1章6話 - 戦う理由
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ローズはてばやく吐瀉物を片付けると、優しい沈黙をたもったまま、ヒロの隣に腰かけた。ゆっくりとソファが沈む感覚に、傷付いた心を愛撫されるような錯覚に陥る。
「先ほどは大変失礼しました。争いに巻き込まれ、命の危機に遭い、……命拾いしたかと思えば騎士となり戦場に立てと命じられる。その不安や戸惑いを配慮しきれず、本当に申し訳なく思っております」
違う。死ぬことは怖くない。誰かを傷付けてしまうことが恐ろしいのだ。
そう説明しようにも吐き気は健在で、ヒロは黙って聞き役に徹することにした。話したところで理解してもらえるとも思っていない。
むかいあうのではなく、かたわらに寄り添うことを選んだ彼女は、そんなヒロの諦観に気付くことなく淡々と言葉を続ける。
「ですが、どうかご容赦を。紘さまにとって平穏が日常であるように、騎士にとっては神魔と戦うことが日常なのです。また騎士の適性を持つ者は稀少で、選り好みする余裕はありません。なによりアシュレイ卿は〝矜持〟を冠する騎士ですから、どうしてもご自身の正義を他人に押し付けてしまわれるのですわ」
「……そんな、」
「事実ですわ。彼女にとって譲れないもの、守りたいものがあるように、他の方々にもそんな想いや価値観があるとは思えないし考えない。いいえ、むしろ考えないようにさえしている」
もうここにはいない少女の麗姿を、そっと脳裏におもいえがく。
意志が見えた。心の強さを感じた。守るという決意、戦うという熱意が、シャロン・アシュレイという存在をささえる真芯であるように思えた。その輝きを眩しいと思いこそすれ、不快に思ったことはない。
そんな内心すら見通すように、ローズは優しくヒロの手をなでる。
「彼女を悪しざまに言いたいのではありません。あの高慢さは騎士に必要なものであり、我らをとりまく環境を考えれば不可抗力とも言えましょう。――そう、機関には他人の事情を一切合切無視できるだけの手段がある」
「手段……?」
「ええ。我らが〈秘なる霊液〉とよぶ、特定の記憶を剥奪する効果をもつ薬液がございます。適性者がご年配や著名人ならば病死や事故死として鬼籍いりしていただきますが、あなたさまは該当しないため、これを用いて地域一帯の〝消毒〟をおこなうのですよ」
「ええと……にわかに信じがたい話ですね」
それこそ漫画や小説くらい非現実的な事態に直面したばかりだ。なのにローズの説明はヒロの心を上滑りしていく。正直に言って、どういう反応をすればいいのかわからない。
「ふふ、そうでしょうとも。わたくしも数年前にまったくおなじ反応をしましたわ」
ローズは足を組み替え、てのひらをヒロから膝頭に移した。そのまま過去へ思いを馳せるように遠くを見つめ、静かに語りだす。
「わたくし、実は騎士として新参者なのです。数年前に適性を見出され、今の紘さま同様、選択肢をあたえられることなく伝説ある王城の騎士となりました」
「……それは……さぞつらかったことと思います」
養護施設で育ち、この春に高校生となったばかりの世間知らずでも、なんとなく察することはできる。きっと彼女には親兄弟や友人がいた。夫や子供だっていたかもしれない。職に就いていれば積みあげたキャリアもあった。そのすべてが抹消されたのだ。つらいの一言では、到底言い表せないだろう。
だが返ってきた言葉は、まるで思いがけないものだった。
「いいえ、それは違います。もちろん機関はこちらの事情など最初から歯牙にもかけていなかったのでしょうが……わたくしにとってもこの任は選び、掴みとったものなのですわ」
「……っ!? どうして、ですか?」
「子供がいるからです」
声音に悲しみの温度が灯った。
