1章8話 - vs グレンデル2
グレンデル戦 後半
「……まずいですわね」
ローズは親指の爪を噛みながら、戦況を判断する。
覇業の争いは、門外漢であるヒロから見てもシャロンの独壇場だったはず。しかしヘルハウンドが奇を唱え妙と論じてから様相は一変した。犬鳴狼噪はまたたくまに漆黒の蔦にかたちを変え、彼女の肢体に纏わりつく。
そこからは金属のようだった。普段はとても頑丈なのに、ある温度に達してしまえば途端に脆弱になる。そして熱脆性あるいは冷脆性とは、そういう状態になってからの回復がとても難しいのだ。
「はやく助けに行かないと……!」
「それはできぬ相談です、紘さま」
取りつく島もない峻拒が、即下、耳朶をうつ。
「わたくしにできるのは結界の維持、ならびに彼ら〈死を運ぶ猟犬〉の顕現維持となる繋鎖をみつけ、可能ならば破壊すること。そして……アシュレイ卿があの苦難を乗り越えるよう信じることだけです」
「……ッ」
つまり見捨てる――見殺しにするということですか。
そう詰め寄ることはできなかった。戦っているのは彼女たちだ。戦場という土俵にあがってすらいない人間が、焦燥のまま言葉という剣をふりかざし傷付けていいわけがない。
だから、この惨状を変えたいと願うならば。なにかを言うとしたら、ひとつしかない。
「わかりました。じゃあ……僕にはなにができますか」
「……?」
冷ややかな一驚を孕んだ瞳が、ヒロを射貫く。
「シャロンは、僕にも騎士の素質があると言いました。だったら僕にだって、彼女を救うためのなにかができるはずだ!」
「では彼女の窮地を救うために、かの邪悪と戦い、殺せますか?」
必死に食いさがるヒロとは真逆に、ローズはどこまでも冷静だった。覚悟を閲するため放たれた反問は、まさしく一叢の荊棘。殺すという言葉が、ヒロの心のやわらかい部分をずたずたに切り裂いていく。
「……それは……、……できません。僕は誰も傷付けたくないし、誰にも傷付いてほしくない。誰かの命を救うために、また別の誰かの命を奪わなければいけないなんて、僕には到底思えないから……!」
わかっている。どれだけ馬鹿なことを言っているのか。自分がどれほど甘えた人間なのかなんて、ちゃんとわかっている。
泣いて、吐いて、そのくせ騎士になるのは嫌だとはっきり言葉にもできない卑怯者で臆病者。自分の身ひとつ守れなくて、誰かを傷付ける勇気もないくせに、救いたいなんて美しい言葉を掲げていいことをした気になる偽善者。それが皆守紘という人間だ。
「でも、あなたが教えてくれたんです。騎士がこの世界に存在できるだけじゃないこと。僕の無様で、役立たずで、世間知らずで、どうしようもなくて……それでも捨てられない願いが未来を切り拓けるってことを!」
「……ええ、そうでした。そうでしたね。ではこのように言い換えましょう」
ふ、とローズの鋭眸が優しさをおびる。茨特有の、鋭さのなかにあるしなやかさが、気持ちばかり空回りするヒロに突破口をあたえた。
「彼女の窮地を救うために、世界を変える覚悟はおありですか?」
――世界を変える。
その言葉の意味を、正しく咀嚼できたわけではない。理解が行き届いたとしても実行できるかどうか、行動できたとしても本当にやり遂げられるかなんてわからない。それでも。
「……、……っ、……ひろぉ……ッ」
すぐ隣で、顔をぐしゃぐしゃにしながら懸命に泣くのをこらえている子供がいる。小さな唇を戦慄かせて、細い肩を震わせて、華奢な指先でヒロのシャツの裾をにぎりしめて。けれど「助けて」のたった一言すらくちにだせない子供がいる。
