3章2話 - 裏切りの騎士2
意味をただしく理解するより早く、シャロンの両足は距離をとっていた。爆発しそうなほどはねあがる心拍数を抑えながら、ようやく言葉を咀嚼し、反芻する。
「あなたが王城を……騎士アベル様を裏切った、十三番目の騎士……!?」
かの人魔が〈十三番目の裏切り者〉ならば、なぜここにいる。なぜ今になって正体を現した。相討ちになったはずの裏切り者が生きているなら、十五年前、騎士アベルはどうなった。
「……アベル?」
――アベル・ファタール。〈バベルの塔崩落事件〉後、生死不明となった歴代最高の騎士。
彼の人の名は、くちびるから滴り、漣となり、ひとつの懸念をよびさます。
ミルディンは日高直紀を害したあと、ヒロにむかってなんと言っていた。ミルディンを殺害したとき、ローズたちはどんな言葉を発した。なにより日高直紀がアリアスならば。ヒロの境遇は。……彼の正体は。
「…………ヒロが、アベル?」
声にだすつもりはなかったにもかかわらず、気付けば朱唇から辷り落ちていた。戦場において戦闘相手から気を逸らすことは死を意味するのに、疑問が心にこびりついて離れない。
「そんな、まさか……だって彼は次のパンドラで……」
「あ? もしかしてお前、あいつがパンドラ候補だって勘違いしてるのか」
「だって当時、彼は赤ん坊だったのよ! 〈零番目の騎士〉であったはずが……」
そこまで言いかけて、気付きたくなかった可能性にたどりつく。
皆守紘をアベルとみなすことは難しくとも、日高直紀がアリアスだとあっさり納得できた理由。それは――……
「まさかアベル様は……ヒロは、人間じゃない……?」
かつてシャロンはこう考えた。戦意の喪失という希望特性は、パンドラの楽園追放と同一なのではないかと。パンドラは殺すためのちからがないから異界に封じた。彼は殺したくないから殺意や敵意を失わせた。
裏切りの騎士もそうだったのではないか。
彼に、歴代最高の騎士アベルを殺害するちからはなかった。もしくはなんらかの理由で殺したくなかった。だからアベルから記憶を奪い、赤ん坊の身体に封じ込め、記憶がもどらぬよう傍で監視を続けたのではないだろうか。
裏切り者がどちらの意図を持っていたにせよ、十五年前、〝入れ替わり〟があったのならば。
精神が肉体を移動したのなら。
「――彼も神魔……!?」
「さあ、どうだかな……と言いたいところだが、人類の守護者という大義名分に酔いしれて、肝心なことはなにも知らないし知らされていない、哀れな騎士様のために教えてやるよ。そもそも特異領域に存在できる者は、みんな神魔に繋がりがある」
ナオは嗤う。夜闇のように底知れぬ色で。あきらかな嗜虐をともない、シャロンを蔑む。
「お前らはそういう適性の人間がいるって解釈してるみたいだが、実際、祖を遡ればどこかで必ず魔を孕む。傲慢。矜持。ご丁寧に名前をかえて区別しているが、そっちが勝手に言い換えているだけでまったくの同一さ」
「……う、そ」
「嘘じゃないぜ。グレンデルはお前に神魔を憑依させることが狙いじゃなかった。あれはお前の〝正体〟あるいは〝神祖〟を確認するためだ」
「でたらめを言わないで! どうしてそんな面倒をしてまで、私の祖を確認する必要があったっていうのよ!」
「お前からバビロンの気配がした。だから大淫婦に蹉跌をもつカインは、お前がやつの眷属かどうか確認したかった。関係者なら餌にできるかもしれないからな。俺は俺で、お前の祖を確認しておきたかった。……流石にあいつの子殺しはちょいと目覚めが悪いだろ?」
「……さっきから一体なにを……」
聞きたくない。聞いてはいけない。けれど耳を塞ぐことはできなかった。そして彼は漸を追う。
「ミルディンは神魔アベルを捕まえ、様々な実験をおこなってきた。不老不死。人間の魔人化。そして人工的な人魔……〝騎士〟の製造」
びくりと指先が跳ねた。
それに気付かないわけでもないだろうに、彼はシャロンの耳孔を、そして心のやわらかい場所をえぐりとっていく。
「アベルの肉を切り落とし、契約の術式をかけ、低級神魔を憑依させる。憑いた神魔はアベルの肉と魔力を糧にして育つが、術式と洗脳教育によって機関の奴隷と化す。……俺が王城にいたころも騎士のなかには数人いたぜ。そういう実験体が」
おぞましい言葉だった。
騎士の適性を見込まれた者は、霊液の消毒によって、今まで生きてきた世界から存在を忘れ去られる。本人の希望により、自主的に霊液を飲んで過去を手放すこともある。だから騎士同士、むやみやたらに過去を尋ねないことが、暗黙にして公然の了解だった。
けれど今になって本当の意図がわかる。もし彼の言葉を信じるならば、みずから望んで霊液を嚥下したというシャロン自身の記憶ですら、実験体に施された記憶操作の産物かもしれないのだ。
「……もしそれが本当だとして、あなたの目的は一体なんなの?」
彼が語れば語るほど、滾々と疑問がわきあがる。
十五年前になにが起きたのかはおおよそ把握した。神魔の憑依や洗脳があったわけではない。アリアスこそが神魔であり、〈バベルの塔崩落事件〉をひきおこした張本人だ。
では、なぜ神魔たる彼が出自を偽り、敵対関係にあるはずの王城に所属したのか。十五年前にアベルをヒロに変え、みずからも日高直紀という人間になりかわり、ずっと彼の傍に在り続けたのか。
「日高直紀を名乗る半吸血鬼! 十五年の時を経て、あなたは一体なにをしようとしているの!?」
「……ユダがイエスを裏切らなければ、イエスは磔刑に処されなかった。その死で、人類を原罪から救うこともなかった。他ならぬユダこそがイエスの本当の願いを叶えるべく、裏切ってみせたのさ」
人のいい笑顔の裏側で、じわりと闇が滲む。それは決して比喩ではない。彼の頸動脈から流れ落ちた血液が、まるで寡兵を補うかのごとく滲みだした闇と合流する。
冥々と。あるいは黒暗々と。
孤高の無彩。
それが裏切りの咎もつ、彼の特異領域。
「さて、イエスは磔刑に処されたあと地獄に降りた話も知ってるか? 知らなきゃ知らないで構わないさ。シャロン、俺の本当の目的は――地獄で教えてやるよ」
「――か、はッ」
冥路昏々の世界で、音なく、気配すら待たず、血と闇からうまれた漆黒の鎗群がくまなくシャロンの全身をつらぬいた。危機目睫に長ける彼女をもってすら為す術もない。綾羅錦繍を血染めにたまらず膝をつき、一拍、鼻梁からしたたかに倒れ伏した。
無詠唱にもかかわらず、カインのどんな一撃よりも遙かに重い。生に届き、死へと至らしめる、一撃必殺。魔としては下級であるはずの半吸血鬼がなせる技ではない。
「冥土の土産にしてやれなくてわりぃな」
誰かの悲鳴が聞こえる。誰かの嘲笑も聞こえる。
けれど起きあがれない。助けに駆けつけることも、剣把を握ることもできなかった。
まだ続く