第百十九話 愛情劣情
その翌日の朝は、実に穏やかだった。本当は今すぐにでも向こうの世界へ行きたいのだが、どうしてもステラの魔力の回復のため、そして俺の体力回復のため、一日休む必要がある。こればかりは仕方ないのだ......と俺は自分に言い聞かせながら二つのカップに紅茶を注ぐ。少し遅めの朝食だ。
「ありがと」
「砂糖は」
「今日は欲しいかも」
「......いつも入れないから切らしてる」
「じゃあ何で聞いたの」
「何となく」
「そ」
俺は席に座ると、自分の向かい側で物憂げな表情を浮かべながら紅茶を飲むステラを眺めた。いや、コイツはいつもこんな顔だったか。
「マリアナはどうした」
「気を利かせて朝早くに家を出て行ったわ。こっちの世界を探検してくるって」
「気を利かせて?」
「......今日という一日をあなたと私だけの、水入らずの日にしてくれたの。本人がそう言ってたわ」
「成る程。マリアナ、アレで意外と思慮深いからな」
折角、マリアナが作ってくれたステラと二人きりの時間だ。今日は出来るだけ全てを忘れてステラとのんびりすることにしよう。それこそが明日に控える由香を救うための作戦を成功に導く鍵なのだから。
「......テレビでも観る?」
「この時間、大した番組やってねえだろ」
時刻は午前9時半。主要なニュース番組は既に終わり、あまり興味のそそられないワイドショーやバラエティのやっている時間帯だ。アレが無性に観たくなる時もないではないが、今日は騒がしいのは勘弁願いたい。
「そうね。私もそう思ってた」
「なら何で聞いたんだよ」
「何となく」
「そうかよ」
どうしてだろうか。あっちの世界ではあれだけステラに会いたいと願っていたのに、いざ、彼女と好きなだけ話せる時間が訪れてみると、驚く程に会話が続かない。決して気まずくはないのだが、やっとの思いで再会した彼女との間で沈黙が続くのはどうも歯痒い感じがする。テレビの話をしてから大体、数分程、俺達は何も喋ることなくパンを口に運んでは咀嚼し、飲み込み、紅茶を飲むという動作を繰り返した。そして、俺達はほぼ同時に朝食を食べ終わった。お互い、どれくらいの速さで食べて飲めば相手と同時に食べ終わることが出来るかが分かっているからだ。
「......ご馳走様」
と、ステラが手を合わせる。俺もそれに続いてご馳走様と手を合わせ、食器を流し台へ持っていった。その間も俺達は何も喋らなかった。いい加減、気まずさが出始めてきた。
「ステラ」
沈黙に耐えかねた俺は意味もなく彼女の名前を呼んでみた。彼女はいつもの疲れ切ったような目で俺のことを見てくる。
「何?」
「何でもない」
「何でもないのに呼んだの?」
「......ただ、返事をするお前の声が聞きたかった」
「気持ち悪いね」
「自覚はある」
再び、沈黙。いつもの休日の朝はこんな風ではなかった筈だ。思い出せ。いつも彼女とどんな話をしていたのかを。
「ねえ、あなた」
色々と思考を巡らせていると不意に頰に刺激が走った。指でつつかれたような、そんな刺激が。どうやら、彼女の尻尾の先で頬をつつかれたらしい。
「ああ?」
「キスでもする?」
「......は?」
「呆けたような顔してるから、今日のあなた。欲求不満なんでしょ?」
「違えよ馬鹿。まだ、ちゃんと回復してねえんだから今精気吸われると俺は死ぬ」
「優しくするわよ」
「今、行為の激しさは問題になっていない」
妖艶に微笑むステラを見て、全くその気にならないかと言われると完全には否定出来ない。が、今、精気を吸われればどうなるかくらいは俺にも分かる。由香を救うまで、俺は死ねないのだ。
「冗談よ。妹のこと、心配しているんでしょう?」
「ああ......まあな。何度も何度も迷惑かけて、お前には悪いと思ってる」
「一度、捨てた命だもの。あなたのために使うなら惜しくない」
サラリとそう言ってのけるステラ。その目は『そんなこと言わなくても分かっているでしょう。一々、言わせないで』と言っているように思えたが、流石に考え過ぎだろうか。
「......こんな時に言うべきことじゃねえことは分かったんだが」