いま一番苦しいのはシャロンだ。一番不安なのはパンドラで、一番歯がゆい思いをしているのはローズだ。
だったら、どんな嘲笑や非難をむけられてもいい。どんな代償を支払っても構わない。
この現状を変えたい。
「やります。できなくても、やります」
シャツをつかむ、強張った指先をひとつひとつ丁寧に外すたび、彼女の瞳が希望にも絶望にも瞬いた。呼吸をとりもどすように、ひとつ、ふたつと、まなざしの奥に秘めた感情がこぼれおちる。
「……ぁ、……あ、ぁっ……!」
やめて。行かないで。死なないで。
音なき懇願がした。
どうかシャロンをたすけて。救いだして。
声なき悲鳴がした。
「……あ、ああっ……や、め……ヒロ、ちが、……あたし、こん、な……っ!」
ほどかれた指は寄る辺をもとめて――否、助けを求めるのを戒めようと、彼女自身の口元を覆う。押し殺された悲鳴のかわりにあふれるのは滂沱の涙だ。
「大丈夫。かならずシャロンを連れて帰るよ」
もう泣かなくていい。助けてなんて言わなくていい。
頼まれたからじゃない。他ならぬヒロの望みだ。強く願う理想を叶えにいくのだ。
「アシュレイ卿を蝕む〝誰何の呪詛〟は、結界をでた瞬間、あなたさまにも猛襲するでしょう。どうかご武運を」
「武運なんていりません。僕は戦いに行くわけじゃない。……でも、ありがとう」
一歩を踏みだし、結界に触れる。透明な壁が行く手を阻んだ。
これはローズがうみだしたもの。ならば、この世界の覇者にヒロを置いたなら。
「待ってて、シャロン。今いくから」
破光とともに、結界の外へ身を投じる。
そこは彼女たちの戦場ではなかった。何度もみてきた悪夢の光景。ぐしゃりとつぶれて、ねじれて、ゆがんで、もはや生物としての形をなさない骸物の排滓場。死にたくないという慟哭と、死んでしまえという怨嗟にまみれた地獄。
どうしてだろう。ヒロは考える。誰だって傷付きたくない。死にたくない。愛されたいし、幸せになりたい。なのになぜ他者を犠牲にするのだろう。どうして生きていくために、誰かの命を奪わなくてはならないのだろう。
なぜこの地獄が存在しているのかわからない。
なぜこの地獄に存在しているのかも知らない。
なぜおまえだけが。おまえのせいで。その問いや糾弾に応えられる器官は持ちあわせていないから、逃げだすことも助けることもできなくて。
ああ、けれど。ずっと祈っていた。願っていた。夢のなかで、現実で。なにをしていても、していなくても。僕が僕であるまえから、僕が僕になってからも。
この地獄を変えたい。
「シャロン」
無数に散らばる死屍のなかから、ヒロは彼女の遺骸をみつけだした。片膝をついて抱きあげる。
髪は枯れたススキのように干からびて、虚ろな眼窩は底の知れない奈落色をしている。吐瀉物にまみれた骨のうえで、食べるものもないのに蛆が這い、黒暗々とした世界のなかで唯一存在する白だった。
「シャロン、もう大丈夫だよ」
刹那、光が死屍をまとい、シャロン・アシュレイその人に変じた。
しかし安堵する暇もない。世界が切り替わるや否や、黒妖犬がヒロの咽喉に喰らいつく。跳躍の衝動そのままにふたつの身体は沼に落ちた。鋭い牙が肉を突き破り、骨に達する。
――去れ 死にたいか
他の犬たちが狗吠した。
去れという恫喝。殺すぞという敵愾心。それがヒロには悲しい。ただ、悲しい。
「ごめんね」
音になったか、わからない。唇は動いただろうか。言葉にできただろうか。骨の軋む音と、筋繊維の断裂する感覚と、心臓の鼓動。色々なものが混ざりあって、うまく伝えられた自信がない。
「ごめんね。怖がらせて、ごめん。怖い言葉をいわせて、ごめん」
