3章4話 - バベルの塔
ヒロは聞いていた。バベル、あるいはアベルと呼ばれるのを。
ヒロは見ていた。シャロンたちが頽れるのを。
白痴の少女とともに。
……そう、茫然自失としながらも、確かに悲鳴を聞き、惨状を見ていたのだ。なぜなら彼はもともと手足や耳目をもたずにいたのだから。そもそも手足や耳目をそなえる存在ではなかったのだから。
膨大な魔力をもつがゆえ、神魔や人間から焦がれ、望まれ、群がられ、けれど膨大な魔力をもつからこそ、魔力にあてられた弱き者たちはことごとく死に絶える。
バベルの塔。
〈創世記〉で語られる、古代都市バビロンの聖塔〈天と地の礎たる建築物〉。聖塔とは、神々が顕現するための神殿。〝バベル〟はギリシャ語読みであり、バビロニアの地、アッカド語においては〝バブ・イル〟と呼ばれた。
その意味は〈神々の門〉。
彼は、……否、〝それ〟は神々の世と人々の世を繋ぐ〈転送装置〉なのである。
あらゆる神魔がそれを介して顕現した。あらゆる英雄が、神魔の世へ渡った。存在としての強度がまるで異なる者たちを、そんな彼らがそれぞれに存在しえる異界を、バベルはうけいれてきた。可能にするだけの、ありとあらゆる種類、性質、濃度の魔力があった。
「…………ああ、そうか」
それは、もはや自分がなにを行っているのか理解していない。なにを聞いて、なにを見ているのかもわかっていない。ただただ装置であるはずの存在が持ってしまった〝自我〟、それがひたすら軋みをあげて、痛みにあえぐ。
「知っていたじゃないか……。僕が存在するだけで、みんなが争うんだ。僕が存在するだけで、みんな苦しみながら死んで逝くんだ」
存在するだけで死がうずたかく積みあげられた。装置に人の姿かたちをあたえたパンドラは、そのために朽ちはてた。アベルの名をあたえ、弟として迎えてくれた義兄は、所有者の怒りを買った。どうすれば争いがなくなるのかわからず機関に身を投じるも、人と人にあらざる者たちの争いが加速するだけだった。騎士アベルとして〝改造〟されたあと、一体どれほど神魔を屠ってきたのか数えきれない。
「……だから、だから、僕は――……」
まなじりから涙がこぼれた。
眼窩に嵌まる、ぽっかりと晴れ渡った虚ろな双眸に、瀕死のシャロンが映る。
彼女たちは今にも死に絶えようとしていた。今までずっと無数の死を見てきたのだから。見続けるしかなかったのだから。死があまりに呆気なく訪れることを知っている。
「願ったんだ。誰も死なないでって……どうか犠牲は僕だけであるようにって……」
祈っていた。願っていた。希い、かくあれかしと望んできた。
蝕みのない世界を。損ないのない日々を。自分はどうなってもいい。けれど自分以外の誰もが楽しく、幸せでいられる在り方を。
そしてただ見殺しにするしかできなかった頃とは違い、人間として生きた記憶が、今の装置にはあった。
変えてしまえばいいのだ。世界を。世界の在り方を。その方法を知っている。
だから紡ぐ。言葉を。意志を。――願いを。
無尽蔵の魔力で実現させる。
「……この惨状を〈世界再構築〉する」
駆けつけるべき足は躄のように動かず、盲のように視界は不確かで、唖のごとく音をなさない。
助けをもとめる誰かがいるのに。倒すべき相手がそこにいるのに。
ここで立ち上がらずしてなにが騎士か。ここで貫かねばなんのために掲げた矜持か。
押し潰されそうになる眼瞼をこじあけた。熄みそうになる命の炎を、あらんかぎりの熱情で奮いたたせた。爪が割れるほど指を凝らせ、砕け散るほど歯を食いしばり、血反吐にまみれた顔をあげる。ようやく手に入れた視界に映るのは――。
「……ぁ、ああっ……?」
そこには〝人間〟の姿などひとつも見当たらなかった。
かわりにあるのは醜悪でおぞましい門。シャロンの知る〝皆守紘〟ではなく、かつて〝神々の門〟と呼ばれたものの末路。
「このときを一体どれほど待ち侘びたことか……! 我が所有物〈バベルの塔〉! わたくしが全世界の覇者となるための、まさしく礎……!」
霹靂のごとき哄笑に、否が応でも思い知る。ミルディンがなぜパンドラよりも彼の保護を優先したのか。なぜ神魔がわざわざ人間の態をなしてまで人の世におり、潜伏し続けてきたのか。
バベルとは古代中東における〈界〉と〈界〉を繋ぐ端境。
〈楽園追放〉以前ならば、あくまで世界各地に点在する〈異界の門〉のひとつでしかなかっただろう。しかし〈楽園追放〉以降、その事情は一変した。
絶対経路。
現状〈バベルの塔〉は、パンドラの死を待たずして自由に異界を行き来するための扉たりえるのだ。それも恐らく唯一無二の。
古代ですら所有者バビロンは、絶大な権威をもってオリエント世界に君臨した。ましてや〈神々の門〉に皆守紘の希望属性――広範囲におよぶ〈精神汚染〉の効果が付与されれば、あまねく界のあらゆる存在が彼女の支配下に堕つ。
「さあ、愛しい子。もうなにも心配いりませんわ。ただ母の言うことを聞いていればいいのですから」
「あ、ああっ……あああ……っ!」
シャロンの人語にならぬ制止も虚しく、門がひらく。
かつて匣がひらかれ、災厄があふれだしたように。
彼にとっての楽園があふれ、流れだす。
――Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate
(汝等こゝに入るもの 一切の望みを棄てよ)
まだ続く