ニヴァリスリコレクション1
どうして、どこからノーザンにやって来たかは覚えていない。
ただ一つ、覚えていることは絶望の邪神を希望の勇者が和解したときの、悪夢だった。
なぜ悪夢なのかはわからない。それが平和に終わったのか、それともそうではないのかもわからない。
でも、その結末は意外なほどどうでもよかった。
おそらく、当時の自分が納得していたのだろう。
ノーザンにたどり着いて、初めにキイと戦った。
惜敗だった。
キイは周囲の人間が強いともてはやすけど、それは相対的なだけでおそらくそこまで強い人間ではなかったはずだ。
何しろ本当に強い人間が彼の傍に居たのだから。
「ほら、それで終わりか?馬鹿みたいに終わりか?まるでキャンプファイヤーじゃないか」
両手に剣を持ったキリエが地面に這いつくばる自分を見下ろしている。
これは稽古をつけてもらっている時の記憶だ。キリエは傷一つ無く、自分は散々に打ちのめされて傷だらけになっている。
初めはキリエは剣一本で相手していた。しかし自分の拳が頬を掠めて僅か1センチの傷を作った時から彼は手加減をやめた。
まさに圧倒的だった。何人も彼には敵わない、そう思わせるほど強かった。
ノーザンが次々押し寄せる侵略者達を追い払い続けることが出来たのは偏にキリエが強かった。キイも確かに強いが彼一人では一月と持たない。キリエだけが絶大な力を持っていたのだ。
キリエの才能は全方面において発揮された。
彼の持っていた種子の数々は僅か数年でノーザンの食卓を彩り豊かに変え、多彩な食材を用意することで安定供給を実現した。
彼が書いた草案はやがて一字一句変わらぬままノーザンの法律になった。
彼が地図に引いた線が行政での区域分けになった。
彼が遺した技術が晶材と重エーテル構造体の利用を可能とした。
彼が教えた文字を、言葉を学んだ子供たちが次のノーザンの担い手になり、自分とキリエと共に過ごした時間は5年余りで、その間に殆どの指導者は代替わりをした。
キリエはたった10年で何も知らぬ、自分の名前さえ書けなかった小麦を育てるしか能のない農奴達をたった一人で指導して国家建設にまで漕ぎ着けた。
キイやリビジは多少は優秀な、小市民でしかなかった。今や歴史に名を残す名君とさえ称されている。
彼らは民たちに心を砕き助ける慈悲深さがあった、それを支える知恵すらキリエが与えた。
キイの心の器は人一倍大きかった。彼でなければノーザンは早晩、滅んでいただろう。
だがキリエがいなければ、ノーザンの民達は生きていられなかった。
彼には戦闘以外のことを学んだ。
自分はとても不器用で、ジャガイモの皮むき一つ満足にできなくて、いつも可食部を無駄にして、指に傷を刻んではキリエに笑われていた。
「ははは、お前は何時までも上達しねぇなぁ」
ひょいとジャガイモの皮が捨てられた蒼晶のボウルを取り上げてキリエは屈託なく笑う。
「難しいんだ、オレには…」
「考えすぎなんだよお前は。もったいねぇなぁこれ。揚げるか」
キリエにとってはどんな失敗でさえ簡単に取り返してくれる。その思考が停止することは無い。
彼のような完璧な人間にはいかなる障壁も意味を持たなかった。
「もうすぐこのノーザンに国が甦る。お前はこのノーザンを守るんだ。俺の代わりにな」
そんな彼に託されたノーザンは、どうしてこんな姿になってしまったのだろうか。
ここから先は、どうしても思い出せないが、今は戦わなくてはならない。
双剣を腰に吊った、長く艶やかな黒髪の男が背中を押した。




