1話 男爵令嬢はフられたい
この世には、女神様がいる。
女神は何十人もいて、それぞれが得意な方法で人々に「祝福」を施し、この世が末永く続くことを願っているという。
リネリア王国では特に、光の女神、地の女神、水の女神、花の女神の四神を信仰する人が多い。
リネリア王国は一年を通して温暖な気候に恵まれていて、土地もよく肥えている。恵みの雨によって人々の生活が成り立ち、真冬以外では様々な花が大地を彩る。
私はそんなリネリア王国の王都で生まれ、アーシェ・レヴィンスという名を与えられた。
私の実家であるレヴィンス男爵家は――まあ所詮男爵だから、貴族の末席にかろうじて居座ることができている程度。
領地は持っていないし、曾祖父の代までは裕福な市民階級で、祖父の代に商売に大成功したことで爵位をもらったから、威張れるような身分ではない。
生粋のお嬢様だったら上級学校卒業後はデビューをして結婚に向けた準備を進めるんだけど、うちは労働者階級からの成り上がりということもあり、両親から何かしらの仕事をするようにと言われていた。
そういうことで私は十五歳で王都の上級学校を卒業した後は、十八歳で成人するまで近所の幼年学校の講師補助をしていた。
十歳になるまでの子どもが通う幼年学校で先生として働くのは、結構楽しかった。人脈も広がったし、給料で好きなものを買う喜びを知ることもできた。
そうしてここ二年間は実家の商売の手伝いをしつつ、二十代半ばまでには結婚したいな、と考えていたところだけど――そんな私の人生計画に波が生じそうになったのは、一週間ほど前のこと。
「……えっ? 結婚の打診? 私に?」
「ああ。……急なことで、悪い」
レヴィンス男爵である父様はそう言って、手紙――縁談の打診書類を見せてくれた。
十代後半になってから、両親はしばしばお見合いの話を持ってきていた。
相手は、半分くらいが裕福な市民階級で、もう半分が男爵家から子爵家くらいの身分の人。これまで提案された中で一番身分が高かったのは、子爵家の次男だったかな。
両親も私も、結婚を急ぐつもりはない。跡取りである弟はまだ十二歳だから、あの子が成人する六年後までに結婚できれば十分、と考えているくらいだ。
だからこれまでにお見合いの話が出たときも、ひとまず全部保留にしていたんだけど……。
「……エストホルム伯爵の、三男!?」
手紙を読んだ私が思わず声を上げると、父様は苦い顔で頷いた。
「……ああ。さすがに、名家からの申し出をこちらから断ることは難しいんだ」
「で、でも、まさか伯爵家なんて……」
いくらレヴィンス男爵家に財産があるとはいえ、伯爵家の方が男爵家の娘を嫁にもらおうとするなんて!
でも手紙には確かに、「エストホルム伯爵家の三男であるベルンハルド・エストホルムと、レヴィンス男爵家令嬢であるアーシェ・レヴィンスの婚姻について検討していただきたい」って書かれていた。
「なんでこんな名家が私を? 嫌な予感しかしないんだけど?」
「心当たりがあるとすれば……去年、父上が事業を成功させたことくらいか」
父様に言われて、そういうことか、と私は頭を抱えた。
私の父方の祖父は男爵位を譲った後、趣味で起業した。去年そこで大儲けが出て、レヴィンス男爵家の名前が一気に広まるようになったんだ。お祖父様、商売上手だし勝機を掴むのがうまいんだよね。
おかげで、それまではぽつぽつと届くくらいだった私の縁談もここ数ヶ月くらいで一気に増えた。でもまさかさすがに、伯爵家ほどの方がうちに目を付けるとは思っていなかった。
「……伯爵家が、お祖父様の事業の噂を聞いて手を組みたがっているってこと?」
「そこまではしなくとも、レヴィンスと縁を持っているというだけで勲章の一つになるからだろうし……ていのいい金庫扱いされている可能性もある。それにあちら側が提案してきたのは、長男でも次男でもなく、末っ子の三男だ。跡取りになる可能性は限りなく低いし、本人は騎士団に所属しているそうだからな」
「……なるほど」
