3章6話 - 灰被りの姫1
目を開くと、視界すべてが漆黒に覆われていた。
これが地獄なのだろうか。ヒロとパンドラはどうなったのだろう。勇気をだして冥邈の闇に手をのばそうとした、そのときだった。シャロンの背後を、誰かが駆けぬける気配がする。
「……? ……ベアトリーチェ?」
視界こそ完膚なきまでに閉ざされているが、シャロンよりも若く、幼いことは、気配の端々が伝えてくる。ならばヒロやナオでは有り得ない。そう考えてパンドラの真名をくちにする。
「ベアトリーチェなの? お願い、答えて!」
もしも彼女がまだ生きているなら、今度こそ守らねば。
もはや一体誰が敵で、誰が味方なのかさえ混沌しきりの状況下、彼女だけがシャロンの揺るぎない支えだった。
「お願い、返事をして! ベアトリーチェ! ……ねえ、ビーチェ!」
だが応えはない。喃語ひとつ耳朶を打たない。ただ子供の気配だけが増えていく。
狂ってしまったのだろうか。……普段なら一笑に付して終わるはずの可能性が、シャロンの精神を腐していく。一歩後退るはずが、膝からくずれおち――それを背後から支える者がいた。
「しっかりしろよ、馬鹿女。……まあ俺の〝本体〟も結構ヤバいことになってるんだから、あんまり他人のこと馬鹿馬鹿いえる義理ねえんだけどな」
「あ、あなた……!」
黒一色だけの世界に、ゆらりと闇が滲んだ。初めて濃淡とはいえ輪郭がうまれ、みるみるうちにシャロンを瀕死に追いやった者の姿態をなす。
日高直紀。アリアス・リークス。半吸血鬼。
万華鏡のように立ち位置を変える彼をどう呼べばいいのかわからず口ごもる。そんなシャロンに、彼はにやりと嗤ってみせた。
「ナオでいいぜ、シャロン。いまや俺たちは一蓮托生。だからそんな警戒すんなよ。ここから出たいんだろ?」
「……っ!? ここから出られるの!?」
「出られるさ。お前が地獄に打ち克つことができればの話だけどな」
縋りつく寸前、その言葉に思いとどまった。すかさず剣把をにぎり、半吸血鬼にむかって打ち振るう。決して遅くはない剣閃だが、忌々しいほど軽やかに躱された。
「おおっと、おっかねえなぁ」
「罠に嵌めるつもりだったのでしょうけれど、お生憎様! その手には乗らないわ!」
彼は現状をつくりだした張本人だ。わざわざ脱出方法を教えるわけがない。
だが当の本人はどこ吹く風で、シャロンの勘繰りを嘲殺する。
「もし罠だとして、だからなんだ? 自力でここから脱出できねえくせに」
「……それは……」
悔しいが彼の言う通りだ。ヒロやパンドラを守るために、いつまでもこんな場所で足踏みしていられない。それに冷静に考えてみれば、ああもたやすく致命傷をあたえた男なのだ。今さらシャロンを害するためにいちいち策を弄するだろうか。
わからないのは彼の目的と脱出方法。
やるべきことは初めから決まっている。人類を守る。世界を守る。ヒロとパンドラを魔の手から救いだす。――そのために騎士として戦う。
「……あなたを信用したわけじゃないわ」
潔く手をさしだした。
「でも私は未来がほしい。可能性がほしい。私が矜持の騎士であるために。そんな私で在り続けるために。だから教えて。私はなにをすべきなの?」
「……いい返事だ」
ナオも手をのばす。彼女の手を素通りして、胸元に触れた。
「動くなよ。――今からお前の記憶をよみがえらせる」
途端に、嫌な気配がひろがった。ただ手のひらが触れているだけなのに、強張った指先をむりやり解くような感覚がうまれ、やがて臓腑を素手でかきまわされるような痛みに変わっていく。
身体の内側が書き換えられる不快感。これが記憶をよみがえらせるということなのか。
……怖くないといえば嘘になる。罠ではないという完全な保証もない。
だが怖いというならば、シャロンはつねに恐怖と戦ってきた。神魔に殺される恐怖。心身を奪われる恐怖。ベアトリーチェが完全な白痴と化す恐怖。パンドラをうしない、世界を破滅の危機にさらす恐怖。
それに比べれば、過去を乗り越えることくらいなんでもない。
なんでもない、はずだ。
「……ぅ、あ、……ぐ、ううッ……!」
そう気を張っていられたのは本当に最初だけだった。
何度、心臓を潰される感覚に酔っただろう。幾度、底なし沼におぼれ、肺という肺すべてが泥に埋まる感覚に苛まれただろう。
怖い。痛い。苦しい。やはり罠だったの?
