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楽園追放Ⅰ 僕の儚くも浅ましきイデア  作者: 高坂悠貴
1章 Anthem
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1章7話 - vs グレンデル1

グレンデル戦 前半

 ふたりの声を背にしてシャロンは戦場に降りたつ。

 吼声(ほえごえ)(らい)(めい)のごとく、耳を(ろう)するほどの(ごう)(おん)だった。()(まく)を震わせるなんてなまやさしい表現では追いつかない。先になぞらえた雷鳴でいくなら、まさしく(ひゃく)(らい)


「あれがグレンデル……」


 (けん)(げん)した(しん)()は、全長おおよそ十数メートルほどだろうか。(どん)()(がい)(かく)には無数の(こけ)がはえており、(ほの)(ぐら)い岩色もあいまって(すい)(せい)だと予想できる。しかし次の瞬間、(ほう)(こう)にあわせて放たれたのは火炎の(しゅう)()だった。


 主人(カイン)とおなじく、問答無用に広範囲を強襲する〈四散八裂型(ルージュ・ノワール)〉。

 特異領域の適性があるだけの騎士(にんげん)とは異なり、(ばく)(だい)な魔力をそなえた神魔はおおむねこの戦闘形式をとる。守るべき者がいる場合は面倒な相手だが、攻勢に専念できるならば、魔獣など怖い相手ではない。


「好都合だわ。あなた、ちょっと私にボコられなさい」


 滅多に使わないスラングを舌にのせ、不敵な笑みをうかべて、シャロンはおぞましい(かん)(ごえ)によって(つく)られた火炎の海を遽走(そそばし)る。自分も沸点は低いほうだ。罠を張りあい、奇策を(ろう)しあうよりも、白黒が()(ごう)する()()もないほどの単純明快さを望む。


「〈繋鎖(リエ)〉」

「――(まな)()(おく)()よ、我らが城よ

 我がうちなる黄金に照射され、日陽に属せよ」


 ローズの(せん)(せい)に、シャロンもまた世界を再構築するための言葉を発した。


「千変の戦局、幾万(いくまん)(かん)(なん)

 たとい(きょう)()つきることなく千万億兆に(かさ)()そうと、

 我は永久不滅なる太陽を(かか)げ、

 (しゃ)()(けん)(そう)によって()()民氓(たみ)を護る〝騎士〟でありたい」


「Him on mod bearn, pat healreced h?tan wolde

(よってきみは(じょう)(かく)の建造を()()し、)

 medoarn micel men gewyrcean, tonne yldo bearn afre gefrunon

(前代未聞であろう(そう)(れい)なる(うたげ)の城を(ばん)(しょう)につくらせ)

 ond tar on innan eall gedalan geongum ond ealdum swylc him god sealde buton folcscare ond feorum gumena

(城内の共有地と命をのぞいたありとあらゆる(てん)()を老若男女に授けんと望めり)」


 シャロンの意志、ローズの(うた)う叙事詩〈ベオウルフ〉の(おん)(けい)をうけて、黄金色の世界はたちまち宮殿をかたちづくった。


「〈牡鹿館(ヘオロット)〉となれ

 ここにて騎士たる我は、かの(あっ)()グレンデルを(とう)(ばつ)する」


「da ic wide gefragn weorc gebannan

(かくてこの世に(いき)()ぐ数多なる()()に、)

 manigre magte geond tisne middangeard folcstede fratwan

(荘厳なる城館の建造をもうしつけたと我は聞けり)

 Him on fyrste gelomp adre mid yldum

(やがてかく(すう)(ごん)なる館は完成せり)

 tat hit weard ealgearo healarna mast;

()べしらす()()()ふかき君は)

 scop him Heort naman se te his wordes geweald wide hafde

(これなる城に牡鹿館なる名をつけたもうた)」


 またたきのうちに世界が構築されていく。英雄の討伐譚が(ひもと)かれていく。


「Swa fela fyrena feond mancynnes

(かくて人類の敵、恐ろしき孤独の()()は、)

 atol angengea oft gefremede

(しば)(しば)かくも数多なる(あく)(らつ)()(どう)のかぎりを()くせり)

 heardra hynda Heorot eardode

(かの魔物は闇夜にて牡鹿館にあらわれるも、)

 sincfage sel sweartum nihtum

(神の(おん)(ちょう)、御加護なきゆえに、)

 no he tone gifstol gretan moste

(ほう)(しょう)(たまわ)りし玉座に近付くこと(あた)わざりき)

 matdum for metode ne his myne wisse

(してまた、神の恩寵など知らざりき)」


 戦力に期待できないパンドラとヒロを、シャロンたちの詠唱により創造されし結界がつつみこんだ。

 これでこの場が〈牡鹿(おじか)(かん)〉であり続けるかぎり、彼らにグレンデルの(そう)()は届かない。とはいえ、あのふたりを攻撃する(いとま)などあたえるつもりはない。


