3章3話 - カイン vs 大淫婦
「ようやく会えたなァ、大淫婦。コウモリ野郎をふくめて一対二。首尾よくアベルを連れて逃げられると思うなよ?」
カインの発するかつてないほどの殺意が、ローズを名乗る神魔ただひとりへと収斂する。しかし彼女は艶髪を指であそばせ、決してその余裕を揺らがせはしない。むしろ双眸は、今までの彼女にはない好戦的な色合いを孕みさえした。
「一対二? いいえ、むしろ一対数千ですわ!」
豪笑とともに死んだはずのミルディンが起きあがる。
いや、確実に死んでいるのだ。双眸は深々とした虚無をたたえ、身体はだらりと弛緩している。こぼれた血は汚穢となり、人生という名の燭光が熄んだことを告げていた。しかし半開きのくちからはひゅうひゅうと喘鳴が流れでる。
「Cosa c'era ne'l fior che m'hai dato?
(なにが隠れていたんだい、キミのくれたこの花に?)」
まぎれもなく〈世界再構築〉の詠唱だった。
「Forse un filtro, un arcano poter!
(媚薬、それとも秘密のちから?)
Ne'l toccarlo 'l mio core ha tremato,
(この花に触れるとボクの心は震え、)
m'ha l'olezzo turbato 'l pensier!
(その香りはボクを惑わせる)」
彼女たちの足下から、まるで地獄の釜がひらいたかのごとく、死屍がわいてくる。彼らは示し合わせたように追随した。
「Ne le vaghe movenze che ci hai?
(あなたの振る舞いになにが宿っていたのだろう?)」
「Un incanto vien forse con te?
(素晴らしい魔法がかけられていたのか?)」
「Freme l'aria per dove tu vai,
(あなたの歩みに空気は震え)」
「spunta un fiore ove passa 'l tuo pie!
(あなたの足下から花が咲きでる)」
蛇腹剣を右手に、聖餐杯を左手に、下肢には叢々たる荊棘がはえならぶ。それを養うのは老若とわぬ数千の痩羸。彼らの詠唱が、殷々、あたりを駆けめぐった。
ローズは聖餐杯に揺蕩う白濁を、薔薇のように昏い舌であまく舐りながら陶然と嗤う。艶やかな花唇と舌尖はその白によく映え、あたかも宗教画のようだ。ただ絵画では存在しえないもの、……男ならば誰しも嗅ぎなれた独特の臭気が、すべてを台無しにしていたが。
男の精気を奪い、大輪のごとく咲き誇る。
それがこの薔薇――神魔バビロン。
「ふふ、懐かしい景色でしょう? あなたの薔薇園によく似ていると思わなくて?」
「……あァ、そうだな。てめえがぶち壊して以来の光景だ」
黄金の城。広大な薔薇園。ふたりの従僕がいて、後胤グレンデルがいて、小動物みたいに気の弱い醜女がいた。義弟の知り合いだという雑種がふらりと気まぐれに訪れて、あとはその義弟さえ呼びもどせたなら完成する、箱庭という名の楽園が。カインの過去、確かに存在していたのだ。
「そういえば聖書にあるカインとアベルの物語。あなたが植物を育てることができず地上の放浪者となるのは、わたくしがあの薔薇園を燃やしてしまったから、かしら?」
「……ッ! バビロン、てめえッ……!」
逆鱗に触れるどころか踏みなじる厚顔無恥の発言に、カインは満面、朱を濺ぐ。
黄金の館と薔薇園を破壊され、従僕ふたりを喪った度しがたい蹉跌。もはや義弟アベルの保護よりも、復讐心こそが遙かに勝る。
「ふふふ。今のわたくしならローズとお呼びくださいませ」
「O, my love's like a red, red rose
(我が恋人よ、あなたは赤い薔薇だ)」
「That's newly sprung in June
(六月に咲いた赤い薔薇だ)」
〝薔薇〟を補強するように、死者たちの讃歌が声量の華を咲かせた。
だが、いつまでも児戯にかかずらうカインではない。〈復讐〉冠する狩人は腕をふりあげ、おびただしい兵戈を創造する。
「動かない獲物なんざ格好の的なんだよ! 女は女らしく、男に貫かれて喘いでいなッ!」
宣誓が、剣鎗斧銃を飛燕のように衝き動かした。金属の煌めき、傲慢の黄金が、淫靡に傾いていたこの世界を疾駆する。
攻勢は一方的。
カインが武威を創造し、放ち、敵を断つ。穿つ。馘す。斬りきざむ。
淫婦の荊棘――恋人たちが歓喜で迎え、うけとめる。苛まれ、身悶え、消滅する。