怖がらせたくなかった。心が凍えてしまうような、悲しい言葉を言わせたくなかった。
誰かを傷付けてしまったとき、傷付けられた相手も痛いけれど、傷付けた当人もおなじくらい痛い思いをしていると知っているから。傷付けられることよりも、傷付けてしまう方が苦しいことを知っているから。
だから、おのれを傷付けた黒妖犬の頭をなでようとした。
しかしその腕に、別の黒妖犬が喰らいつく。肉が弾け、血飛沫が舞った。次は足だ。たった一撃でヒロを躄の者へと変えてしまう。
「大丈夫、僕は平気だから。君たちも、もう大丈夫なんだよ」
隻腕にしても躄者に変えても笑ってゆるされる。そんな異様な光景に、たちまち動揺がひろがった。それは漣のように一瞬で――否、もはや形容ですらない。まさしく超常現象として、彼を起点に沼が清められていく。風の弛張がうまれ、草木の芽が萌えいで、花が咲き、しだいに沮洳はその質を失っていく。
それが一体どういうことなのか、理解できぬ者は誰ひとりとして存在しない。
巨鬼グレンデル、氷狼フェンリル、夜魔ヘルハウンド。千世紀以上も語り継がれる古魔たちが構築した世界を崩壊させる、太陽に属する牡鹿の霊威をかりてさえ成しえなかった〈世界再構築〉。
誰も傷付けない、傷付かないというヒロの理想。
新緑があふれ、花々に彩られし楽園がうまれた。
「還ろう、在るべき場所に。君たちの日常に」
咽喉に喰らいついていた黒妖犬がそっと離れた。唸り声をあげたまま後退さりし、やがて瞑目し、湖畔のうえで横になる。腕を蹂躙したものは春昼の草原にあまく鼻を鳴らし、寝そべった。
漸々、漆黒の獣たちは光輝の蝶に変貌し、あるいは落英繽紛となり、その輪郭を淡く儚くしていく。もはや痕跡は真紅の欠片しか残されていない。
――貴様
残る氷狼がヒロに相対する。黒妖犬とは異なり、魔に優れたこの古魔はいまだ世界に蔓延する願いに抗していた。
――手足、耳目を失ってなお、それを願えるか
――傷付き、果てに死に至ろうとも、傷付けない在り方を至高とするか
ああ、そんなこと、誰に問われるまでもない。
「もしこの世界が、誰かの犠牲なしに成立しえないというのなら」
生まれ落ちた瞬間から罪を背負い、光の届かない場所に影があって、正しさや思いやりだけでは救えない犠牲があるのなら。
「すべての犠牲は、どうか僕だけのものであれと願うよ」
崩壊していく。これまでの世界が。
構築されていく。これからの世界が。
ここはもう、ヒロ以外の誰も傷付かなくていい世界だ。
――還るぞ、我が朋友
――この界にあふれる寵幸は、戦意の阻喪として敷衍する
こういうものを送還というべきなのだろうか。まるで暁の薄霧がそうであるように、死狼もまた碧虚に身をゆだね、淡く、儚く、輪郭を喪っていった。
損ないや蝕みのない世界。
ずっとこの理想に浸っていたい、けれど。
「……還ろう、君も。在るべき場所に。僕たち自身の日常に」
緑漿きらめく刹那のさなか、シャロンに手を伸ばす。華奢な身体をぎゅうと抱きしめる。
汚濁の古沼は清水に書き換えられ、豊かな緑の息づく場所となった。彼女を蝕む〈終畢を越えなお狩人の業を背負いし者〉の悪夢はあとかたもなく雲散霧消し、あとはただただ天与の露光が静謐を満たしていく。
いつのまにかローズたちがすぐ傍まで来ていた。パンドラは光の蝶をてのひらにのせて、荘厳な麗景を見つめている。
「皆守紘。あなたさまは、いったい……」
その問いに答えることができなかったのは、失血のためか。
あるいは最初から答えなど持ちあわせていないせいかもしれない。
まだ続く