 黄金の濃霧がひろがるだけの特異領域に、広々とした列柱廊(ロッジア)が出現した。(うま)れた柱はただの背景にあらず。シャロンの意識をうけた時点で、無詠唱にもかかわらず敵の(きょ)()を貫くための(あま)()る神剣と化した――のだが。


「我、()れなるを名剣ネイリングと定義する」


 (しゅう)(しゅう)とグレンデルが()らした言葉によって、彼の身を(さいな)んでいるはずの柱に(れっ)()(じゅう)(そう)する。シャロンが剣身を(ちぬら)すよりも(はや)く、音もなく砕け散った。


 ネイリングとは、ベオウルフが殺害するために振るった刀剣のひとつ。グレンデルの強固な外殻に()()をつけることなく砕け散った。


 なるほど、この()()(たい)()するのははじめてだが、獣性はなはだしい(がい)(ぼう)とは裏腹に、一千年ちかく語り継がれてきた叙事詩を恩恵につける程度の知能はあるらしい。これを反撃の好機だと判断する程度の知能も。


(フェン)よ、()()ちろ」


 沼地を意味する言葉をうけて、牡鹿館をぬりかえるべく(めい)(もう)(しょう)()がたちこめる。


 重装備する騎士にとっての()(もん)――騎馬兵、歩兵の類別とわず、おおきく()(どう)(りょく)をそぎおとす戦場といえば、(でい)湿(しつ)(げん)だろう。

 そも、彼はグレンデル。沼地に棲息する醜悪の巨人、あるいは竜なのだ。


 たとえアーサー王伝説に登場する〈偉大なる城(キャメロット)〉と同名の組織に所属していようと、シャロン・アシュレイが真実それに(ゆかり)する英霊でない以上、(れき)(ぜん)たる魔力の差は存在する。この場を〈牡鹿館〉であれと願うならば、なおさらだ。


 この世界がグレンデルの支配に傾くのは必然。足元がぐずついたかと知覚するこの一秒でさえ、大理石の床は砕け、(なん)(でい)を深めていく。


「いでよ、フェンリル」


 その宣誓が、()()()しの一言だった。

沼に棲む者(フェンリル)〉の意を(かん)する氷狼が、破光とともに(けん)(げん)する。

 長々しい説明はいらない。北欧神話の悪名高き大魔狼だ。この援軍によってあたえられる恩恵はさらに深度を増した。


 だがグレンデルとフェンリルは登場する神話が異なるため、直接的な繋がりはない。召喚主となるグレンデルを弱体化あるいは(せん)(めつ)できれば、フェンリルをこの場に繋ぎとめる効力(ちから)はなくなるだろう。また彼らは倒され方まで書き(つづ)られているのだから、叙事詩から得られる恩恵は、総合的にみてシャロンに軍配があがる。


 気を付けなければいけないのは、なぜフェンリルが(けん)(げん)したのかということだ。

 カインの(こう)(いん)たるグレンデルが現れるのはわかる。しかし沼繋がりというだけで、氷狼を召喚できるだろうか。ましてやフェンリルは高名ゆえに、その()(かた)には大きな()(てい)がかけられている。ということは――……。


「ローズ! どこかにフェンリルを繋ぎとめる首輪が……(けい)()があるはずよ! 彼は私がひきうける。そのあいだに繋鎖の破壊を!」

「はっ! ご命令のままに!」


 沼に関連した()(しょう)は多い。名前に〈沼〉の意味をもつ者はなにもフェンリル(こう)だけでなく、活動領域が沼地という条件ならば、なおさら(すそ)()はひろがる。彼らの多くは雑魚(ざこ)同然だが、物量で突破されては意味がない。


