3章13話 - 最終決戦
「Che io non preghi per essere al riparo dai pericoli,
(危険より守りたまえと祈るのではなく、)
ma per avere il coraggio di affrontarli.
(危険に立ち向かう勇敢な人間であらんことを)
Che io non preghi perche venga lenito il mio dolore,
(痛みよ鎮まりたまえと乞うのではなく、)
ma per riuscire a superarlo.
(痛みに打ち克つ心を願える人間であらんことを)
Che io non mi affidi agli alleati sul campo di battaglia della vita,
(人生という銘の戦場で盟友をもとめるのではなく、)
ma piuttosto alla mia propria resistenza.
(己自身のちからを見いだす人間であらんことを)
Che io non brami mai, angosciato di paura, d'essere salvato,
(不安と恐懼のもと救済を切望するのではなく、)
ma speri piuttosto nella pazienza necessaria a conquistare la mia liberta.
(自由を勝ち取るために耐える心を願う人間であらんことを!)」
初めに呱々の声をあげたのは、日高直紀だった。
彼のはなつ伊詩が、世界よかくあれという祈りではなく、他ならぬ自分自身がこうありたいという願いとなって響きわたる。
黄金の戦士は嫌でも気付かされた。多寡の差はあれど、自分たちが抱えた半魔の血液を介して、彼の強大無比な魔力がながれこむのを。
流出量は、完全回復などという範疇におさまらない。戦士として――否、種族としての強さそのものに干渉している。当然、それだけの量を一方的にあたえるということは。
「ナオ! あなた、まさか自分の命を削って……!?」
「そう驚くことか? この魔力は努力して掴みとったわけじゃない。たまたまラッキーで拾ったも同然なんだよ。……だったら落とし主に返すか、せめて落とし主の利になるよう使うのが道理だろ?」
まさしく先の詩だ。ただ与えられることになんの意味がある。一度失ってしまったら二度と取り返せないし、同等の価値を用意することもできない。そんなもの、最初から自分の持ち物ではなかったということだ。
真に大切ならば。絶対に失いたくないのであれば。完全に壊れ、消えてしまうまえに、みずから手放さなくてはならない。
そう、手放すのだ。
使わない鉄は錆びる。流れない水は澱み、腐敗するか、寒冷によって凍結する。
〈暴食〉を冠するほど底知れぬ所有欲があるからこそ、日高直紀はつとめて空であり、水であろうとする。これからもそうありたいと努力しつづける。
「それにゲームだろうがリアルだろうが、勝つためにやることはみんな一緒だ。――最も相手の虚をつくタイミングで、一番効果的な攻撃手段で、全戦力をぶつける。今回これが最適解ってだけの話さ」
黄金の傷を癒やし、存在としての格を底上げし、加護まであたえる。それだけでナオの魔力はかぎりなく減退した。
すかさず心身が防衛本能を働かせる。――すなわち奪え、喰らえ、と。
ゆえに、その凶暴な衝動の矛先を、ほんのわずかに変えてやる。
カインやシャロンではなく、怨敵イシュタルへと。
「結界を解くわ。――三、二、一……!」
カウントダウンが終わると同時、結界が消失した。たちまちイシュタルの連撃がおぞましい翼となって襲来する。かぎりなく瀕死の態で、それでも親友であることを誇る男は果敢に最前線へと躍りでた。
「なあ、本当にお前こそが母親だってんなら――あいつがあいつとして生きることを否定してんじゃねえよ!」
わずかの魔力すら出し惜しみしてやらない。広汎な空を埋めつくす薔薇の鞭を、膨大な鎗群で撃ち落とす。激しい爆轟音とともに、彼我の間にあった速射の威が、ひとつ残らず相撃し、消滅した。
