28話 男爵令嬢と伯爵子息のお勉強会
「……テキスト、よし。ノート、よし……」
「お嬢様、図書館で借りた本、積み込みました」
「ありがとう。それじゃ、これを持ってもらってもいい?」
「かしこまりました」
ヒルダに荷物を預け、鏡の前で自分の格好のチェック。
そろそろ暖かい季節になるからドレスは薄手で、その上にふわっとしたボレロを羽織る。髪はハーフアップにして、バレッタ――先日ベルンハルド様から贈られた、きらめく螺鈿細工のもので留めた。
今日は、ベルンハルド様の非番の日。
そして今日から私は、ベルンハルド様と一緒に言葉の勉強を始めることになる。
ベルンハルド様は田舎の訛りが強いけれど、これから私と一緒に社交界に出るだろうということを考えて、公の場では矯正した言葉で喋れるようになろうと決めた。
男爵家側でベルンハルド様の悩みのことを知っているのは、私とヒルダだけ。
両親やリオンもベルンハルド様が無口なことを気にしていたけれど、ベルンハルド様の方から「まだ言わないでほしい」と言われている。
だから彼の生まれのことや言葉の悩みなどは伏せておいて、家族には「将来のことを考えて、一緒に勉強しに行く」と伝えている。そう言い訳するといつも口うるさいリオンも神妙な顔をして、送り出してくれるようになった。
男爵家の紋入りの馬車に乗って、ベルンハルド様の屋敷に向かう。
そうして到着した庭の前ではイアン――だけでなく、ベルンハルド様ご本人も待ってらっしゃっていた。
「アーシェ」
「ベルンハルド様、ごきげんよう」
「ああ。ようこそ」
馬車を降りた私の手を、ベルンハルド様がそっと取ってくれた。
今日の彼は、シンプルなシャツにベスト、スラックスという格好だった。ジャケットを着ていない分、二の腕の太さがよく分かるし、ベストで腰をきゅっと締められていて胸周りの大きさもはっきり見えるようだ。多分、脱いだらすごいタイプだと思う。
左胸のスミレの花は、とても瑞々しい。最初は小さな蕾が一つだけだったのが、今では四輪ほどのスミレが満開状態だ。
ベルンハルド様がご機嫌な証拠だし、もしかするとこれから先、もっともっと花が豪華になることもあり得るのかな……?
「イアンも、出迎えありがとう」
「こちらこそ、ベルンハルド様のことをよろしくお願いします」
そう言うと彼はヒルダを見て、「我々は別室で休憩しましょうか」と誘った。せっかくだから、勉強中は私たちだけで過ごそうということにしているのだ。
いつも代弁してくれるイアンがいないのは、ベルンハルド様にとっては心細いかもしれないけれど、これも特訓だ。
それに……相変わらずヒルダは、イアンと一緒に過ごせるのが嬉しいみたいだし。イアンは独身らしいけど、彼女の恋が実ること、あり得るのかな。
ベルンハルド様が、私が担いでいた勉強道具セットを受け取った。
「それでは、行こうか」
「はい。よろしくお願いします、ベルンハルド様」
「ベルン、だ」
「……」
訂正され、私は一瞬言葉に詰まった。
……ベルンハルド様の過去を聞いたあの夜、去り際に私はベルンハルド様から頼まれたことがある。
『これからは、俺のことを、ベルンと呼んでくれないか』
ベルン。
それは、彼が生みのお母様から授かった名前。
彼曰く、伯爵家に引き取られてからは一度も呼ばれたことのない――今では故郷の村にいるお祖父様たちくらいしか呼ばない名前だという。
彼にとってもとても愛着のあるだろう名前を呼んでいいのかと戸惑ってしまったけれど、ベルンハルド様は「アーシェ嬢に、呼ばれたいんだ」と熱を込めて語った。
そうして懇願されて、断れるはずがない。
それに私も、いつまでも「嬢」付きで呼ばれるのはよそよそしいと思っていたところだった。
よって私たちは公の場以外では、お互いを「アーシェ」「ベルン」と呼ぶことにした、のだけど……。
私の勉強道具を手に、ベルンハルド様がじっとこちらを見ている。
その目に浮かんでいるのは、期待の色だ。
……もしベルンハルド様に尻尾があれば、びたんびたんと激しく振っていたんじゃないかな。
まるで、新品のおもちゃを前に興奮する大型犬のように……。
「……」
「……アーシェ」
「……ベ、ベルン……様」
「様は不要だ」
「い、今はこれで勘弁してください……」
なぜなら今の私には、ベルンハルド様のことを「ベルン様」と呼ぶだけで精いっぱいなのだから!
私が血を吐く思いで言うと、ベルンハルド様は不服そうながらひとまず引き下がることにしてくれたようだ。
「……いつか、呼び捨てで呼んでくれ」
「……努力は、します」
「了解した。……もう一度、呼んでくれるか」
「……ベルン様」
「ああ」
相槌を打つベルン様、ものすごく嬉しそう。
スミレの花が一回り大きくなって、目に見えない獣の尻尾も嬉しそうに揺れているようだった。
応接間に向かうと、すぐにメイドがお茶の仕度をしてくれる。
今日は暖かいから、よく冷えたフルーツティーを淹れてくれた。
お茶菓子も焼きたてほかほかのケーキではなくて、氷室で冷やしたゼラチン菓子だった。ミルクとゼラチンを混ぜて固めたこのお菓子は、リオンの好物だ。
「さて……それでは始めましょうか」
「ああ、頼む。……どういう形で、進めるのだ?」
「私も色々考えたのですが、まずはこのテキストをしっかり音読することから始めましょうか」
ベルン様に問われて私が出したのは、貴族の子どもが愛用する社交界マナーブックだ。
子ども向けの簡易な言葉で書かれているのはご愛敬として、公の場で使う正式な言葉遣いを学ぶのには最適の教材だと思う。実際私もこれを、幼年学校の講師補助時代に使っていた。
「ベルン様が音読するのを私が聞いているので、うまく読めるかを確認しながら進めます。そこから、対話練習や詩の朗読などに繋げていきましょう」
対話練習では、相手とポンポン言葉のやり取りができるように速度に気を付けないといけないし、詩の朗読は普通の会話以上に情緒を込めて読まなければならないから、神経を尖らせる必要がある。
まずはテキスト通りに読めるようになってから、少しずつランクアップをしていけばいい。これは先日、講師補助の頃にお世話になった先輩に相談して教えてもらったことだった。
「テキストは、同じものを二冊用意しています。私はベルン様が音読するのを聞きながら、発音などで詰まったところをチェックします。ベルン様はベルン様で、読みにくかった場所などに印を入れながら読みます」
「……それで、二冊のテキストを、見比べるのか」
「そういうことです」
読む側と聞く側の認識に、どれくらい差があるのか。それをまずは確かめたい。
ベルン様も昔は家庭教師が付いていたそうだけど、言語については早くに匙を投げてしまい、それ以降は自分からも学ぼうとしなかったそうだ。
それには、伯爵への抵抗心というのもあっただろうし、どうすればいいのだろうかという迷いもあったのだろう。
「頑張っていきましょうね」
「……ああ」
緊張しながら子ども向けのテキストを受け取ったベルン様だけど、スミレの花は彼のやる気を示すように生き生きとしていた。