 牡鹿館はグレンデルにのみ有効な結界。なんとしてでもフェンリルという沼主を()ち、(てっ)()をたちきって、純然たるベオウルフの英雄(たん)にもどしてみせる。これ以上、異物を混入させはしない。


「古英語で叙事詩を(うた)えるのがローズだけと思わないことね」


 騎士となるために(けん)(さん)を重ねたのは、なにも戦闘技術だけにあらず。()(こん)東西、騎士の物語や英雄譚ならば原文で読み尽くした。


「tanon untydras ealle onwocon

(カインよりうまれいでるはあらゆる邪悪、)

 eotenas ond ylfe ond orcneas

(喰人鬼、小妖精、(あっ)()、)

 swylce gigantas

(また神に()()かいし巨人どもなり。)

 ta wid gode wunnon lange trage he him das lean forgeald

(しかるに神はかの邪悪なる者たちへと(むく)いを()したまへり)」


 とうの昔に死語として(すた)れた言語を、(おごそ)かに、高らかに、なによりも(ほこ)りをもって(うた)いあげる。それは怪物に()めよる刹那だろうと関係ない。


(はい)()(ばく)()されし(あわ)れな(ひょう)(きゃく)

 我、(なんじ)()(いん)の使徒なるを知り得る者

 (へだ)つ界へと(かえ)らぬならば、我は新たな(たつ)(はい)すること(いと)わん!」


 その(くち)()は、記憶という名の(かん)()(もく)(ろく)から最善解を解き放った。


「〝繋鎖〟

 牡鹿の(ちょう)ありき者が、汝に告ぐ――我、エイクスュルニルなり!」


 敵陣の()(まく)がうちふるえるより(はや)く、シャロンは(しっ)(ぷう)のように(れい)(れい)しく、(ひょう)(ふう)のごとき(とう)(じん)となって駆けぬける。だが敵も、ただ(ちょう)(もん)()(てっ)するはずもなく。


貴様(シカ)など()(そう)にすぎぬ

 ()く現れ出でては()(よく)のままに(さん)を食せよ、夜魔ヘルハウンド」


 氷狼の(けん)(ぞく)としてだろうか、グレンデルはふたたび夥多(かた)なる黒妖犬を召喚した。牡鹿館という繋鎖があるうちは、結界を独力でやぶることは不可能。ゆえに(えん)(しょう)フェンリル公を()(てき)の対象から()らさない。


 風のように(はや)く、光のように(するど)く。

 戦場を駆ける、黄金の牡鹿となる。


「氷狼フェンリル! ()ばれたばかりで悪いけど、あなたには退場してもらう!」


 一閃は二(だん)となって(けん)()をあたえ、百の(ざん)()(すじ)の創傷となって大狼を(むしば)んだ。


 (ぼう)(がい)はない。ただの数あわせとして召喚された猛獣は、みな軟泥(なんでい)に足をとられている。()(よく)がなく、(だん)(がい)棲処(すみか)とせず、硬い平地を(しっ)()することに慣れた()(こう)動物では、シャロンの速度に追いつけるはずもない。彼らは北欧という土地的な繋がりがあるだけで、沼への関わりがなければグレンデルやフェンリルの時代とも異なるのだから。


(こう)(ふく)(ごう)もつフウェズルングの()よ! 心の臓を()たれて死ねッ!」


 ――小娘が、()(しゃく)な!


遠天(とおぞら)まで揺るがす破壊の(だい)(かつ)に、しかし(ひる)むような(やわ)い魂ではない。(せん)(せん)(こう)(ぼう)ほとばしる(おう)(しゅう)をくりひろげながら、特大級の神魔をあいてに勝機をさぐる。


 ――おお あの(まばゆ)さ あの(はや)

 ――知っているぞ オーディン神だ 

 ――(いな)、スレイプニルか

 ――共々、氷狼に喰われる者、〈必定なる贄(ガウト)〉だ


〝貴様は氷狼に喰われる(もの)である〟

 黒妖犬が(かか)げる()(はい)も、シャロンを教育することはできない。


 あたりまえだ。なぜ足場の不安定な戦場で〈黄金〉〈勝利〉を象徴する(わし)にならなかったと思っている。

 あるいはどうして、水、空気、大地ですらも(さえぎ)ること(あた)わぬといわれた軍馬スレイプニルや、その()(づな)をにぎりし金兜金甲冑のオーディン神、そうでなければ彼の息子であり氷狼フェンリルの殺し手ヴィーザルを()(はく)しなかったと思っている。