「……誰かを守るなんざ性に合わねェが、しょうがねェ」
煙る粉塵のなかで、ひときわ強い光彩を放ったのは黄金の狩人だ。胸元の薔薇紋にふれ、獅子吼する。
かつてのように復讐を誓うのではない、勝利を誓うのだ。
過去を贖うでもない。未来こそを切り拓く。
「勝つのはオレ様たちだ! ――さァ、大淫婦! 銃撃驟雨の手本、魅せてやるぜェッ!」
ふたたび無数の銃火器が満ちた。
命を刈りとり、死を撒き散らすための黄金が、燦々奕々、この宙をうめつくす。
「少々女を知っただけの青二才ごときが生意気な! その驕慢、完膚なきまでに砕き壊してさしあげますわ!」
バベルの魔力を蝕み、猖獗を極めしイシュタルが迎え撃つ。
無尽蔵の魔力を心ゆくまで濫費して、数千数万翼の銃弾ごとカインを押し潰しにかかった。
だが彼にとっての痛打こそ、彼女にとっての痛打。
「おおおおおッ! 〈受けたる痛苦には七倍の復讐を(アヴェンジド・セヴンフォールド)〉!」
反射という性質上、敵を屠る最低限の威力で攻撃するのが最も低リスク。だが半吸血鬼がカインの生命力をはねあげたため、必然、莫大な攻撃をしかけるしかない。
たとえバベルに憑依し、融合をはじめていようとも、〈七倍の復讐〉は強大無比。世界を破壊するような威力のさらに七倍をはねかえされ、一瞬とはいえ、イシュタルは沈黙する。――沈黙せざるをえない。
「勝てよ、負けたら承知しねェからなァ!」
ずたぼろの手で、腕で、全身で――カインはシャロンの背を押した。
シャロンも翔る。駆ける。ひた走る。
パンドラを抱きかかえながら、黄金卿によって切り拓かれた光の道を、迷いなく突き進む。
「……君は……」
「また逢えた」
「どうして、ここに?」
声はバベルの……否、皆守紘のものだった。イシュタルが沈黙したからこそ、本来の主たる彼がおもてに出てこられたのだ。
「何千年もまえの始まりのように。私の命で、貴方を人間にする」
そしてこの声は、言葉は、……恐らく初代が発したのだろう。
ギリシャ神話における人類最古の女性。開けてはいけない匣を開けてしまった、すべてをあたえられし少女。彼女によってあらゆる災厄は世に満ちた。残ったのは――〈希望〉。
シャロンに抱きしめられながら、ベアトリーチェが言う。
「シャロン、あなたがわたしの誇り」
地獄の門を抱きしめながら、初代パンドラが言う。
「ヒロ、貴方が私の希望」
初代、当代、……今まで継いだ幾多の少女たちとして、パンドラは笑う。笑いながら、輪郭をうしなっていく。その儚さのぶんだけ、醜悪の門は人としてのかたちを得る。
「もう傍にいられなくても、話せなくても、このさき想い出をなにひとつ作れなくても。……それでも、私はずっと貴方たちを愛しているわ」
それは人の死だった。
それ以上に、人の生そのものだった。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
春の日に、桜が舞い散るように。
夏の日に、蒼海が陽炎を暈すように。
秋の日に、月下、鈴音が鳴り響くように。
冬の日に、六花がやわらかく融けていくように。
パンドラと呼ばれた少女が、儚くも凄絶に、その命をまっとうする。
「……ぼくは、」
誰かのために命を擲つ。これ以上、誰も傷付かぬよう願う。
彼女は、バベルに〝人とはかくあるもの〟を伝えた人間なのだ。
「ぼくは……僕は……!」
緑。自然。……生命。
地獄をうみ、地獄だけをつぶさに見てきた存在が、なぜ生命を創生できるのか。生命を尊べるのか。今、その理由を知る。
絶望と災厄のなかに、彼女は希望をみいだした。バベルもまた己が死と怨嗟の地獄そのものであろうと、願いつづけることをやめなかった。どうか傷付かないように。どうか幸せであるようにと。
「でも僕は……たくさんの命を見殺しにしてきたのに……!」
バベルとしても、アベルとしても、多くの命を奪ってきた。今とて皆守紘となるために、またパンドラを犠牲にした。
過去にはもどれない。喪った命はとりかえせない。償う術を持たない。そんな自分がなぜ〝皆守紘〟としてのうのうと生きられる?