瞳のなかでちらちらとまたたく濃爛の寂しさが、彼女にとっての蝕であり、しかし同時に生きていくための糧であることを知る。
「わたくしが目を離した隙に、まだ幼いあの子は連れ去られた。……次に見つけたときにはもう、なにを吹き込まれたのか誘拐犯を家族だと思い込み、わたくしのもとに帰ってこようとはしなかった」
分別もつかないほど幼いうちに生き別れになったのなら、肉親を誤認するのも無理からぬ話だ。あるいはストックホルム症候群なのかもしれない。これは犯罪被害者が、様々な要因によって、犯罪者に好意を抱いてしまうことだ。
「紘さま。わたくしはあの子を探すためだけに騎士となったのですわ。騎士になれば機関の後ろ盾を得て、世界中のどんな場所にも行くことができる。どれほど身分の高い者にでも接触できる」
「……その子のことが、とても大事なんですね」
彼女の語る〝本当の両親を知らぬ子供〟がまったくの他人事とはおもえなかった。
ヒロが両親について知っているなけなしの情報は、大規模な事故により亡くなったらしいということだけ。「らしい」などと曖昧な表現をしたのは、遺体が特定されなかったせいだ。当時赤ん坊だったヒロの記憶にも、第三者の記憶や物証にも、両親の痕跡は残らなかった。
今年で十五年目を迎える。おそらくこの先も、家族についてなにひとつ明かされないままだろう。
憶えていない両親の死を嘆き悲しむほど、器用な性格はしていない。けれど、だからこそ道端で萌えづく雑草や、今は料理というかたちに変わってしまった生命のいきつく最涯に、ひとり涙ぐむのかもしれなかった。大事なものを、大事だと認識できるまえに喪ってしまったから、こんなにも無差別に、あらゆるものに命の価値を見出してしまうのかもしれなかった。
「どんなに傷付いても、どれほど傷付けても、……それでも戦わなければならない意味や覚悟が、あなたがたにはあるんですね」
「ええ。だからこそ、紘さまにも前向きに考えていただきたいのです。選択肢のない不自由さのなかで、自分になにができるのか。なにを望み、なにをなすべきなのか」
「……!」
「騎士の要件とは、特異領域に存在できることのみにあらず。特異領域を〝創造する〟ための信念も問われます。……紘さまはあの世界で植物を創りだしたのでしょう? ならば、あるのではありませんか?」
――あなただけの、揺るぎない信念が。
ローズの言葉は投石となり、心という湖に波紋をえがく。
自分だけの揺るぎない信念。誰に嗤われ軽蔑されようと、どれほど現実に即しておらずとも、どうしても捨てられなかった願い。争いが苦手なのに譲れなくて、どれほど間違っていようと守りたいもの。
それは――……。
「僕は……」
思考の空隙が埋まるのを待たずして、ローズが険しく蹙眉する。
母親の慈愛をたたえた双眸が、転瞬、騎士然たる威迫を孕んだ。
「敵襲です」
「ごっ、ごめ、ごめんねヒロ、ごめんなさい、シャロン……っ」
わあわあと泣きわめく声が、廊下に響く。
いつまでそうしているつもりなのだろう。謝罪の言葉を聞きたくなくて、今まで以上に歩を速めた。それが苦痛だったらしく、繋いだ手の先で、泣き声がさらに大きくなる。
「――泣かないで!」
気付いたときには叫んでいた。
「やめて、謝らないでよ! 私が悪者みたいじゃない! 世界のため、人類のため、――あなたのために戦っているのに!」
気付いたときには遅かった。一度すべりおちた言葉は取り消せない。誰かの耳に届いてしまった言葉は奪い返せない。離してしまった手は――……。
「……シャ、ロ…………あ、あたし、」
薄い榛の双眸が、またたくまに悲しみと苦しみで黝んだ。寄る辺をなくした指先は血の気をなくして蒼褪め、痛々しいほど震えだす。
――違うの。こんなこと言うつもりじゃなかった。
――私、本当に……あなたやヒロを責めるつもりなんてなかったのよ……!
