第五十二話 ラプラスの悪魔
「おいおい、何だ......これ」
俺を再度、襲おうとし、ステラに反撃されたことで倒れた朱音。虚な目をした彼女の体は手先から少しずつドロドロと溶け始め、それはやがて、肩のあたりまで広がり始めていた。
溶けた彼女の肉体は黒いスライムのようで奇妙にブルブルと震えている。何が起きているかは分からないが、不味いことだけは分かる。
「ステラ、多少、家財にダメージが出ても構わねえ。アレにデカいの喰らわせろ」
まだ痛む俺の肩を優しく押さえる彼女に俺はそう言った。
「言われなくても、既に魔法の展開中だよ......」
恐らく、デカい一撃を喰らわせるために複雑な展開をしているのだろう。しかし、朱音の液化はどんどん加速していき、気付けば液化していないのは頭と首だけになっていた。
「朱音......っ! 朱音......っ!」
『容れ物』が焦燥感を帯びた声で叫ぶ。その様子は、前までの無感情な彼女とはまるで違った。
「発射」
ステラはドス黒いエネルギー弾をまだ侵食されていない朱音の頭へと容赦なく放った。あまりにその弾は早かったため、目を瞑るのが間に合わなかった俺の目に入ってきたのは朱音の頭部を瞬時に覆う粘液達。
その粘液にぶち当たったエネルギー弾は僅かにその粘液を散らし、振動で部屋の照明を割っただけで直ぐに消えてしまった。
「嘘......でしょ?」
「チッ。それがテメエの全力かよ」
「下等生物は黙ってて。今の、かなり本気だったのよ」
そんな会話をしているうちに彼女の頭部までも粘液と化してしまった。しかし、今までの粘液化された肉体と圧倒的に違った点が一つ。彼女の粘液化した頭部には真っ黄色の目と裂けたような口が備わっていた。
爬虫類染みた目の形をしており、その姿は黒蛇を思わせる。更に第二フェーズとでも言うべきか、その蛇の体は段々とその体を肥大化させ始めると同時に『容れ物』へと近づいた。
「あ、朱音......?」
おおよそ、朱音としての自我なんてなさそうなその蛇は巨大な口で徐に容れ物を飲み込む。
「っ......逃げよう。ごめん。私には絶対に勝てない」
ステラがそう言って俺の腕を掴み、走り出す。その瞬間、恐るべき早さで蛇が此方へと向かってきた。
「畜生。何が悪魔は皆敵、だ。テメエが一番、悪魔みたいな顔してやがるじゃねえか!」
俺は廊下に置いてあった小さな椅子を蛇へとぶつけた。しかし、効かない。黒いスライム状の舌をチロチロと出しながら蛇は此方へと迫ってくる。
速いは速いがあり得ないほど速くはないのが救いか。
「ステラ」
「何......!?」
「周りの物の温度を魔法で40度ぐらいにしてくれ。後、異臭も魔法で発生させろ。蛇ってのは、嗅覚と熱の感知能力以外大したことねえ」
「い、いや、アレ、確かに蛇の形はしてるけど......本物の蛇と同じなの?」
「良いからやれ! 普通に殴っても無理なんだからじゃあねえだろ!」
俺達はそんな会話をしながら玄関の方へと走る。外にさえ出れば、ステラに捕まって空へと逃げられるのだが......。
と、思っていたとき、俺はステラの手を掴みながら転んでしまった。実の妹の体が食われたのだ、パニックで足が上手く動いていなかったのだろう。
「......テメエだけでも逃げろ。んで、店長達と合流してから戻ってこい」
最早、背後から追ってきている蛇から逃げ切ることは出来ないと判断した俺はステラにそう言った。俺が食われることで時間稼ぎにもなる。ステラ一人は確実に逃がせるだろう。
「......分かった」
何か言いたそうな表情をしていたが、直ぐにステラは俺の手を離し、翼を生やして一人、玄関の方へと走っていった。俺の体は蛇の舌に絡め取られ、体内へと送り込まれる......。
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あの蛇の口は異界への入り口か何かだったのだろうか。それとも、俺の本体は気を失っていて此処は夢の中なのだろうか。あのスライム状の蛇の体内は異様に広く、そして、スライムの様にベタベタとはしていなかった。ただただ、無限に暗闇が広がっている。
「ああ......兄さんも食べられましたか」
「お陰様でな」
「何がお陰様なのかは分かりかねますが」
蛇の体内には当たり前だが先客がいた。容れ物だ。いや、もうそろそろ、容れ物というのも失礼かもしれない。
「テメエ、朱音に心中を持ちかけたりしてたが、ちゃんと感情持ってたんだな」