――そんな気持ちが隙となり、仇となった。どくり、と心臓が嫌な音をたてる。身体のなか、心の奥深くから、そうでしょう苦しいでしょうとあまく毒々しい声が響く。
「う、あッ……!?」
「愛しい我が子バベル。そうです、この世は災禍で満ちている。あなたの心を傷付けるものであふれている」
ヒロのくちで、ヒロの声で、あまく、優しく、毒婦が囁く。
「母にすべてを委ねなさい。母の子宮に還りなさい。わたくしが、あなたのかわりに、あなたを傷付けるすべてから守ってさしあげます」
「……ぅ、あ、ああっ……」
自分を放棄する。――それはなんと魅力的な誘いだろう。
他人の言葉なのに、ヒロの声をしているせいで、あたかも自分自身が心から願っているような錯覚に囚われる。思わず頷きかけた、そのときだ。
「しっかりしなさいよ!」
殴られた。甘言も、意気地ない心も、たまらず霧散する。
「パンドラが死んで、あなただけがつらいんじゃない! 悲しいんじゃないんだからっ!」
胸ぐらをつかまれ、さらに殴られた。
けれど、ああ、どうして殴りつけた彼女のほうがつらそうなのだろう。
いや、違う。そうだ、……そうだった。つらいのは彼女だ。苦しいのも、悲しいのも、痛いのも、きっと彼女のほうだ。誰かを傷付けて楽しい人なんていない。本当はみんな、誰かを悲しませたくない。
「あの子の死を〝悲しいだけのもの〟にしないで! ただ〝あなたを悲しませるだけのもの〟にしてしまわないでよっ! あの子はちゃんと生きたの! 精一杯に生きたのよ!」
シャロンの双眸から絶え間なくこぼれおちる無数の涙が、まるで宝石のように光をはじき、潺々湲々、ヒロを濡らしていく。
いまや麗貌は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
度重なる戦闘によって、身なりはずいぶん襤褸を纏っていた。
でもそれが、ただどうしようもなく――……儚くも尊い、生命そのものだった。
「……シャロン、君は、泣いて……」
「あの子が死んだのよ。悲しいし、苦しいわ。泣くに決まってるじゃない!」
でも、と喘ぐように息継いで。
泣き濡れながらも、決して曇らぬ眼差しで。
金の少女は〝皆守紘〟にむけて叫ぶ。ただ叫ぶ。
「でも、たとえどんなにやり直せても、私はここに辿り着く。あの子の死を、生き様を、決意を! 私は最期まで守りぬいてみせる! あの子が生きた証になってみせるから!」
騎士としてのシャロン・アシュレイが、パンドラの死を糧にしようとしている。
少女としてのシャロン・アシュレイが、ベアトリーチェの死を乗り越えようとしている。
ならば自分にはなにができるだろう。神々の門。犠牲の子。そんな過去を経て、罪を重ねて、逃げ続けて。それでも今、なにを願う?
胸の奥からあふれる、熱い衝動の正体は。
「僕は……僕だって……」
過去を思いだした。罪であふれかえっていた。
赦されないことは知っている。償いきれぬこともわかっている。
けれど、そのうえで願う。
どんな存在であったのか、ではなく。
これから先、どう生きていきたいのか。どういう人間でありたいのか。
――いけません、バベル!
――子供は黙って母親の言うことを聞いていればよいのです!
母親の声が響く。愛という建前、心配という言葉で飾られた支配欲が、否定に否定をつらねていく。
「……僕だって、君とおなじだ……。あの人が死んで悲しい。苦しい。つらくてたまらない」
叶うならば逃げだしたい。すべてから目を逸らし、耳を塞ぎ、なかったことにしてしまいたい。
――……!
――ええ、そうでしょう。そうでしょうとも!
――ならば……!
「……でも!」
本当はずっと昔からわかっていた。自分のなかに答えがあった。
この地獄を変えたいと願ったのは、自分自身なのだから。
皆守紘として、シャロンの気持ちに寄り添いたい。ナオやカインたちとも向き合いたい。悲しみや苦しみを、そのままで終わらせたくない。
「この心はアベルでも、バベルでも、――母親のものでもない!」
だから言葉を放つ。宣言、いや、宣誓する。
あるがままの想いをこめ、ありったけの願いに変えて、解き放つ。
さあ、悪夢から目醒めよう。
「僕は――皆守紘だ!」
世界が息吹をあげた。
まさしく言葉によって世界が震撼する。
in principio erat Verbum
(はじめに言葉ありき)
et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum
(言葉は神と共にあり、言葉は神であった)
Hoc erat in principio apud Deum
(言葉ははじめ神と共にあった)
Omnia per ipsum facta sunt,
(万物は言葉によって成り、)
et sine ipso factum est nihil, quod factum est;
(言葉によらず成ったものはひとつもなかった)
古の時代、言葉の数は、そのまま事物の数だった。
言葉のないものは存在しないも同義であり、言葉がうまれることで、存在は存在たりえることができた。名前があたえられることは、生命をあたえられることに等しかった。
それはなにもキリスト教だけの概念ではない。たとえば日本でも〝訪れ〟という言葉が〝音連れ〟に由来するように。あるいは〝雷〟が〝神鳴り〟であったように。音がうまれるとき、人々はそこに生の息吹を感じてきた。命のはじまりに名前をつけ、誕生を祝福してきた。
〈世界再構築〉。
ヒロを中心に、世界はひろがる。
皆守紘としての世界がはじまる。
古きものは去り逝き、新しきものが生まれる。
そう、たとえば花のように。春のように。
花が咲けば、蕾はきえるだろう。
実がなるには、花は散り逝かねばならない。
けれどいつの日も、次の未来に繋がっている。
こしかたゆくすえ、かくあるように。
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