そう思って彼の手をひきはがそうにも、うまくいかない。ちからが入らないせいもあるだろうが、動くなという制止が馬鹿馬鹿しいほど、彼の手は引き離されるつもりなどなかった。
「や、やあ、あぁッ……やめ、痛、あアっ……!」
「地獄ってのは、対象者が忘れたい、認めたくない、なかったことにしてしまいたい記憶なわけだが。……お前の場合は少々厄介だ。なにせ本当に忘れ去ってしまったんだからな」
ナオがなにかを言っている。だがそれどころではない。
気持ち悪い。吐きだしたい。強姦、凌辱、あらゆる唾棄すべき屈辱をあつめ、煮詰めたかのような苦しみだ。
「吸血鬼の体液には〈記憶の操作・改変〉能力がある。かつて俺が機関に捕まった理由だよ。血を奪われてミイラみたくなっちまった。だから今頃、俺の〝本体〟は飢餓衝動と戦って……ってこら、暴れるなっつうの」
必死でもがくシャロンに業を煮やしたのか、ナオは闇の底に引きずり倒した。黄金の髪が、さながら銀河を映す雨露のごとく煌めく。
「話をもどす。つまり〈霊液〉の原材料っつうのは俺の血液なわけだ。ところでお前の祖を確認したって言っただろ? あのとき俺の魔力――霊液がお前のなかにあることを知った。ただ実用化にあたって〈隷属支配〉無効化の術式が施されている。だから血鎗で串刺しにして、再度、俺の血を送り込んだのさ」
「ぃ、いや、やめてっ、こわい……!」
「見えないから怖いんだ。曖昧だから不安なんだ。お前の地獄が真っ暗なのは、お前が記憶を封じ込めたからだ。逃げるなよ、〈矜持〉の騎士!」
「いや……いやああああッ!」
絶叫がほとばしる。泣き濡れた瞳が見開かれる。
闇は晴れた。
それは地獄の終焉にあらず。真の地獄が開演したことを意味する。
走っている。
もう何年も梳っていない伸びっぱなしの赤い蓬髪を揺らして、幼い少女がひた走っている。
靴はまったくサイズがあっておらず、薄っぺらな底はほとんど抜けていた。だから彼女が走るたび、泥水を蹴散らす間抜けな音が鳴り響く。
「はっ、はあっ、はっ、……あ! あった!」
背後に忍び寄る暗雲などまるで気にもとめず、少女は転がるように生け垣の隙間へ身を躍らせた。もう何年も人の手がはいった痕跡のない荒れ放題の生け垣は、少女が痩せこけているのをいいことに、たやすく侵入をゆるす。くぐりぬける際に、手や膝は泥で汚れたけれど、いまさら身なりを大きく貶めるほどでもなかった。それほどまでに少女は汚れきっていた。
「やったあ……まだ誰にも盗られてない!」
赤髪の少女は、幽鬼のようにふらつきながら廃屋へむかう。
割れた窓際で羽をやすめていた鴉たちが、闖入者に威嚇の唸り声をあげ、あるいは飛び去っていく。
まばらな雨が降りはじめていた。
強盗か、雨宿りか。そのまま家のなかに入るかと思われたが、予想外にも少女は笑顔をうかべて膝をつき、家屋の壁面に爪をたてた。
「待っててね、みんな。いま、お菓子、持って帰るからね……」
壁面に爪を食い込ませ、塗料をこそぎおとす。
ようやく〝シャロン〟にも奇行の意図を察することができた。
「――……鉛中毒」
鉛白。その塗料は、塩基性炭酸鉛を主成分として、乾燥性や接着性をもち、欧米では長らくペンキ塗料として利用されてきた。有毒だが甘みがあるため、廃墟にたむろする浮浪児が剥がれおちたペンキ塗料を食べ、健康被害をおこすという社会問題にまで発展する。
これは、そのほんの一例なのだ。親がなく、学や財もなく、その日食べるものすら窮する孤児が、偶然見つけた甘い菓子を摂取しつづけた末路。
