3章12話 - 復活祭
「――僕、は、ははっ、あァああァアアあぁァッ」
まさしく運命が心変わりした。
なんの気配も脈絡もなく、神々の門を無数の荊棘がつきやぶる。
その風爆は、さながら乳幼児にふるう情け容赦のない鉄拳めいていた。
「シャロン!」
人魔とも魔人ともつかぬ一声が劈くと同時、彼らによって後方に投げとばされる。いや、敵の穿刺による惰力のほうが勝っていたかもしれない。それほど彼らの反応は機敏だったにもかかわらず、すくなからぬ穿孔の撃がシャロンを蝕んだ。
「……――ぅ、あッ……」
左側から、本来見えてはならない臓腑がこぼれている。だがそんなことはどうでもいい。それどころではない。
「……ビ、…………チェ、」
四肢を投げだしたまま微塵も動かぬ友のもとへ、這いつくばってでも近付く。再会をはたしたときから、彼女の状態はお世辞にもいいと言えなかった。シャロンすらこのざまなら、誰よりも脆い少女はどうなったのか。
数秒なのか、何十秒か、はたまた数分か。爪を割り、汚泥にまみれ、気が遠くなるほどの時間をかけて辿り着く。すぐさま脈を確認するが、あるはずの手応えがない。
「……い、いやよ、ビーチェ、しっかりして……死なないで……!」
腸がこぼれるのも構わず上体をおこし、血を吐きながら少女の胸に衝撃をうちつけた。ただでさえ幼く、脆い身体だ。殺してしまわぬよう、けれど致死の恐怖におびえ、しないも同然の所作にならぬよう、必死に最善解をさぐる。
そうして何度目かの強打とくちづけを送ったときだった。幼女のくちびるに、かぼそい空気の流れがうまれる。眼瞼がふるえ、覚醒をきざした。シャロンは歓喜に滂沱し、花束のごとく友を抱きしめる。
「ビーチェ……! よかった、ああっ、ビーチェ……!」
だがベアトリーチェであるはずの彼女は応えなかった。
目覚めたばかりが原因ではない。白痴だからでもない。今の彼女の双眸には、月白色の知性がきらめいていた。
なによりも、明らかな意図でシャロンの涙を優しく拭いさり。
凜々たる態度、玲瓏たる声音で、かく告げるではないか。
「初めまして、シャロン。泣き虫なのは聞いていたけれど、本当みたいね」
地獄の門という表現を肯うかのように、いまや〈神々の門〉は幾多もの瘢痕をみせていた。
騎士アベルとはまるで真逆。装置という無機物のなかに、有機的な魔が蠢いている。想像力に秀でた者ならば、一叢の荊棘が這いずりまわっているように見えるかもしれない。
「そりゃァ奪うか犯すか殺せっつったけどよォ、いくらなんでも振り幅ありすぎだろ」
「立ったまま寝言をいうなんて器用だな。どう考えても憑依に決まってるだろ。……なあ、イシュタル」
ナオの呼びかけに、瘢痕がゆがみ、人面疽をかたちづくった。薔薇が繁茂するように、よりイシュタル神としての姿をなしていく。
「復活祭という言葉の起源は、女神イシュタルにあり」
黒き聖母。
死が横溢するはずの地獄に、ふたたび種々雑多な植物がひろがっていく。
「ならば冥界にくだり、地上に死という地獄が訪れたように。女神イシュタルは冥界より黄泉還り、地上にはふたたび春が訪れる」
冬に枯れ落ちようと、翌春にはまた満ちゆく植物の生命力。
イシュタル本人に薔薇との繋がりはない。だが動植物の豊穣神たるイシュタルの加護により、不毛の大地に薔薇が咲く。この場合、植物の繁茂とは支配の強さだ。
麾下を巻き添えにした。冥界くだりで縛りつけた。それでも彼女単独で黄泉還るのならば、もはや為す術がないのではないか。そんな絶望が黄金ふたりを覆った、そのときだ。
「……ああ、そうだな。よく知ってるぜ。今日が復活祭なんだってことを。なにせ今日のために〝俺たち〟は準備してきたんだからな」
不敵に笑み、高く掲げた手で――ナオは高らかに指を打ち鳴らす。
「さあシスター、頼んだぜ!」
カインが瞠目すると同時、碧空の天蓋から典礼が響きわたった。
domine, probasti me, et cognovisti me:
(主よ、あなたは私を探り 知っておられる)
tu cognovisti sessionem meam,
(あなたは知っておられる 私が座すことも)
et resurrectionem meam.
