第百九話 天音
「うぉぇぇぇえぇええええ......!」
一瞬にも、何時間にも、何日にも思えたゲート間の移動を終えた俺は其処が何処かも確認せずに口に溢れてきたものを吐き出した。その吐瀉物には血も混じっているようで妙に赤い。それと同時に滝のように鼻血が流れた。
「ね、ねえ、カエデ、大丈夫?」
脳に直接......ではなく、耳からマリアナの声が聞こえた。ゲートを通ったときに受肉が解除されてしまったらしい。
「すまん。頭がクラクラして......無理......死ぬ......」
何だか辺りが騒がしい。人の声がする。俺が吐瀉物と血を撒き散らした地面はコンクリート。どうやら、街の中に転移してしまったらしい。当然、辺りの人の視線は突如として現れ、突如として嘔吐を始めた俺に注がれていることだろう。
しかし、今はそんなことを気にしていられない。依然として地面を睨みつけたまま、俺は何度も嘔吐した。
「カエデ、あの、皆、叫んでるんだけど」
「ぅぉえええええ......そりゃ、こんな街中で吐いてる奴いたら叫ぶだろうな。......ああ?」
吐くものを全て吐いてしまったのか、少し楽になった瞬間、ふと、疑問が湧いて出た。人々の悲鳴に違和感がある。こう、発音が変というか......リアクションがオーバーというか。
依然として鼻血の吹き出ている俺が首を傾げながら辺りを見回すと、其処には俺達を取り囲むように叫んだり、口々に言葉を話している人間の姿があった。角が生えていたり、翼が生えていたりはしない。
......ただし、彼らの殆どは背が高く、髪色は金髪や茶髪が大半、目も青色や緑色などが多かった。話している言葉も意味不明だ。そして、更に視線を横に移すと、其所には周囲に人魂を浮かせている全裸の美少女の姿が......。うん、こっちの方が意味不明。
「どうやら、俺とお前は異国の地で二人揃ってとんでもない恥をかいてしまったらしいぞ」
「マリアナが裸なことと、カエデがオロロしたこと?」
「そうだ。あの芸術家、わざとなのか仕様なのか、意味分かんねえ所に飛ばしやがって。いや、火山の火口とか海のど真ん中じゃないだけマシか? ......おえぇ」
「取り敢えず、この場から逃げた方が良いと思う」
「分かってる。分かってるが、まだ受肉出来る体調じゃねえ。悪いが、俺を抱き抱えて人気のないところまで飛んでくれ」
「了解。カエデの出した奴も燃やしておく」
「おー......きもちわり」
そういえば、特に俺が教えた訳でもないのにマリアナの会話能力は上がってきている気がする。喜ばしいことなのだが、何故なのだろう。俺はマリアナに体を掴まれ、空を飛びながら首を傾げた。
「なあ、マリアナ」
「何?」
「何でも良いから、こう、喋り続けてみてくれ」
「......よく分からないけど、分かった。カエデと会うまでのマリアナが何してたか、ちょっと思い出したから喋る。マリアナは元からマリアナだったんじゃなくて、別の天使だったみたい」
「ああ、その天使の魂に意識が宿って生まれたのがお前なんだもんな」
「うん。気が付いたら不死鳥って、呼ばれてたけど、自分が誰なのか、よく分からなくて......他の子には姿も見えないし、声も聞こえないみんなの存在を自分だけが捉えられてて......それもしんどくて、ずっと、寝てた」
マリアナは何度も溜息を吐き、怠そうにしながらそんな話をしてくれた。
「その、『みんな』って奴は幽霊か何かって認識で良いのか」
「ユーレイ、がどんなのか分からないけど、多分、みんなは自然消滅せずにその辺を漂ってる魂だって、あの芸術家が言ってた。カエデが気絶してる間、山小屋で聞いたの」
「お前も今まで知らなかったのかよ」
「うん。......それで、マリアナ、友達とかできなくて、毎日、ダラダラしてたら、何か、急に凄く強い悪魔と戦わされて、しんどかったから逃げて......みんなが沢山居る、お墓で長い眠りについてた。その後はカエデも知っての通り、天使に拘束されて、カエデと出会った」
何だか凄くフワフワしていて、情景が浮かびにくい話だ。きっと、曖昧な記憶の中から確実な記憶だけを拾ってきてくれたのだろう。