〝eda sa dyrkalfr doggu slunginn er efri ferr ollum dyrum ok horn gloa vid himin sjalfan(はたまたあらゆる獣よりも優れ、天にむかいて角きらめかす、露に濡れそぼる若鹿のごとく)〟とたとえられる英雄ヘルギになることもできた。矢よりも素早く動くことができたというアルテミスの聖獣ケリュネイアの雌鹿は、シャロンの性別と(かい)()しない。


 それでも〝牡鹿〟こそが最善解。シャロンの矜持と黄金に深くむすびつき、沼地という悪条件を好機に変える機動力をもち、牡鹿館という繋鎖をより強固にして、氷狼フェンリル公に()まれるさだめを回避する。


「私は勝つ! この〈恩恵享受(ミザンセーヌ)〉は、あなたたちでは(くつがえ)せない!」


 確信の深さが、シャロンを飛雨(ひう)のように()(うご)かした。沼地に(てん)(ざい)する岩石のひとつを靴裏がとらえる、もう次の刹那には、(よど)んだ古沼にあるはずのない風が()と舞いあがる。


 ――カインはなんといっていた

 ――キャメロットに属するのだと

 ――ならばアーサー王か

 ――〈熊の王〉か

 ――だが鹿だ あれは牡鹿だ


 もはや獣たちの()()(きょう)(かん)もシャロンの背をおす(じゅん)(ぷう)(しん)(でい)()によろめきながらも(ちゅう)(せつ)のかぎりをつくそうと追い(すが)るさまは、まるで彼女を頭領とした一部隊のようでさえあった。

 しかしその(しん)(しょう)をおなじくした兇犬兇狼は、ここにきて(りょ)(がい)の解釈を(きょう)()する。あるいはこれこそがグレンデルの策だったのかもしれない。


 ――オーディン神にも〈()()()()()()()()授かりし者〉にも(こく)()する

 ――我ら黒妖犬を(ひき)いるように、(しっ)(ぷう)のごとく駆けぬける

 ――もしやこれは 


 まずい、とシャロンの本能が叫んだ。フェンリルへの攻撃を(ほう)()してでも、この(きょう)(そう)(かん)()してはならない。

 瞬時に判断したのはよかった。だが、それでは遅すぎる。


 フェンリル相手に背はむけられない。紅眼黒躯の妖犬ヘルハウンドを雑魚(ざこ)とみなし、()()()(まつ)と見逃したがゆえに、その数は多勢に無勢のまま。いまから(せん)(めつ)など不可能だ。打開をもとめて(どう)(りょう)の名前を(しっ)()するも間に合わず。



 ――〝汝、我らワイルドハントの王なりや〟



 極大の(こう)(しょう)が、()(てい)(しょう)(どう)した。

 欧州全域において、()(せん)()(ぞく)(ろう)(にゃく)男女のわけへだてなく知れ渡った〈()()()()()()()()()()猟の王〉の名が(はら)む恩恵。それらが刹那、()(まん)のように絡み、たちまち彼女を覆っていく。


「あ、ああッ……!? うそ、そんな、違う、わたしは……!」


 戦局はつねに千変する。その可能性を知っていたはずだった。そう信じなければ、ただの人間でしかないシャロンが神魔に立ち向かうことはできないから。

 けれど金ですら条件次第では腐食するように、何事にも絶対はない。ましてや神魔を相手にするのだ。いつでも勝てるわけではない。いつまでも優勢でいられるわけがない。


 身をもって思い知る。形勢は逆転した。

 完全に、徹底的に、――致命的に。


「ち、ちがっ、違う! わ、私は――あたしは騎士! シャロン・アシュレイよ! 王城の騎士で、あなたたちの敵で、人類の守護者……っ!」


 (どう)(こく)にひとしい反論も、それを(こう)()とするにはあまりに()()()だと獣たちが(ごう)(しょう)する。


 ――なにを(おっしゃ)

