

 問題は会話が成立してしまったということで……聞き返された女性は、我が意を得たりと言わんばかりに、朗々と語り始めた。

 「はい。太陽が泣いているんです。静かに、ゆっくり、しかし確実に。――悲しんでいるんです。深い悲しみの内で、声を必死に押し殺して、泣いている。……見えなくてもわかる。感じるんです」

 一歩、後ずさる音で、彼女は自分が前のめりになっていたことに気付いたらしい。言葉を区切り、わざとらしく咳払いをする。

 「でも今日はお洒落をしてて、濡れたくなくて」

 「宗教勧誘なら他を当たってください」

 「違います!ただお近付きになれたなって、せめて連絡先だけでも!」

 そう答えた彼女の表情は先程より一層真剣なものだ。その空気にあてられてか、話を聞いて情が移ったか、無慈悲に切り捨てる選択肢は無くなっていた。

 まあ連絡先くらいならと思った所で、ふと、意地悪な質問を思いついた。

 「……なんで俺を?」

 彼女の答えは単純で、しかし想像しないものだった。

 「寂しそうな表情をしていたから」

 「俺、邪魔か?」

 宇多井が案内した場所は鮨屋だった。カウンター席隅に通され、並んで座る。大将の後方に掛けられた木板には様々な魚が立派に泳いでいた。

 小鳥遊はどうにも落ち着かず、立て続けに二三度、店内を見渡すが、すぐに恥ずかしくなって辞めた。一瞬目が合った女性客に色目を使われたが無視。宇多井はそんな小鳥遊の様子を気にもせずおまかせを頼んでいる。他方、小鳥遊は大将に視線を向けられてもたじたじで、同じで、と答えるのが精一杯だ。

 「どうしたんだよ急に」

 無言に耐えられなくなって口を開いたのは、既に握りが数巻腹に消えた後だった。それまで押し黙ってゆっくり食していた宇多井は、緑茶を一口のみ、ようやく話し始めた。

 「泡銭が入ってな。さっさと使ってしまおうと思ってさ」

 「なんで俺だけ?」

 「……お前にしかできない相談があって」

 「いや、そんなことは……」否定しようとした小鳥遊を遮り、宇多井が言葉を被せる。

 「離婚したんだ」

 急な告白に小鳥遊は何も言うことが出来なかった。言いかけ余っていた息を、声になりきらない音と共に吐き出す。

 痛みに耐えるかのような悲痛の表情が横顔でもよくわかる。珍しく酒の入っていない彼の言葉は理知的で、それがより一層痛々しさを増幅させた。黙っているだけで酸欠になりそうだが、かと言って気の利く言葉の一つも挟めそうにない。小鳥遊に出来ることは続きを待つことだけで、宇多井が再度口を開いたのは、更にたっぷり時間を置いてからだった。

 「浮気……不倫だった。アイツは“俺に愛されなかったから仕方なく”とか言っていたが」

 得心がいった。確かにあいつらには相談できないだろう……体の関係だけの村瀬と、恋愛初心者の三浦では、まともな解答は期待できそうにない。かと言って、自分なら出来るとも言えないが。

 「俺は確かに愛していた。それを態度でも示していたつもりだった……」

 "愛する"回数は確かに少なかったかもしれんな、と自嘲気味に力なく笑う。先の飲みの席の話を持ち出してきて混ぜっ返すのは憚られた。

 宇多井は言葉を切って、小鳥遊の方へ向き直る。憔悴した表情。縋るような眼。真実、彼は自分の信仰が揺らいでいるのだ。だが、生憎と小鳥遊にはそれを回復してやれる言葉も経験も持ち合わせていなかった。

 「なあ、そんなに大事なのか。そんなに脆いものなのか」

 「逆に」

 探るように、小鳥遊は自分の悩みを打ち明けた。

 「俺には愛がわからない」


 あの日の別れ際、宇多井がそう言えばと渡してきた観劇チケットを手に、小鳥遊は夜の街を歩いていた。聞けば、この前の飲み会で三浦が渡しそびれたのを預かっていたらしい。「まあ、いつものように俺は出ないんですけど」とは三浦の談。

 今までも三浦がチケットを持ってくることは何回かあったが、顔を出すことは無かった。多忙が主な理由だが、興味を引かれなかったのも事実。それが今回は食指が動いた。演目は『愛の中心で世界を叫べ』

 立ち上がりに驚きはなかった。話が進んでいく間も期待に応える発見はない。そうして落胆の内に意識を飛ばしそうになった時、主演女優の雰囲気が変わった。

 小鳥遊は、役が剝れたのを感じた。剝き出しの、生身の人間を見た。

 『……私の世界に光はない。でも感じるの、そこに確かに存在することを。愛されているということを』


 男は震えた。表情筋が緩んでいた。気付かぬ内に歓喜の涙がゆっくりと零れる。

 興奮のままに、いつかの番号をコールしていた。

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