3章5話 - 騎士アベル
熱風が、簫と音をたてて吹きあがる。
七月うまれの煽ち風は、そこが高度千メートル近いこともあり、周囲を放埒に駆けまわった。あるものは彼のみじかい前髪を羽搏かせ、またあるものは吹きおろすものと合流して波濤のごとく砕け散る。自由気ままそうでなによりだ。
……否、もしかすると彼らは逃げているのかもしれない。この炎暑にあって心胆寒からしめるほどの緊張感から。
「よう、ひさしぶり……ってのも変な話か。なあ、〝アベル〟」
今はもう亡きバベルタワーの最上階だった。十五年前とおなじ場所、おなじ景色。建設途中によりあちこちに建材が置かれ、鉄骨梁がむきだしになっている。作業員が仕事しやすいよう卓状地となったそこに、醜悪な生き物が佇立していた。
アベル・ファタール。歴代最高の騎士にして、偽名を名乗っていた自身といわば相棒関係にあった男。人に甲冑を着せて、かたっぱしから機械で殴り食い込ませればこうなるかもしれない、異形の徒。
……そう、異形だ。あきらかな魔だ。彼の後頭部には機械がうまっていた。頭蓋骨を陥没させ、幾束もの配線で飾りたてる一方、その機械には巨大な目玉が蠢いていた。彼の首や肩にも無数の管がはえ、背中にある機械と繋がり、無機質な電子音を鳴らしている。普段つけていた仮面が半壊したことで、前髪に翳りながらもわずかに覗く左目は、恐ろしいほど昏く澱んでいた。
「……」
無言のまま騎士アベルは右手を持ちあげる。
彼は死体をつかんでいた。死体と表現したのは、彼が首を握っていたからで。……その首はねじれ、脊椎が皮膚をつきやぶり、奇妙な方向に歪んでいたからだ。
「…………」
なんの感慨もなく、彼は無言のうちに手を離した。死体は落下し、いくつもの奇怪な音を奏で、やがて吹きすさぶ風の音以外なにも聞こえなくなる。カインがパンドラにしたことの比ではない。最初から最後まで人を人とおもわぬ扱いだった。
「なあ、アベル。十五年前も言ったけどさ。おなじこと、また言わせてもらうぜ」
アリアスという外見を纏った半吸血鬼は、泣きそうな、悔しそうな、苦しそうな、……そんな悲痛に満ちた顔で、それでもアベルから目を逸らさない。
「相手を傷付けて、苦しめて、あげく命を奪おうがなんとも感じない。そういうのはさ、お前がなにより嫌だって思ってたことじゃなかったのかよ」
騎士アベルは答えない。そんなことは十五年前に経験済みだ。
それでも言葉を連ねることが無駄だとは思わない。彼のためにも、おのが信念のためにも。
「お前がすっげえ罪悪感に苛まれてたことはわかってる。だから心をなくした今のほうが、もしかしたらお前にとって幸せなのかもなって考えたことも、正直、一度や二度じゃない」
アリアスの言葉が終わるのを待たずして、アベルは佩剣の柄をひきよせる。
すらりとした刀身は光暈に煌めき、黄昏に映えた。
「でもな、やっぱりやめたよ。いつかお前が、お前じゃなくなってたときに殺しまくってたことを知って、どうして助けたのとか、どうして殺してくれなかったのって言うかもしれねえけどさ。きっと傷付いて、悲しんで、泣きじゃくって、この先ずっと苦しみ続けることになるんだろうけどさ」
転瞬、アベルが動く。
続きを言わせないためではなく、ただ偶然、その機が彼にとって都合の良いものだったという理由だけで。裏切り者の言葉を待つことなく、相手の想いをかけらも掬いあげず。
首を刎ねる。――恣意なく、ただそれだけの機械的で、だからこそ無駄のない一閃が放たれる。
だがアリアスは真っ向から受けとめた。
「アベル! 俺はお前に憎まれても、お前を傷付けてでも! 絶対にとめてやるッ! とめてみせる!」
剣戟の刃うなりが哭き泣ちる。
「だってお前さ、今、――泣いてるんだぜ!」
この地獄は当時の再現でしかない。そして十五年前のこの日は、十五年後の今日を迎えるためだけに存在した。負ける要素などあるものか。
「またお前を〝殺す〟って〝裏切り〟が俺の地獄ってか? あまいんだよ! お前を傷付ける覚悟なんて、それこそ十五年前からできてるんだ!」
幾千幾万の剣閃と、その余波というにはあまりに甚大な爆風。足場のあやうい塔のうえ、アベルは恐るべき軽捷さで躱しきった。
「何度だって殺してやるから安心して死ね、偽物!」
即時シャロンを穿った漆黒の鎗が、ついに本性をあらわにする。
黎明に墜ち、宵闇に堕す〈裏切りの魔鎗〉。
アーサー王の伝説。騎士という過去。なにより掲げる信条とむすびついた一閃一劃が、寸分あやまたずアベルを穿刺した。
ふたりはもつれあうように塔から落下する。
このまま落暉の曛ずるを背景に墜ちていけば、忌々しい過去から脱することができるはず。そんな予想を、記憶の残響でしかない彼が嘲笑うことで否定する。この悪夢はまだ終わらないと。
「……そうだよね。あなたは何度でも私を殺せる。裏切れる」
「……ッ!?」