だがそれだけだ。大淫婦の薔薇はつきはてることを知らず、よって世界はいまだ〈傲慢〉〈色欲〉どちらの色にも染まりきらない。よくいえば拮抗、悪くいうなら煮えきらぬ状況が続いていた。
ただ両者ともに余力はある。特に大淫婦はこの状況を愉しんでいるとしか思えない。
「ふふ、どうしたのかしら? あなたの復讐心はこんなものでしかないの?」
滾々とわきあがる白濁の酔が、いとうるわしき貴婦人たる彼女の顔貌に紅霞を刷かせ、それがさらなる彩となって艶がきわまる。カインの攻撃をうけるたびに花唇から嬌声がこぼれおち、まるで情事のように豊満な肢体がふるえあがった。
「虐めてくださるのではなくて? 貫いてくださるのではなくて? わたくしはこんなにもあなたを欲しがっているというのに」
繊指が下肢にのびた。
秘密の小箱を開けるような、好奇と興奮に満ちた手つきで。
「そう、本当に……今すぐにでも、ここにあなたを迎えいれてさしあげたい……」
あまく嘯きながら、秘所を隠す茨がゆっくりと取り除かれていく。
くだらないとばかりに金銀晴眼を鋭めた、そのときだ。彼女の下肢から、ふたりの死者がカインめがけて飛びだした。
当然、その死者を屠るべく指をしならせ――瞬時、凍りつく。
「てめえら……ッ!?」
見間違えるはずがない。かつての面影がろくに残っていなかろうと。双眸が主人と崇め、慕うものではなかったとしても。彼らの胸元には、かつてカインと交わした薔薇紋〈主従の契約〉が刻まれているのだから。
過去バビロンの襲撃をうけた際、身を挺してカインを逃し、二度と帰らなかった従僕がそこにいた。
「ニーニャ……サトクリフ……!」
意識が彼らにむいた刹那。
「――ぐ、あッ!?」
カインの両足が凍りつき――否、石化する。
たった一撃で大腿までを不具にしただけではない。今なお石化の効を逓増し、蝕んでいく。
「てめえ、なにしやがった……!」
おのれの足に。そして従僕どもに。
嗷々、燬炎のごとき叫びをあげるも、彼女にとっては嚔同然。
「わたくし、焦らすのは好きでも焦らされるのは嫌いなのですわ。カイン、あなたが来てくださらないから……。ふふっ。こちらから迎えに行こうと思いまして」
「バジリスクだとォ!?」
叢々たる薔薇の奥処にいたのは〈淫蕩〉の象徴、蛇の王。茨に庇護された場所から眼瞼のない瞳でカインを見つめている。
神魔たるカインの従僕を〝薔薇〟の一部にできるならば、他の神魔を隠し持たないわけがないということか。
「カイン。あなた、先ほどなんと仰っていたかしら。……動かない獲物はただの的、でしたっけ?」
「くっ……!」
事態はただ攻守がいれかわっただけではない。カインはバビロンに比すれば遙かに下級。そのうえ殺す側であって、守る戦い方に不向きなのだ。たとえ対象が自身だろうと、守り方など……庇い方などわからない。もしも知っていたのなら、かつて麾下を喪いはしなかったのだから。
「わたくしとて鬼ではありません。せめてもの情け。彼らに畢わらせてさしあげましょう」
「畜生……ッ」
バビロンの花茨にあやつられた従僕ふたりが、足の癈したカインに手を伸ばし――……。
ぱた、ぱたり、と血の花瓣が落ちた。
荊棘を抱きしめたのはカインにあらず。彼より顕れし胤裔グレンデルが、その巨躯すべてを使い、彼の盾となっていた。
「なッ、クソバカ野郎! あれほどでるなと言ってあっただろうがァ!」
「……カ、イン」
決して聞き取りやすいとはいえない声が、啾々、牙と牙のあいだからこぼれおちる。だが続く言葉は、淫虐の茨がひきぬかれたことで血飛沫と悲鳴にとってかわった。
それでもグレンデルは踏みとどまる。ここで斃れてしまえば、誰がこのひとを守るというのか。それは決して比喩ではない。彼の巨体が、身動きのとれぬ主人をまさしく押し潰すだろう。ならば取るべき手段はただひとつ。
「どうか、お逃げ……ください……!」
グレンデルは主人を掴み、渾身のちからで投じた。
ほぼ同瞬、グレンデルの鼻口を、眼窩を、そして耳孔を、……而して全身という全身をおびただしい茨が突き破る。葉風がたち、なみうつ花茨の樹梢が、はるか遠天にまで千枝をひろげた。かの巨漢はローズに侍る死屍の群れにのみこまれていく。
「……クソが! やはり精神汚染の異能か……!」
従僕ふたりが敵の手駒となっていた時点で察してはいたが、ここにきて仮説は確信となった。
かすめるだけで精神を汚染する鎧袖一触の鞭。バビロン本人を滅さぬかぎり無限に再生される肉の盾。両者がそろうのならば、カインの勝利はその可能性を残せども、蓋然性としては存在しえない。