暗闇の世界で感じた子供たちの気配は、その孤児たちのものなのだ。
「だめ……待って、持って帰っちゃ……食べちゃだめっ……!」
少女の肩をつかもうとするも、すりぬける。当たり前だ。ここはシャロンの地獄。過去に起きてしまった、もう変えようのない事実なのだ。
爪が剥がれ、血が流れ落ちるほど削り取ったペンキ塗料を、少女は腕いっぱいに抱えて走りだした。垂れこめる暗雲すらもはねとばす、太陽のような笑顔をうかべて、家族のもとに帰っていく。
彼女は知らない。それがお菓子ではないことを。
彼女よりも幼く虚弱な孤児たちを死に至らしめる毒だということを。
彼らがあまりに喜ぶから、少女は自分のぶんまで彼らにあたえた。結果、彼女以外の全員が死んでしまう――殺してしまうことを。
「……う、ぅ、あぁ、ああああッ」
吐いた。泣いた。絶叫した。
今見たもの、感じたものすべてを、捨てたい。忘れたい。消し去ってしまいたい。
あれがシャロンの過去なのか。これが、かつての自分が忘れたいものだったのか。
「いや、いや、いや、……こんなの、やだぁっ……」
耳を塞ぎ、目を瞑り、くちびるから否定の言葉をたれながす。嫌だ知らないと吐き捨てる数だけ、過去の記憶が抜け落ちてしまえばいいと願いながら。
だが塞いだてのひらをこじあけようとする者がいた。
ナオだろうか。地獄まで導き、打ち克てと叱咤した張本人。しかし顔をあげた先にいたのは――痩せこけ、泥まみれで、生ゴミの腐敗臭をまとう、シャロンという名前を持たなかったころの自分自身だった。
「……ひっ、」
「可哀想に。認めたくないのね。……でもこれがあなたなの。学がなければ家もない。お金どころかその日食べるものすらない。唯一の家族すら殺してしまった。殺したことすら忘れることを選んだ、救いようのない人殺し」
幼きシャロンが静かになじる。けれど言い返すことはできない。卑しい生まれで、おなじ境遇の孤児すら死に追いやった。記憶を捨てて罪から逃げた。そんな自分を棚にあげて、人類を守るだの、世界を救うだの、誇りをもって生きたいだのと宣った。
「今ならわかるでしょう。あなたはパンドラを守ることで自分は悪くないって心のどこかで言い聞かせてたこと」
いや、ただ棚上げしただけではないと、もうひとりの自分は言う。
シャロンもそれに首肯する。
〈秘なる霊液〉を飲んでから初めて目覚めた朝を、今でも憶えている。
事前にミルディンから聞いた通り、想い出は跡形もなく消え去っていた。けれどここが王城とよばれる機関で、騎士候補としてやってきたことは忘れていなかったから、霊液って便利なのね、とひとり呟いた。洗面台の鏡に映る自分をみて、……なんとなく、本当になんとなく、赤茶けたみすぼらしい髪を染めることにしたのだ。
赤髪は魔女の色で不吉だから、とか。新しく生まれ変わった自分に活を入れて心機一転するためだとか。あのときはそう考えていたけれど、実際は違った。生まれも育ちもどん底で、さらに人殺しの咎もつ自分自身から逃げたかっただけ。
やがてベアトリーチェにパンドラの役目がまわってきた。記憶はなくとも、きっとどこかであの孤児たちと重ねた。おなじくらいの歳で、おなじくらいか弱く、脆かったから。自分の命を危険にさらしてまで彼女を守ることで、きっと罪を償おうとしていた。
「やめて、……やめてっ……、もうやめてえぇええッ……!」
どうして対決を選んでしまったのだろう。