アベルが双手をひらき、裏切り者を抱きとめる。黄昏の微芒にそまった彼は、驚くほど美しい邪悪を孕んでいた。
「私を害したいと心の奥深くで思っているから。どれだけ人間や親友を演じたところで、あなたの本性は吸血鬼でしかない」
そうでしょう、〈暴食〉。
耳朶を噛むほどの至近距離からあまく囁くと同時、アベルの後頭部から腹背まで浸食していた魔と機械の融合体が、樹枝状の縛鎖となって重力に叛き、縦走する。漆黒の捕縄はたちまちアリアスの手首にからみ。
呼吸と呼吸の間隙。
瞬きほどの刹那に、世界そのものが変化する。
――第二ステージ突入ってわけか。
そう茶化していられたのは僅少。まともに重力のかかった手首が悲鳴をあげ、おもわず顔を顰める。黒煙をあげ崩れゆく舞台は、もはやどこにも見当たらない。
「……はっ。どこかと思えば地下牢かよ」
鼠賊すら盗るもののない闊々とした石牢だった。両手両足には杭が打ちこまれ、血が尽きることなく流れては足下の壺におさめられていく。それは未来で〈霊液〉の原材料になるものであり、……まさしくそのためにこそ、彼は王城に捕らえられたのだった。
「俺、緊縛プレイは趣味じゃねーんだけど?」
「よく似合っていますよ。まるでイエス・キリストのようで」
「いやいや、どう考えても俺の役まわりはユダじゃね?」
アリアスの皮が剥がれたように、アベルの姿もまた塔にいたときとは異なっていた。様々な機械を身体に食い込ませていたものの、後頭部を陥没させ、脊椎から生えていた触手はない。……痛々しさが緩和されているとはお世辞にも言えたものではないが。
「……ええ、そうでしたね。あなたにとってのキリストは私だった」
アベルは無造作に機械をひきはがした。
まるで手加減のない手つきに、管にまじって血や肉片までもが火花のごとく舞いおどる。
「捕獲されたあなたを見つけて、当時の私は涙した。人間が下位とはいえ神魔を捕獲するに至ったのは、私の協力あってのことだったから」
肩背から血を流しながら、アベルはひたひたと石の床を歩く。磔刑にかけられ動くこともままならぬ刑死者の眼前にたち、じいと見つめ。
「あなたは吸血鬼の生命そのものである血液の大半を奪われ、今にも息絶えようとしていた」
親指の腹をみずからの血液に浸し、僭称ユダのくちびるに塗りつける。灼は劇的だった。間髪を入れず、尋常ではない飢えが半吸血鬼に襲いかかる。
「ぐッ、うぅッ」
「私の肉はまことの食べ物。私の血はまことの飲み物。私は食べられることであなたのものとなり、あなたは食べることで私のものになる。――さあ、どうぞ召しあがれ」
生存本能が意志に叛いて鬼歯をむきだしにする。
目の前にいる獲物を喰らえ。瘧を癒やし、射精より遙かに勝る快楽をむさぼれと攻蝕する。
実際、かつてそうした。骨を砕き、肉を食み、血を饕り喰らった。実験のため彼を探していたミルディンが見咎め、犠牲となるのは己だけでいいとアベルが送還したことで、半魔は命の恩人を喰い殺さずにすんだのだ。
だがここは地獄。まったき悪意の檻。ミルディンの介入はない。そしてアベルを喰らうことは〝皆守紘〟としての彼を望む〝日高直紀〟の死を意味する。
「――あなただけが私を救える」
あくまで抗う半魔に、アベルが囁きを落とした。
びくり、とナオの指先が強張る。その衝撃でさらにてのひらから血が喪われ、もうこれ以上はないはずの飢餓が加速度を増して暴れまわる。
「あなただけが知っている。本当の意味で、私に安息など訪れないことを。死が存在するかぎり、世界は私にとって優しくないことを」
……そうだ。アベルの言うとおりだ。彼の義兄でも、矜持の騎士でもなく、性愛と戦争の女神すらさしおいて、半魔だけが彼の底なしの絶望を知っている。
飲食など当然不可能。走ることはおろか歩くことさえ恐ろしい。本当は呼吸すら罪悪を見いだしている。
もし誰もが憎まず、厭わず、争わずにいられたとしても、生物である以上、かならず寿命を迎える。それすら涙を流し、心を軋ませるなら、この世界に彼の居場所はひとつもない。
「新しい世界を創造するだけでいい。あなたなら〈特異領域〉を永続展開させることができるでしょう?」
……可能だろう。
下級神魔である吸血鬼の、さらに雑種。にもかかわらず騎士アベルを弑し、シャロンやカインすら一撃で沈めたのは、彼の血を得たから。
彼を喰らいながら、ふたりきりの世界で生きていくことの、なんと甘美なことか。
「私たちだけの世界を。誰も傷付かない、誰からも傷付けられない世界を。本当に私のことを想うなら、あなたが、私のために世界を創って」
牙が震える。身体が熱い。なにより心が叫んでいる。
けれど、もはや半吸血鬼には、それがどんな衝動なのかわからなかった。
喰べたいのか。喰べたくないのか。
欲しいのか。喪いたくないのか。
「さあ、願って。あなたが私の唯一で、私があなたの絶対になるから」
――〈暴食〉の耳に、噛砕の音が響きわたる。
まだ続く