つまり、エストホルム伯爵家から見たレヴィンス男爵家ってのは……一応手を組んでおきたいけれど、長男の嫁などには値しない程度の存在なんだろう。でも他の貴族に先を越されるともったいないから、唾を付けておこう――そんな気持ちが、手紙の文面から読み取れた。
男爵家の娘からすると伯爵家三男というは、破格の嫁ぎ先だ。リネリア王国における公侯伯子男の貴族社会では、伯爵と子爵の間でかなり大きな差が生まれる。
そんな伯爵家の方から打診があったのだから、大物を釣り上げたと喜ぶべき――なんだろう、本来は。
でも、私たちの周囲の空気はどんよりとしている。
いくら三男とはいえ、私が名家のご子息の妻になれる器ではないと、両親も私も思っていた。
だって、一応勉強はしてきたけど、マナーやダンスはそれほど得意じゃないし、刺繍は下手くそだし……絶対に、恥を掻く。
というか、こんな提案をされても何か裏があるんだろう、と警戒してしまうと、素直に喜ぶ空気でもなくなった。父様たちも、この話にホイホイ乗っかるつもりはなさそうだ。
「……断れないわよね」
「断ると、後が怖いな……」
「でも、この話を持ってきたのはエストホルム伯爵で、ベルンハルド・エストホルムご本人ではないわ。もしかすると、ご本人は乗り気ではないかもしれないでしょう?」
母様が言ったので、そういえば、と私はもう一度手紙を確認した。
……うん、エストホルム伯爵のサインはあるけど、ベルンハルド・エストホルム様のサインはない。
それじゃあひょっとすると、ベルンハルド様の方からお断りをしてもらえるかもしれない。
父親に命じられて渋々婚約者候補に会いに行ったけれど、とんでもないじゃじゃ馬だからげんなりした。お断りしたい――と言ってくれれば、角が立つこともない。
「……そう、そうよ! ベルンハルド様にお会いしたら、私を見て幻滅してくださるかもしれないものね!」
「そこまで卑下するんじゃないの、アーシェ」
「でも、私が伯爵家に嫁いでうまくやっていけるとは思えないし――父様や母様たちにとっても、エストホルム伯爵家はあんまり嬉しい縁組み相手じゃないんだよね?」
両親の様子からそんな気はしていたけれど、実際に尋ねてみると二人とも気まずそうに肩を落とした。
エストホルム伯爵家……私はあまり社交の場に出たことがないから噂には疎いけれど、現当主はちょっと面倒くさい人だとは聞いたことがある。それに、この手紙からもなんとなく性格が見えてくるようだし、私としてもこの手紙を書いた人を「お義父様」と慕いたくはない。
「どうせこっちから断ることはできないんだから、一度ご本人に会ってみるわ。ご本人の方から『こんな女は嫌だ』って言ってもらえたら、伯爵も諦めてくれるはずよ」
「……まあ、そうだな」
「でも、いいの? ベルンハルド・エストホルム様がどんな人か、よく分からないのだけど……」
「これも社交の一環だろうし、無下にはできない相手だもの。失礼のない程度にやり取りをして、向こうから断ってもらえるようにするわ」
父様も母様もまだ心配そうだから、あえて私の方からぐいぐい行く。
……もし、私の不手際が原因で伯爵の怒りを買うことがあれば。
せっかく事業に成功したお祖父様の努力を水の泡にしたり、一生懸命勉強している弟の足を引っ張ったりするようなことになれば。
それこそ、私は家族に顔向けができなくなる。
貴族の娘の一番の役目は、結婚だ。
でも、身の程もわきまえなければならない。
そういうことで、私はベルンハルド様にフられるべく、お見合いの席に向かったのだった。
ベルンハルド・エストホルム様とほとんど会話のないティータイムを過ごし、帰り道にたくさんお菓子を買ってヒルダと一緒に夜のパーティーをした日から、数日後。
「……嘘でしょ?」
「嘘ではない。……いや、私としても、おまえの話を聞いた後にこれだから、正気かとも思ったのだが……」
父様はため息をついて、さっき言った言葉とほぼ同じ内容を繰り返した。
『結婚に前向きに取り組みたいとの、伯爵家からの返事だ』と。