「......『由香』のような本物の感情でも、『マクスウェル』のように自然発生した感情でもありませんがね。私の感情は恐らく、由香の記憶を読み込み続けることで彼女の記憶をベースに作られたものです」
「よく分かんねえけど、兎に角、悪かったな。テメエのことを容れ物だなんて言って」
「構いません。事実ですので」
暫し、沈黙が流れた。
「......朱音がどうしてあんな化け物になったのか、分かるか」
「いいえ」
「そうか」
「ご期待に添えず申し訳ありません、兄さん」
「その兄さんって言うの、頼むから止めてくれ。俺はテメエのことを一人の人格として認めはするが、妹とは絶対に認めねえ」
「・・・・」
俺の言葉に彼女は黙り込んだ。そして、彼女は俺との距離を詰めてくる。
「んだよ」
「......私はいずれ、由香になる者。由香の容れ物、そう思ってこの数日間生きてきました。それが、否定された私は、何者なのでしょうか」
「マクスウェル二号」
「・・・・」
「物理用語の悪魔関連で『ラプラス』とかでも良いぞ。兎に角、テメエはテメエだ。由香じゃねえ。由香の記憶を一部持ってるか知らんが、その記憶が完全に馴染んでるわけじゃねえんだろ? だったら、それは他人の記憶を見てるだけに過ぎねえよ」
そう言うと俺は鼻を鳴らし、彼女から目を逸らす。その瞬間、嗚咽が聞こえた。無論、彼女のものだ。確かに今の今まで由香になることが自らの使命、自らこそ記憶を失った由香であると考えていた彼女に言うには少し言い方がキツかったかもしれない。
「悪い。少し、言い過......」
「実は由香の記憶の殆どを取り戻すことが出来るかもしれないのです」
涙混じりの声で彼女は小さくそう言った。
「は?」
「朱音の蛇に飲み込まれてから、急に記憶が覚醒し出しました。私はその記憶に飲み込まれるのが怖くて、思わずその記憶を封じ込めてしまいました。......呑み込まれる『私』なんて何処にも居ない筈なのに」
彼女の声と言葉は悲壮感を強く帯びており、聴いているだけで息がし辛くなった。
「朱音の能力か」
「恐らくは」
「その記憶をお前が全て解放すれば、由香は戻ってくるのか」
「......恐らくは」
「お前はどうなる」
「数日間しか生きていない私の記憶は十数年間生きてきた由香の記憶の波に押し流され、私という人格は由香の人格に塗りつぶされるかと」
もう、完全に彼女は『自分』という存在が確かに居るのだと信じている様だった。
「......だったら、そうはするな」
「貴方は由香の帰還を誰よりも期待している筈では」
「由香も、俺も、一人の人格を殺してまで由香を取り戻すことは望んでいない。お前は好きに生きろ。朱音と縁を切れとも言わんが、由香の記憶を取り戻そうとするのだけは止めろ」
由香の記憶が完全に戻るかもしれない、由香が帰ってくるかもしれない、そう聞いて期待しなかった訳ではない。微塵も由香を取り戻すために犠牲になってくれと思わなかった訳ではない。
しかし、そんなことをすれば由香に怒られてしまう。由香に消えない傷を作ってしまうことになる。それは不本意だ。
「朱音は元に戻れるのでしょうか。いや、まずその前に私達は此処から出られるのかも怪しい......」
朱音と自分達の身を案じる彼女に俺は心の中で謝罪をした。
「ウチの店長......守人が多分、どうにかしてくれる。そう信じるしかねえ」
「暁さん」
「......ん?」
「私は昔の貴方を、由香の記憶越しによく知っています」
「らしいな」
はっきり言って、昔の俺と今の俺はかなり違うのでその相違点を発見されるのはかなり恥ずかしい。
「貴方は、口調や振る舞いこそ変わりましたが、昔と変わりませんね。本質は」
「何が言いたい」
「私は『暁楓』と『暁由香』のことが好きなのです。記憶越しに毎日のように見ていた、あの兄妹が。だから、私は由香になりたかった。なるものだと思っていた。......ですから、どうか、お許し下さい」
彼女はそう言うとギュッと俺に抱き付いてきた。彼女の体に人の温もりはない。生体ユニットは殆ど残していないのだから当然といえば当然だ。
「テメエ......何のつもりだ」
「最後に、人の温もりを知っておきたいと思いまして。......良かった。私がまだ、自己の維持に対してそれほど執着が無くて。辛うじて耐えられそう。由香に宜しくお願いしますね、暁さん」
俺に抱きつきながら彼女は気を失った。