「要するにお前は自分が何者か分からないのと、他の天使には見えない『みんな』の存在に悩まされた結果、思考を停止して、毎日眠り続けていた。そんな中、悪魔と天使の戦争が起きて、お前は駆り出されたけど敵前逃亡。逃亡先の墓場で数百年の長い眠りについた、ってことか」
「言い方に悪意を感じる」
「でも、否定はしないのな。ありがとう、聞かせてくれて」
期せずして、マリアナの過去を聞くことになった俺は素直に礼を言った。それにしても、やはり、マリアナの会話能力は俺と出会った当初よりも非常に高くなっている。
「......どういたしまして。でも、何で、マリアナを喋らせたかったの?」
「お前、最初の方は凄い無口だったのによく喋るようになったな、と思ってな。どれだけ喋れるのかを確かめたかった」
「......よく分からないけど、よく喋れるようになったってことは良いこと?」
「ああ。意思疎通がはかりやすくなるしな」
「なら、良かった」
その後、俺とマリアナは緑豊かな公園に降り立った。森や山があったら良かったのだが、どれだけ飛んでも西洋風の街しかなく、仕方なく着陸地点に公園を選んだのだった。
「......きもちわりい」
空中でもかなり吐いていたため、もう吐くものはなくなったようだが、それでも全身に気分の悪さが残っており、鼻血がかなりのペースで流れ出てきていた。クラクラする。これ、このまま失血死とかあり得るんじゃなかろうか。
そう考えると不安や恐ろしさが全身を支配してきて、体が震えてきた。死、そのものへの恐ろしさも勿論あるが、それよりもステラ達を助けることも出来ずに死ぬことへの絶望が勝っている。
「ちょっと見せてね。もう、人間が受肉なんてするから......貴方、このままだと結構、危険だよ? お姉さんが病院連れて行ってあげましょうか」
突如、何者かが背後から俺の首に手のひらを当て、ブツブツと呟き始めた。口調からも分かるように、マリアナの声ではない。マリアナは俺の前に立っており、今、俺の首に手を当てている人物を睨んでいる。
「カエデから離れて。じゃないと、殺す」
「でも、マリアナちゃん、回復魔法使えないでしょ? 人間君、このままだと死んじゃうよ?」
「あなたならカエデを救えるの?」
「多分、ね。人間君が望んでくれたらだけど」
「何でお前が此処に、ううっ、いんだよ......」
「氷槍ちゃんに、命を助けてやる代わりに人間君の体をどうにかしてやってくれって言われたから付いてきたの。もう敵意はないよ、というより、私、もう戦えるほどの力残ってない」
俺は大きな溜息を吐くと、彼女の手を首から離させ、振り向いた。其処には、厄災......つい、先程、芸術家の怒りを買って殺されかけた天使の姿があった。傷付いた体の殆どが再生しており、ほぼ完全回復しているように見えたが俺達と戦うには魔力的なものが不足しているのだろう。
但し、氷の槍に貫かれた彼女の左目には眼帯が付けられていた。其処だけは再生出来ていないらしい。手当てをしたのは芸術家なのだろうか。
「あ、これ? 流石に失明した目の視力を取り戻すのは無理なんだよね。......ちょっとグロテスクなことになってるから包帯をしてもらったの、氷槍ちゃんに」
俺の視線から俺の疑問を察したらしく、彼女はそんな説明をしてくれた。
「お前は偽神の味方だろ。芸術家に助命して貰ったからって、俺達を助けて良いのかよ」
「敵である人間君に助けられておきながら、何もしないなんて恥知らずな真似、出来ないわ」
厄災は鼻血を垂らし、クラクラしながらも首を傾げる俺に毅然とした態度でそう語った。
「......そうかよ。で、お前は回復魔法が使えるのか?」
「多少は。ただ、博愛者君みたいにちゃんとしたのは使えないから私の魔法は気休めにしかならないと思う。でも、私が役に立てることはそれだけじゃないから」
と、言いながら彼女は改めて俺の首に手を当てた。気分の悪さが少しずつ引いていき、鼻血も止まった。
「暴発と精密は紙一重。私、魔力の細かい扱いが得意なの。人間君が受肉をしても身体の調子をあまり崩さないよう、身体の魔力を整えてあげたよ。仕上げに回復魔法を掛けておくね」