戦意喪失するには充分。
だが窮地にあってなお明眸は、煌々輝々と燃え熾る。
誰が見捨てるものか。ニーニャも、サトクリフも、グレンデルも、カインこそが真の所有者。絶対に奪いかえす。そのために末孫が命を擲ってまで稼いだ時間を、決して無駄にはしない。
「Quando coltiverai il suolo, esso non ti dara piu i suoi prodotti, e tu sarai vagabondo e fuggiasco sulla terra
(汝が土地を耕そうと、もはや土地は実を結ばず。汝は地上の放浪者となるだろう)」
石化はいまだ胸郭以下。カインの舌疾き〈創世記〉が、ローズの荊棘を枯死させ、足を縛鎖していた石化が〝放浪者〟という言葉に砕け散るのは、大淫婦の次撃よりも疾かった。
いや、それだけではない。恩恵はカインの縁者――末孫と従僕にまでおよぶ。彼がなんなく着地するのと時おなじくして、グレンデルたちも淫魔の縛鎖から解放された。とはいえ、彼らはすでに屠られた身。戦力として加算はできない。
けれど、とローズは歯噛みする。カインの性格と特異領域の性質上、奪還した事実がそれ以上の価値をもつことは明らか。
「いつまでもやられっぱなしでいられるかよ。オレ様はてめえをぶち殺すために強くなったんだ」
「……なら、わたくしはそれにお応えしなければなりませんね」
跼まり――一双の玉手をしならせ、斬を放つ。
それは満天を埋め尽くすがごとく。
たとえ石化の縛鎖がなくとも、かならず捕らえ、撃殺するという害意。
それは界を満たす幾万斛にとってかわるがごとく。
存否に一顧を要するような息の根すら、跡形もなく奪い去るという殺意。
たちまち荊棘がさながら千弩となって金色絢爛たる青年を猛撃した。避けきれるはずがない。迎え撃てるはずがない。――なにより致命打とならぬはずがない。
しかし耐えたところで瀕死に違うはずもないカインの舌溜まりから漏れ落ちたのは、悲鳴、あるいは血反吐でも、ましてや命乞いですらなかった。
「名を、カイン
月にあっては茨を背負い
地獄の底にあっては凍つる荒野にその名を残す、
血まみれの殺戮者にして、永劫の業苦をうけし流刑者」
底なしの怒りに焼燬灼々としたカインの反撃が、ここで朽ちて畢わるはずもなかったのだ。
「高貴なる神は仰せた
カインが弑されることのなきようにと
聖痕をあたえ、かく宣った
――カインを弑すものには七倍の呪いあれ!」
カインがシャツを切り裂くと、心臓のうえ、茨の紋様があらわとなった。潺々と血の流れだすさまは、さながら主唱者のこぼす嗚咽なき血涙のよう。
「見曝せ、〈受けたる痛苦には七倍の復讐を(アヴェンジド・セヴンフォールド)〉!」
雪盲になりそうなほどの霞光をそなえ、心の臓をまっこうから捕らえた攻性はなはだしき決殺の刃は、しかし〈恩恵享受〉の詠唱が終わった瞬間、ローズの身体からはえぬくこととなる。
「……な、ッ」
敵を断つ。穿つ。馘す。斬りきざむ。そんな彼の一撃が、初めてローズ本人を苛んだ瞬間だった。
「つくりものの伝承で……恩恵を享受するとは……!」
カインとアベルの物語――カインが弟アベルを殺害した罪で追放された物語は、完全なる創作物にすぎない。それは当事者たるふたりが誰よりもよく知っている。それでも人の世ながら全世界最大の発行部数を誇る聖書は、すくなからぬ時のなかで人口に膾炙し、言霊のように、呪詛のように、一定の強制力を得た。
「……いいえ、ここは褒めるべきでしたわね。どんなかたちであれ神話や伝承から〈恩恵享受〉を得るなんて、流石は〝元人間〟。らしい発想ですわ」
薔薇のごとき真紅を吐き散らかしながら、それでもローズは呵々と嗤う。カインの耳朶に、おのれの揺るぎない優勢をたたきこむ。
「けれど所詮はまがいもので作り物。だから〈創世記〉を放ったところで、せいぜい薔薇を枯らしただけ。七倍の復讐をもってしてもわたくしを殺しきれない!」
もはや〈創世記〉に有効打となる〈恩恵〉は残されていない。先ほどの〈受けたる痛苦には七倍の復讐を(アヴェンジド・セヴンフォールド)〉こそが、復讐鬼にとっての切り札だったのだ。
「そして――わたくしの死せる勇者は何度でも黄泉還る!」
ローズの言葉に、性奴隷たちが狂喜乱舞した。
「And fare thee weel, my only love,
(さようなら、我が唯一の恋人よ)」
「And fare thee weel awhile!