こんな悪夢をみるくらいなら、ずっと綺麗事のなかで生きていたかった。たとえ嘘でも、偽物でも、知らずにさえいれば〈矜持〉を貫き通すことができたのに。誇り高き騎士として生きていけたのに。
「いや、いやあっ……! こんなの、こんなの私じゃないっ……!」
「うん、そうだね。つらいね、苦しいね……」
赤茶けた髪を揺らして、〝あたし〟はシャロンを抱きよせる。
「あたしだってお腹がすいてた。あたしだって、みんなのことが大好きだった。みんなのためにずっと頑張ってきたのに、こんなのってないよね。……だから、」
髪に口付けるほど身を寄せて、もうひとりの自分が囁きを落とす。決して大きな声ではないのに、嗚咽しきりのシャロンには、なぜか一言一句がはっきりと聞き取れた。
「もういいの。もう頑張らなくていいんだよ」
「……え?」
「もうじゅうぶん頑張ったんだから、あとは幸せになるだけでいいの」
転瞬、ひかりがはじけた。
悪夢の澱はまたたくまに光の奔流となって宙を満たす。
いつのまにかシャロンは〝あたし〟に戻っていた。赤茶けた蓬髪、痩せこけた幼躯、泥と垢で彩られたみすぼらしい衣服。たとえ灰かぶりの姫でもここまで酷くはないだろう。冥界の渡し守カロンとて、ここまで貧に窶れてはいないだろう。そんな〝あたし〟に手をさしだす人がいた。
長身で、シャロンのような染髪ではない地毛そのものの金髪を豊かになびかせる、瞻らずにはいられない美丈夫。白皙の肌には染みひとつなく、鍛えぬかれた全身はダビデの彫刻像的にも、デルフォイの太陽に教育された野生の美にもみえた。
まるで映画のなかから抜け出たかのような英雄。
はたまた絵本のなかの王子様か。
お手をどうぞ、シンデレラ。そんな歯が浮くような台詞も、彼ならばさもありなんと思えてしまう。光輝麗しい彼だけでなく、かつて死なせてしまった孤児たちまでもがこちらを見ていた。犬歯、雀斑、奇貌奇肢。みんなの顔は、笑顔と喜色だけが満艦飾をなしている。
魅惑的な言葉にあらがえるはずもなく、躊躇いながらも手をとった。すると、もうこれ以上はないはずの光輝に満ちた世界が、さらなる贅を得る。
彼が瞳を転じるだけで、シャロンの服はドレスになった。彼が抱きあげるだけで素足には靴が、もつれてはねかえった髪には櫛がとおり、シルクのリボンで飾られた。天庭に、頬に、指先に、おしみない慈愛のくちづけを降らせるだけで、シャロンの唇にも紅が色づき、爪は整えられ、マニキュアが塗られた。
なんということだろう! 彼は王子様で、魔法使いでもあったのだ。
おなじように身なりを整えた子供たちが元気よく駆けだす。学校があった。教室の扉をあけると、たくさんの生徒が暖かく迎えてくれた。勉強がわからないシャロンに、同級生の女の子がつきっきりで教えてくれた。廊下を歩くだけで、男の子の淡い恋慕の視線とぶつかった。
養父と摂る食事は、驚くほど身体の隅々まで滲みわたった。放課後、はしたないみっともないと軽口をたたきあいながら友達と買い食いするジャンクフードは、馬鹿みたいにおいしかった。やがて脱靴箱には恋文がとどき、告白された。初めての彼氏だった。
めくるめく輝きに満ちた世界。
怒濤のごとくなだれこむ、喜びと幸福の世界。
花の十六歳(Secret sixteen)。シャロンはまさしく人生の絶頂にいた。
「――みっともねえな」
その声が、氷柱のように降りそそぐまでは。
1巻部分では読み飛ばしてもらって大丈夫ですが、
・シャロンは現代の生まれではない
・養父は空想の産物ではない(実在する)