「......いくら、恩を感じてるからってお前は仲間を裏切るような奴じゃないだろ。何を考えてやがる」
「えー? そうは言ったって、人間君、私のことそんなに知らないでしょ? ......ま、軍団長を裏切るつもりはないけど」
「そうだろうな」
「私はただ、目の前の恩人を助けただけ。其処に裏切りの意図は無い。そして、残念ながら、私の戦闘能力は著しく低下している。だから、軍団長の味方として戦闘に加わるつもりもない。......ということで、どう?」
俺達を嵌める意図もないが、味方になるつもりもないということだろうか。
「......分かった。それで、お前は俺達に付いてくるのか? それとも、芸術家の所に戻んの?」
「氷槍ちゃんと二人っきりとか耐えられないから付いていく。人間君のことも心配だし」
「そういうことらしい、マリアナ、良いよな?」
「良くない」
「あ?」
予想外のマリアナの言葉に俺は眉を顰めた。
「ついさっき、私とカエデを殺そうとしてきた相手と行動を共にするなんて嫌に決まってる。あっちの世界に戻りたくないなら、戻りたくないでその辺を彷徨ってれば? 何でも好きにしたら良いけど、私達に構わないで。虫が良過ぎる。片目潰されたくらいで許されると思ったら大間違い。その背中の羽をむしって詫びてみれば?」
マリアナが一言も噛むことなく災厄相手に放ったのは至極当然の言葉であった。今まで色んな奴らと敵対しては、何やかんやで和解してきた過去がある俺は感覚が麻痺していたが、よくよく考えれば先程まで本気でやり合っていた相手と行動を共にするなんて中々に狂っている。
それはそれとして、マリアナ、一人称も『私』になってるし、急に饒舌になってるし、かなり怖い。
「......ごめん。分かった。私は私で軍団長のところ、目指すね」
「待って。話はまだ終わってない」
マリアナの言葉に何度も頷き、納得した様子で俺達に背を向ける厄災。そんな彼女を引き止めたのは他でもないマリアナであった。
「え?」
「私は、あなたと一緒にいるの、嫌で仕方がないけれど......私、回復魔法も何も使えないから。カエデの為に、一緒にいて欲しい」
「......分かった。うん。そういうことなら、一緒に行かせてもらう、ね」
こうして俺とマリアナは厄災を仲間に加えて、微妙な雰囲気になりながら日本へ向かうことになった。
⭐︎
「なー、厄災」
「何?」
「お前、俺達と戦うとき、手加減してたよな?」
「......急に何を言い出すの。してないわよ。私は全力で二人にぶつかっていった」
「俺がこの世界に来たばかりのとき、お前は俺とマリアナを襲った。あの時のお前の攻撃は情け容赦が無く、俺とマリアナがまだ受肉をしていなかったことを考慮しても明らかにさっき戦った時よりも強かった」
俺はマリアナと再び受肉し、日本を目指して空を爆速で飛びながら自分達の横を飛ぶ厄災にそう言った。因みに先程、厄災に人間のフリをしながら此処が何処なのかを聞きに行ってもらったので現在地が何処なのかは分かっている。デンマークの首都、コペンハーゲンだった。勘弁して欲しい。仕方ないので取り敢えず東を目指すことにした。
「そんなこと......」
「お前は自分の復讐に燃える心を誰かに否定して欲しかったんじゃないか」
短い時間だが、彼女と話していて『厄災』という天使のことが少しわかった気がする。彼女は本来、優しくて、とても温和な天使なのだ。だからこそ、友人や家族を殺されたことで強い愛情がそのまま憎悪に変化したのだろう。
しかし、何処まで行っても彼女は心優しい穏やかな天使。復讐に燃える彼女とそれに疲れた彼女の二人が同時に彼女の中にいるように見えた。
「知ったようなことを言わないで。私は、悪魔達に皆を殺されたのよ!? だから......! いや......ごめん。......人間君の言う通りかも、しれない」
激昂したかと思うと、突如、何かに気が付いたように言葉の勢いが衰え、シュンとした様子で俺の指摘を受け入れる厄災。そんな彼女の顔は感情を失ったように蒼白だった。