(ほんのわずかの間だ、さようなら)」
「And I will come again, my love,
(私は必ずもどってくる、おゝ、我が恋人よ)」
「Tho' it were ten thousand mile.
(千里の彼方からでも戻ってくる!)」
宣言通り、一度は屠られたはずの死者が舞いもどる。茨で繋がっているからこそ、薔薇を名乗るバビロン自身を滅さねば、彼らを完全に殺すことなどできないのだ。
圧倒的に不利な状況下、カインはそっと舌打ちする。
古魔にとって名前とは存在の定義に等しい。バベルに固執しているはずの大淫婦バビロンがなぜローズと名乗りをあげたのか不可解だったが、……この死霊歌劇を得るためならば納得できる。
「まがいもので作り物なのはてめえも同じだろうがよ! ローズを名乗りながら〝バベル〟を〝バビロンの子〟呼ばわりするから、この程度で枯れ落ちる!」
古代メソポタミアのセム系言語「牡牛」は、ギリシャ語の「アルファ」に、また牡牛の頭部のかたちが回転し「A」となった。同様に「家」は「ベータ」と呼ばれ、家の形状を反映して「B」の原型となる。
アルファベットとはAとBを繋げて読んだ「アレフベートゥ」なのだ。
セム系言語だけではない。シュメール語の「母」が「家」のなかに「神」と書きあらわす象徴文字であるように。アッカド語の「所有物」「創造物」がアルファベットのBで頭字されるように、バベル、すなわちBABELという言葉はバビロンの所有物という思惑をもつ。
だからこそカインは〝彼〟を〝アベル〟と呼んだ。バビロンの眷属としての名前BABELからBを奪い、ABEL、すなわちアベルという新しい存在として祝福した。
名前という存在を規定するための根源。
そこに異を唱えるカインを、しかし大淫婦は嘲殺する。
「いいえ、それでもわたくしこそがバベルの母! その証拠に、我が薔薇による精神汚染の効は、あの子の戦意喪失と酷似しているではありませんか!」
植物の創世と繁茂。精神への直接干渉。
たとえバベルがヒロ、バビロンがローズと名を変えようと、ふたりの戦闘形式は驚くほど似通っている。だからこそバベルがもつ膨大な魔力の恩恵はおのれにこそ天降るのだと喝破した。
「その証拠を、今、お見せいたしましょう!」
茨が勢威を増していく。離々たる茂みをなしていく。薔薇の花が、あたかも乙女の頬に、くちびるに、指先ひとつとってみてすら恋を萌し、愛に酔うかのごとく、染めあげられていく。
千紫万紅の魔魅。
彼女によって傷付けられた――精神を汚染されたであろう対象は、なにもカインの従僕や子孫だけではない。
「さあ、裏切り者は裏切り者らしく、さらなる咎を重ねるがいい!」
「――ぐ、がッ……!」
ローズの豪笑が響き渡った瞬間、カインの全身が漆黒の鎗群で黝む。
奇しくもそれは彼の異能〈|受けたる痛苦には七倍の復讐を〈受けたる痛苦には七倍の復讐を(アヴェンジド・セヴンフォールド)〉に酷似。ほぼ同時刻、シャロン・アシュレイを穿った一撃でもあった。
兇行を犯したのは、ローズに首を掻ききられた〈十三番目の裏切り者〉。
もはや騎士と狩人は、気息奄々、鮮血淋漓。
生ある者を死に導く、まさに死の大歌劇。
「ふふっ、あははっ! わたくしからバベルを奪いとろうとする邪魔者どもめ! 我が薔薇の糧となるがいい!」
瀕死の彼らをとびきりの佳酒嘉肴にして、大淫婦は勝利を宣言する。
まだ続く