第九話 夕食......
「ただいま」
「あなた一人暮らしだよね?」
「一人暮らしだったら、ただいまって言っちゃ悪いか」
「別に......」
ムスッとしているというか、澄ましているというか、感情表現が乏しい彼女と話していると本当に調子が狂う。相手が何を考えているのか一切分からない、というのはそれだけで人を苛立たせる要素になり得るのだ。
「チッ。あー、もう飯にするぞ。俺は風呂沸かしたり、掃除してるからお前は飯作れ。キッチンの使い方は教えるから」
俺は頭を掻きむしりながらサキュバスに言う。
「分かった。......ふふっ」
不敵な笑みを零すサキュバス。なーんか怪しいんだよな、コイツ。
スマホの使い方も直ぐに理解したし、元々、賢いのだろう。彼女は直ぐにキッチンの使い方を理解した。コンロから出た火で自分の手を炙って本当に火なのか調べていたのは少し引いたが。
『お風呂が、沸きました』
帰宅から約三十分後、そんなアナウンスが家中に響いた。
「風呂沸いたけど」
「ありがと。こっちも、もう直ぐ出来るよ。待ってて」
スマホを片手に味噌を溶かし入れたり、肉じゃがを煮るサキュバスの姿は異様だったが、割とその立ち姿は様になっていた。というか、あの羽、飛べんのかな。
「はい。どうぞ。召し上がれ」
俺が机で彼女の料理を待っていると、サキュバスが料理を運んできた。丁寧に盆の上に乗せている。ウチ、盆なんてあったんだな。味噌汁、白飯、肉じゃが、とシンプルながら懐かしい食事だ。手作りの味噌汁や肉じゃがなんてもう何年も食べていない。
「お前の分は?」
「後で持ってくる。まずはあなたの反応が見たい」
「あっそ。......うん。悪くねえな」
酸味と甘味と塩味のバランスが丁度良い肉じゃがだ。初めて作ったとは思えない。
「レシピ通りにやったから」
「いや、レシピ通りにやっても中々、此処まで美味く作れねえよ。初めてじゃ。......ごふっ!?」
パクパクと次から次に肉じゃがを口に運び、それを白飯で追ったその時だった。体全体が硬直したような感覚に襲われ、突如、全身の筋肉が叫び始めた。体全体で肉離れが起きたような感じだ。
熱い。熱い。体が内側からドロドロと溶けそうな程に熱い。息も荒くなってきた。痛い。痛い。頭が痛い。鈍器で殴られ、針で刺されたかのように頭が痛む。俺は体をビクビクと痙攣させながらのたうち回る俺を見下すサキュバスの足にしがみついた。
「毒、盛りやがったなテメエ......」
「いいえ。ただ、私の唾液を」
「何食わしてんだコラ......ぐふっ、がはあっ! がああああああああああっ!」
「馬鹿」
「ぬぁんだと。っんぐ! ゴホッ、ゴホッ。コラ?」
「馬鹿、って言ったの。本当に愚か。信じられない。どうして、サキュバスに出されたものを何の疑いもなく食べるのかな......」
まるで俺が悪いとでも言わんばかりにサキュバスは溜息を吐くと、しがみつく俺を振り払った。頭痛と発熱、謎の筋肉痛、過呼吸に苦しみ、芋虫のように体をよじらせる俺にサキュバスはジトっと、軽蔑したような視線を送る。
「テメエ、何でこんなことを......!」
「あなたが気持ち悪いから」
「はあっ!?」
「あなたと居ると、私、心の底から不快な気分になるの。何だか苛つく。私、何度も言ったよね? あなたの命なんて、私の気まぐれで何時でも奪えるの。私を喚んだあの時からあなたに生存する権利なんてものはないの」
サキュバスは陸に上げられたヌタウナギのように暴れる俺を軽く蹴り、壁まで吹っ飛ばした。
「がはっ......!?」
「今ので何本か骨、折れたかな。そんなに弱い癖にどうして警戒することもなく私に接するの? どうして悪魔が作ったご飯を美味しそうに食べるの? 愚かなだけ? それとも、私を馬鹿にしているの? 良いよ。それなら」
壁に叩きつけられ、あまりの痛みと苦しさで気を失いかけている俺の手にサキュバスはナイフを握り締めさせた。俺と彼女が出会った夜、彼女が自殺に使おうとしていたものだ。
「......なんの、つもり、だ?」
「殺して。私のこと」
「・・・・」
「もしかして、悪魔なんてどうやって殺せば良いか分からない? 大丈夫だよ。心臓を突き刺せば案外、簡単に死ぬから」
そう言って悪魔は服を脱ぎ、胸を露出させた。不思議とそれを見ても俺は何の感情も抱かなかった。痛みと苦しさが勝っていたからだろう。そして、彼女は自らの胸に魔法か何かで円を書いた。
「此処が心臓。分かる? 此処を刺すんだよ」
子供に教えるように優しく、落ち着いた......しかし、幼く、か細い声で彼女は言う。
「ばっ、か、言ってんじゃ、ねえよ。お前に蹴られて体中ボロボロなんだよ。お前を殺す力なんて残ってねえ」
「嘘」
「アア?」
「分かるよ。私を殺す力があなたには残っている。悪魔相手に嘘を吐くなんて悪い人間ね。でも、良いよ。許してあげる。ほら、早く殺して。じゃないと、殺すよ?」
サキュバスは俺の脚を掴み関節を出鱈目な方向に曲げてきた。
「いっでええええええええ!? 馬鹿、コラ、おい、ああああああああああああ!?」
「死にたくなかったら、早く、殺して」
「テメエ、頭可笑しいんじゃねえの? ふうっ、はあっ、ああっ」
「何を今更。ほら、早くしないと私があなたを壊しちゃうよ」
「おま、ざけんなっ! だったら、何だ! テメエは今日、一日中、ずっとこんなことをしてやろうって考えてたのかよっ!」
「......は?」
「俺と軽口言い合ってた時も! 服屋行った時も! レシピ見ながら飯作ってた時も! ずっと、俺を痛めつけて! 俺に殺されることばっか考えてたのかって聞いてんだよこの陰気サキュバス!」
俺が怒鳴るとサキュバスは羽を閉じ、尻尾をダランと垂らして俯いた。
と思ったものも束の間、彼女は俺を鋭く睨み、胸を突き出した。
「刺して。今すぐに」
命令するように彼女が言うと俺の体は一人でに動き、ナイフを彼女の胸に向けた。知らず知らずのうちにチャームを掛けられてしまっていたようだ。このままでは彼女を刺し殺してしまう。
「チッ......! おいサキュバス! いい加減にしろ! ぐうっ......」
俺は怒鳴りながら何とか自分の手の主導権をサキュバスから奪い取る。
「テメエがその気なら俺もとことんやらせて貰うからなア」
俺はそう言うと、利き手である右手の付け根をナイフで抉った。