 ――オーディン神のごとく氷狼フェンリルと戦ったではありませぬか

 ――我ら黒妖犬を(ひき)い、疾風のごとく駆けぬけたではありませぬか

 ――(えん)(たく)の騎士、かの(そん)()につらなりし末胤(まついん)であると聞き(およ)んでおります

 ――刹那に永遠を駆けめぐるさまなど、まさしくヘルラ王その人でありましょう


 異様な()()(つい)(しょう)だった。これまで築きあげてきた勢力図のみならず双方の関係――異類退治譚という物語の定義すらくつがえす、慮外にして劇的の一撃。


 ――あゝ (まん)(かん)(しょく)の黄金につつまれし()(よう)はオーディン神のごとく

 ――あゝ かの()(つるぎ)にやどりし(ちゅう)(こん)()(たん)の御心は円卓騎士のごとく

 ――あゝ 牡鹿の(れい)姿()に変じしさまはヘルラ王のごとく

 ――あゝ 我ら幾千牙を導きしさまは死を運ぶ狩猟団



 ――ゆえ 汝は我らが主〈()()()()()()()()()()猟の王〉なりや



「……ッ!」


 英国の冬が吹き荒れた。

 音が、匂いが、冷たさが、直接シャロンの脳を殴りつける。思い出したくない過去を、(いや)(おう)なしに心の(おく)()から()()りあげた。


 ――〈我らが主(ハンツマン)〉ではないと(おっしゃ)るならば、汝の名はいかなるものや


 聴覚が支配された今、その犬鳴狼噪(けんめいろうそう)が真に彼らのものたりえたのか、……幻聴なのかさえわからない。(おぼ)れる者が(わら)をつかむように自身の名を叫ぶ。


「わ、たしは……シャロン・アシュレイよ……!」


 ――我らが王なる者が(まと)いし綽名(ふたつな)は、数十を(げい)(いん)するありさま

 ――シャロン・アシュレイ それは(おん)()()()ではありますまい

 ――王の(へい)(どん)せし異名のひとつにあらずと誰が決め打てましょう


「――……!」


 恩恵という枝蔓にからみつかれ、シャロンは沼に墜落した。身体をつつむ泥濘(ぬかるみ)は、けっして彼女にとって酔覚(すいかく)の水となってはくれない。


 知らぬ誰かの声が響き、知らぬ誰かの記憶がフラッシュバックする。目がまわった。吐き気がした。この黄金世界で我が身を牡鹿(おじか)のごとくあれと願ったように、今は犬狼たちが神魔に()ちろと苛んでいる。


 そう、これは精神汚染だ。シャロンをワイルド・ハンツマンそのものに変じさせるための、(ひょう)()()(しき)。十五年前のように、人を人あらざる者へ()とそうとしている。


 ならば(こう)じるべき手段もわかっている。

 たった一言、言い放てばいい。

 シャロン・アシュレイの。自身の。唯一無二となる真の名を。


「se vuoi ch'io ti sovvegna, Dimmi chi sei

(我が助けをもとめるならば名乗るがいい)」


 (しゅう)()グレンデルが、身動きできないシャロンを(かん)()する。殺す(こう)()などいくらでも得た魔獣の、(ごう)(まん)な最後(つう)(ちょう)だった。


「――……」


 わかっているのに、声がでない。

 泥をあびた自身の髪が、赤茶けてみえる。自身のものではない記憶が(さく)(そう)するさなか、まだ彼女が〝シャロン・アシュレイ〟ではなかったころの景色が舞って、(まんじ)(ともえ)に織り重なる。


「――…………」


 ()ちた家の、薄汚れた壁面をはがした。あまい匂いがした。犬歯、(じゃく)(はん)()(ぼう)()()。ちいさな子供たちはみな喜んだ。見ているこちらが苦しくなるくらいの痩形(そうけい)を、(けん)(めい)になって揺り動かすものだから、まだ赤茶の髪だった〝あたし〟は苦笑して、灰がかったあまい匂いのそれをすべて手放す。「――」青白いくちびるが、嬉しそうになにかを呟く。「――」たぶんそれは〝あたし〟の名前なのだろう。「――」くちびるが(かな)で、空気を揺らがせたはずの音は、なにひとつ聞こえないけれど。みんなが白いお菓子を楽しそうに食べる音、そして〝あたし〟の()えによる腹鳴(ふくめい)だけが、(うつろ)のなかに響いていた。



まだ続く

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