「うん」
「......やっぱ、ナシだ」
「あっちの世界で私達のどちらかが死なないとは限らないのよ。後悔のないようにね」
頭をかきながらステラから目を逸らす俺に対して、彼女は何処か見透かしたような視線を送りながらそんなことを言ってくる。縁起でもないことを言うな、なんてことは言わない。ステラの言葉は紛れもない事実だから。この前、といっても数日前だが、あの時、俺が向こうの世界から帰って来れたこと自体が奇跡みたいなものなのだ。次、俺達の誰かが死んでも全く不思議ではない。その事実を受け入れておく義務が俺にはある。多くの無関係な人々をそのために巻き込むのだから。
「......今更言うことでもないと思うが、好きだ。お前のことを愛してる。お前の全部ひっくるめて心の底から愛してる」
キスをした。身体も重ねた。何度も彼女のことを抱きしめた。それでも、ちゃんとその言葉を伝えたのは初めてだった。いつも誤魔化してばかりだったから。だから、彼女の顔を真っ直ぐに見ながら言うことが出来なかった。
ステラは目を丸くして俺の言葉を受け止めると、柄にもなく少し居心地が悪そうな表情で溜息を吐いた。
「......知ってるけど」
「ああ。お前が知ってるのも知ってる。でも、死ぬ前に伝えておきたかった。向こうの世界を彷徨って、もう二度とお前に会えないかと思った時、それだけが心残りだった」
「......それじゃ、これで満足なの?」
「ああ」
「......下等生物」
「久しぶりに聞いたなそれ。確かに高等なサキュバス様の色気に完全にやられちまった人間のオスが俺だよ。だから、お前のことが好きで好きでたまらない」
「言ってて恥ずかしくないの」
「死ぬ間際に後悔するよりマシだ」
「......あっそ」
思っていたよりも彼女の反応が悪い。というか、少し不機嫌になっている気がする。
「人が死ぬ気で告白してんのに」
「全部知ってたもの」
「可愛くねえな。可愛いんだが」
「それに、何て返せば良いのか分からないの。私も好きだよ、って言ってあげるのが一番簡単だし、あなたも喜ぶんだろうけど......。好きって、何なんだろうね。美味しいご飯に好きって言うのと、あなたが私に好きって言うことでは意味が違うんでしょう。......私はサキュバスである自分のあなたに対する感情に、自信がない」
彼女が好きだとか嫌いだとか即答してこないことは分かっていた。俺は何度かコクコクと頷く。
「それでいい。別に俺はお前に愛して欲しい訳じゃねえ。......や、違うな。少なくとも俺は今でもお前に愛されていると思ってる。だから、別に何も問題はねえ」
「私は今でもあなたの心を壊したいって思うことがある。あなたの身体をズタズタにしてしまいたいと思うこともある。それでも、あなたは私に愛されていると思うの?」
「......ああ。お前がそれだけ俺のことを考えてくれていると思うだけで気持ち悪い笑みが止まらねえ。お前になら俺は殺されてもいいと思ってんだぞ」
「心底、気持ち悪いね。歪んでる」
「知ってるだろ」
「うん」
「お前のことが好きだ」
「分かったから。......少なくとも、私も、あなたが私以外にそんなことを言い出したら嫌。これはエサを自分に釘付けにしておきたいサキュバスの本能かもしれないけど」
気持ちを率直に述べてくれるステラ。俺はステラに飛び付き、彼女を押し倒した。彼女は少し驚いた様子を見せながらも冷静に魔法で床にクッションのようなものを敷き、自らの身体が床に激突するのを防ぐ。
「......危ない」
「全身をフローリングに強打してもお前なら痛くも痒くもないだろ。こうやって魔法でどうにかするのも分かってたし」
「......それで、これは一体何の真似? やっぱり、欲求不満だったの? 私、下は嫌なんだけど」
「頭真っ白になって気付いたら押し倒してた」
「強姦魔と行動原理ほぼ同じなんじゃない、それ」
「淫魔であり夢魔であるお前が言うなよそれを」
甘く、それでいて爽やかあの匂い。
「......今日はキスだけね」
「ああ」