(ふたたび起きあがることも)
加齢によって瑞々しさを損なっているものの、まぎれもなくカインの恋人の声。
カインは知らなかった。いや、ナオだけが知っていた。御年九十を迎える老齢の修道女が、カインの女であることを。彼が復讐を遂げる日を、何度転生しても待ち続け、処女をつらぬく花売りであることに。
そして彼女もまた知っていた。かつて主人のもとに訪れた半吸血鬼が、日高直紀を名乗っていることも。義弟を救うための一環として、主人に復讐の機会をあたようとしていることも。皆守紘という名をあたえられた遺児がどういう存在なのかさえ。
「あの醜女が……!」
悪態をつきながらも、カインは喜色に顔をゆがませる。
主人の勝利を願い、祝う、連禱の旋律。愛しい恋人の声が、ただそれだけで黄金卿に神威をあたえた。
「アベル――いや、今はヒロとか名乗ってんのかァ、このクソ義弟が!」
蓄積した疲労を吹き飛ばし、醜悪の人形にむかって駆けだす。
策も、体力も、道理も、なにもない。なにひとつ必要ない。
惚れた女のまえで格好をつけたい。――雄の戦う理由がそれ以外にあってたまるものか。
「てめえの人生はてめえだけのモノだろうがよッ! むざむざ乗っ取られてんじゃねェぞクソッタレ!」
場はたちまち殺しあいの彩をかざる。
だがこの事態までを完全に想定していた半吸血鬼はまだ動かない。
否、これから動くのだ。彼がずっと待ち続けていた最重要人物――すべての始まりが、シャロン・アシュレイをともない還ってきたのだから。
「よう、待ちくたびれたぜ。――あいつの……人間としての母親」
死屍の大地を踏みしめ、戦いの最前線に現れたのは、小さな白銀の少女。
長い髪は根元までもが純白で、肌膚も白皙。血糸の綾が透けてみえそうなほどだった。先の轟撃によって血と粉塵で汚れているが、それ以上の輝きが凜たる双眸にやどっている。清楚な佇まいのなかに、研ぎ澄まされた意志だけが放つことのできる美しさを湛えていた。
「貴方、私が誰なのか知っているのね。自己紹介は不要かしら?」
「それが今日はどうしても自己紹介したい連中であふれててな。名乗りたいなら好きにしろよ。……都合よくカインも戻ってきたところだしな」
言葉通り、奔騰のまま攻勢にうってでたカインが、一度距離をとるべく退いたところだった。戦場には似つかわしくない幼女の姿に眉を顰める。
「ならお言葉にあまえて名乗りましょう。――私はパンドラ。かつてパンドラと呼ばれた者たち全員の魂が習合した存在」
集合した一同を、イシュタルの刺撃がせまる。
だがパンドラが手をかざす、ただそれだけで結界がうまれ、一撃をはじく。
「この〈楽園追放〉で、彼の地獄を終わらせてみせる」
なぜ代々パンドラが白痴と化すのか。なぜ代を重ねるごとに症状の進行は遅れ、結界が強固になるのか。シャロンはようやく理解した。パンドラになった者は、精神を界と界のはざまに置くのだ。すこしずつ先代パンドラたちの魂と同化していく。
彼女はシャロンの知るベアトリーチェそのひとではない。
けれどシャロンの知るベアトリーチェでもある。
「……策はあるの?」
涙ぐみそうになりながら、それでも未来を見据える。友の死が無駄とならないように。笑って、この戦いに幕をおろすために。
「あるわ。そのために、どうか貴女たち全員のちからを貸して」
次話で3章終幕