「......悪魔達が憎いのは本当だし、死んだ仲間達に報いなきゃとも思ってる。でも、自分や軍団長がやってること、やろうとしてることが正しいとは......思ってるつもりだったけど、思ってなかったのかもしれない。馬鹿みたい」
大きな溜息を吐き、自嘲的な笑みを浮かべる厄災。そんな彼女の笑顔が朱音によく重なった。
「・・・・」
「その、私と人間君達が戦う前に私......色々、二人を挑発したじゃない? あれ、その、別に本心じゃないから。私、自分でも何であんなこと言ったのか分からなかったんだけど、今なら分かる気がする。多分、二人に本気を出して貰って、二人に倒されたかったんだよ。......結局、氷槍ちゃんに倒されちゃったけど」
「で、お前は自分の気持ちとちゃんと向き合えたのかよ」
「......どうだろう。このまま、人間君達に加勢して軍団長の目を覚まさせてあげたい気持ちもある。私だって、軍団長がやろうとしていることがおかしいことくらい、分かってる」
『でも』と彼女は続ける。
「裏切れないよ、私は。理屈じゃない。私は天使で、悪魔達に皆を殺されて、その復讐のために軍団長と協力してきた。私が天使である以上、私は軍団長を裏切れないし、天使復権派を降りることも出来ない。......ううん、違う。これは私が天使だからじゃない。私が中途半端で、どっちつかずで、バカな子だから......」
厄災の飛ぶスピードは少しずつ落ちていき、遂に彼女は空中で止まってしまった。大粒の涙を上空から地面へと落としながら彼女は鼻をすする。とてもじゃないが、先を急ごうと言える空気ではなかった。
「俺はお前のことが嫌いになれねえ」
「......そう。私は、どっちかというと人間君のこと、嫌いかな。私は人間君と、会うべきじゃなかったんだよ。私達、会わなきゃ、こんな気持ちにならなくて済んだのに.......ううん、もっと別の形で会えていたら仲良く出来たかもしれないのに......ううっ、ああっ......」
大きな声で嗚咽を吐く厄災。姿も声も話し方も何処か大人びている彼女が、子供のように泣きじゃくる様子は見ていて辛いものがあった。
「あのな、世界はお前が思ってるよりも広いんだぞ。世の中には善も悪も知らねえような戦闘狂の幽霊とか、人の大切なロボットを暴走させて敵対させてくる目的不明のイカれ吸血鬼とか、メンヘラで地雷系の暴走したら蛇になる変な巫女とかがいんだぞ? お前みたいな奴、マシな部類だよ」
「......それはちょっと、君の『世界』がおかし過ぎるかなあ」
ふむ。一理ある。
「ま、お前のリーダーは俺達が必ず潰す。お前はそれを見ていれば良い。どうせ、今のお前には力がねえんだろ?」
少しカッコつけながら俺がそう言うと、彼女はプルプルと震え出し、次の瞬間には激しく泣き始めた。
「......ううっ、あああああんっ、ごめん、ごめん......! 貴方の大切な人達を傷付けることに、加担しちゃって」
「厄災......って、お前のことを呼ぶの、何と無く嫌だな。天音ってどうだ、お前の名前。......お前によく似た人間、朱音と響きがよく似てるだろ」
咽び泣く彼女に俺は精一杯の笑顔を見せながらそう言った。彼女は依然として泣きながらも、俺の顔を真っ直ぐに見つめて顔をいっそう、赤くした。
「......ううっ、可愛い、名前。私なんかに、似合うかな」
「似合ってる」
と、今までずっと黙っていたマリアナも口を出してきた。
「......そ、う? 素敵な名前だわ。ありがとう」
「名前を付けた場合、勝手に契約が結ばれちまうんだったよな。じゃあまあ、『無事に戦いが終わったらまた、芸術家を呼んで食事会をする』ってのを約束してくれ」
「うん、分かった。約束よ。今日から私は、天音、天音ね」
涙を流しながらも彼女は笑みを浮かべ、えへへと笑って見せた。
「ねえ、カエデ」
「んー?」
「カエデって天使の心掴むの上手いよね。天音だけじゃなくて、博愛者や芸術家、後、マリアナのことも。もしかして、そうやって色んな人を仲間に引き込んで今日まで生きてきたの?」
首を傾げたマリアナの、悪意のなさそうなその言葉に俺が返したのは無言であった。