そう言いたかった。でも言えなかった。
パンドラの「ごめんね」が「早く慰めて」に聞こえた。「あたしは悪くない」「あなたは謝らないの?」と責められた気がした。
わかっている。これはただの被害妄想だ。彼に騎士となることを強要し、苦しめ、泣かせてしまった罪悪感による幻聴だ。彼女は嫌みを言うような子ではない。
一方で、シャロンは。シャロンが吐きだし、パンドラに投げつけたあの言葉に、責める意図がなかったと言えば嘘になる。
この子にだけは嘘をつきたくなかった。けれど自分の非をすべて認められるほど強くもなかった。後悔と高慢の板挟みにあいながら、せめてもの妥協点を練りあげる。
「……語弊があったわ。私は私のために戦っている。今の言葉は忘れて」
「でも、あたしのせいで……シャロン、いっぱいケガして……」
ああ、ほら。わかっていた。とっくに知っていた。
彼女はいわば清水の笹舟。帆がなければ舵もなく、周囲の地形や流速にただただ翻弄される。「あなたのために」なんて響きが美しいだけの、恩着せがましい言葉で寄りかかってはいけない存在なのだ。
「騎士になって、みじめな人生をやりなおす。新しい自分に……私が望む〝私〟になる。そのための必要経費よ。勘違いしないで」
パンドラに聞かせることで、自分に言い聞かせる。
これは嘘じゃない。なにも間違っていない。シャロンの生きてきた世界はすでに地獄だった。もうまともに憶えていないけれど、みじめで、つらくて、苦しくて。だからこそ、美しく光り輝くものになりたかった。たとえ傷付き、命を落とすことになろうとも。生死となりあわせの戦場が、どこまでも痛く、苦しく、おぞましい場所であろうとも。自分で道を切り拓く存在になりたかった。
「……私は敵と戦い、あなたを守る道を選んだ。そういう生き方を望んだ。どんな敵が相手だって、どんな味方がいたって、決して変わらない。だから謝らない! ヒロにも、あなたにも、絶対に謝ったりしないんだから!」
自分の頬を、自分で叩いた。乾いた音が廊下に谺する。
そうだ、生まれ変わったのだ。騎士として生きることを定めとしたのだ。ならば一体なにを戸惑う必要がある。誰が否定しようと騎士の本質は変わらない。彼に理解されなかったくらいで揺らぐ生き方などしていない。
私は、シャロン・アシュレイは、王城の騎士だ。
世界を護るためにすべてを失ったお姫様を、命つきはてるまで守りぬく者だ。
今一度その決意を我が物とした刹那――まるで見計らったかのように、世界が黄金色の光暈でつつまれた。殷々たる吶喊は、当然、シャロンの矜持をうけて創りだされたものにあらず。神魔による襲撃だ。
「……! これは!」
「アシュレイ卿、敵襲です!」
声のした方角に目を転じれば、ローズたちが駆け寄ってくるところだった。
領域が彼らを内包するほどの広さだったのか、それとも奇襲を感知したローズが侵入をはかったのか。どちらにせよ味方が増えるのならば心強い。なぜなら敵は――……。
「この黄金色……またカインと見るべきかしら?」
黄金に対応するのは〈矜持〉か〈傲慢〉のどちらか。
矢継ぎ早の問いかけに、ローズは即座に答えをはじきだす。
「いいえ。魔力の質を鑑みるに、原初の咎人ではなく、彼の胤裔グレンデルでしょう」
顕現させた刺突剣をかまえながら、シャロンは彼らに気付かれないよう安堵した。
ローズは後方支援型だ。索敵に特化しており戦闘経験が浅いために、前線はシャロン単騎となるだろう。だが魔獣ならば騎士補正がはたらく。勝機は充分だ。
「ローズ、あなたはパンドラの護衛を最優先に。融通がきけそうなら〈世界再構築〉のサポートをお願い。今より開幕する英雄譚は、叙事詩〈ベオウルフ〉。私の邪魔にならないよう頼むわよ」
「はい、承知しております。アシュレイ卿」
「シャロンっ、気をつけて……! ぜったいむりしちゃダメなんだんだからね……っ!」
返事はしない。いや、できない。
ここは今から戦場となり、シャロン・アシュレイは騎士として赴く。
傷ひとつ負わぬ場所を〝戦場〟とは呼ばないのだから。
まだ続く