3章1話 - 裏切りの騎士1
3章 Ghost Opera 突入
夜を越えて、朝を迎える。
昨日など存在しなかったように、いつも通りの朝だった。
「はよ、ヒロ。俺は食堂行ってくるけど、お前はどうする?」
カーテンを開け、朝陽を浴びながら親友が問う。中学や養護施設ならばヒロが欠食児童なのは周知の事実だったが、この学園はどうなのだろう。食事をぬいて後からなにか言われないだろうか。それともシャロンたちについていく手前、無視してしまっても問題ないだろうか。
「えっと、僕は……」
返事をしようとしたそのとき、ひかえめな叩音が響く。
誰かと思い扉をあけると、ローズだった。背後には、廊下の壁を背もたれにシャロンが腕を組んでいる。外套や肩当てはなく、こうしてみれば本当に学園の生徒のようだ。
「おはようございます。新入生の日高直紀くんと皆守紘くんですね。日高くんは玖雅先生がお呼びですので、至急、職員室までお越しください。わたくしが案内いたします。皆守くんは入寮案内がお済みでないため、監督生のシャロンさんからオリエンテーリングを受けていただきます」
シャロンの存在に気付いたナオは、あからさまに嫌そうな表情をうかべた。だがローズという大人がいる手前、すぐになんでもない調子をとりもどす。
「あー、はいはい。わりぃなヒロ、ちょっと行ってくるわ」
「うん、行ってらっしゃい」
笑顔でふたりを見送る。うまく笑えただろうか。きっとこれが最後だ。
「……どう? ちゃんとお別れできた?」
ぽっかりと空いた居場所を埋めるように、金の少女が寄り添った。
恐らくシャロンがヒロについたのは自分が逃げださないよう監視するためで、ローズがナオについたのは彼という横槍が入らないようにするためだろう。だからヒロは彼女の手をとり、歩きだす。
「行こう、シャロン」
それが自分なりの返事だった。
葛藤や不安はあるけれど、騎士になることを決めたのは彼女のせいではないと伝えるために。泣いたのか、眠れなかったのか、まなじりを赤く腫らした彼女の肩を、ほんのすこしでも軽くするために。
「……どこに行くか、知らないくせに」
「そういえばそうだね」
「どうして一晩経っただけで、そんな清々しい顔になってるのよ。ほんと、あなたってわけがわからないわ」
「そうかな」
「そうよ。……最初から変なやつだったわ。騎士になりたくないって泣いて断って、……その理由が、神魔を傷付けたくないなんて馬鹿な理由で」
「そんなに変かな」
目の前にいる誰かが傷付いたら悲しい。目の前にいる誰かにも、どこか遠い場所にいる誰かにも、幸せに笑っていてほしい。
それはごく普通の気持ちではないだろうか。彼女だって目の前の誰かや、見知らぬどこかの誰かにも幸せでいてほしいから、王城の騎士になったはずだ。彼我の差は「人間」と但し書きするかどうかでしかない。
けれどその返答は不服だったらしい。咎めるように手を握りかえされる。
「変よ。絶対変だわ。……もし私がここで、やっぱりあなたは騎士にむいてない、どうせすぐ殉職する運命なんだから……見逃してあげるからさっさと逃げなさいって言っても、絶対に断るんだわ」
「そうだね。僕のやるべきことが見えたから。やりたいことができたから」
「格好つけても、雑草を踏んだら泣いちゃうくせに」
「……そういう君も、なんだか泣きそうな顔になってる」
空いたほうの手で、眦をそっとなでる。これで彼女の強がりに隠された優しさを、わずかでも慰撫することができればいいのだけれど。
「うるさいわね、ただの勘違いでしょう。……行き先だけど、井の頭公園、第二駐車場よ。ローズたちがそこで待ってる」
手を繋ぎながら寮をでるふたりを、何人かの寮生が不躾に見つめる。けれどヒロは振り返らなかった。友達ひとり作るどころか授業ひとつ受けないうちに終わった学園生活に、なんの未練もないといえば嘘になるけれど。
出会いと別れは表裏一体、というシスターの言葉を噛みしめる。
親友におかえりなさいも、ありがとうと言うことすらできない寂しさを抱きしめて。
ただの人間としての。
――皆守紘の生を捨てていく。
若草が、あるいは樹群に萌えづく早緑が、アスファルトに斑々と色を落としていた。
春爛漫の、井の頭公園。
映る景色がそれだけならば、どれほどよかっただろう。たとえ颯となびく草花が、どれだけ心を脅かすものであったとしても。命の数だけ地獄になりえたとしても。
この光景ほどヒロを苦しめるものはない。
相手だけがそうと気付かない別れを、今しがたしてきたはずなのに。
「……どうして日高直紀がここにいるの?」
おなじく呆然と立ちすくむシャロンが、ヒロの心を代弁する。
公園でふたりを待ちうけていたのは、ローズ、パンドラ、機関の構成員らしき白衣の男。そして――彼らに拘束される親友の姿だった。
「よう、ヒロ。さっきぶり」
状況がわかっているのかいないのか、ナオがへらりと笑う。しかし普段通りの笑みをうかべる顔には、数度殴られた痕跡があざやかに残っていた。
「なによ、これ……どういうことなの、ローズ! ミルディン!」
昂じるままの裂帛とともに、シャロンが一歩を踏みだした。
「ちゃんとヒロを連れてきたわ! 彼は逃げなかった! 騎士になるとも言ってくれた! なのにどうしてこんな……一般人を巻き込むような真似を……!」
「ひひ。どうしてもなにも、こういうことさ。――やれ、ローズ」
「仰せのままに」
繊月のように嗤う白衣の男が、高らかに指を打ち鳴らす。
ローズがナオの頤を指でもちあげ、薔薇紋で鐫刻したナイフを咽喉にあてがい――……
「やめっ……!」
「ナオ、逃げて!」
制止の効なく、花が咲く。
血という花びらが、百千に、千々に、命が流れ、落ちて、逝く。
春という生命が謳歌する季節に、花のかたちをした死が、天地をさかしまに爛焼する。
「今どういう気分かね?」
紙のように薄く青白い肌膚と、痩けた頬のうえで、爛々と狂気にみちた双眸が眼路をひらく。嗤笑がこれ以上はない毒々しさをともない、まとわりつく。
「また死んだぞ、もう死んだぞ。キミのせいで。――キミのせいで!」
「……ぁ、」
「逃げられると思ったか。一世紀もすればヒトは朽ちると高を括ったか、人類最古の犠牲者よ! 人身御供の執行者をあまくみるな。私の執念をあなどるな。未来永劫、私の実験動物として飼われていればよいのだ」
骸骨のような腕が、ヒロにむかってぞろりと蠢く。
尋常ならざる狂妄にシャロンまでもが気圧された。
そう、このふたりは。日高直紀と面識のあるヒロたちにとって、この事態は完全な慮外。両脚だけでなく思考を凍らせるに足るものだった。
しかし、この場にはまだ状況を冷静に客観視できる者が残されている。――それは。
「やっぱ、お前が」
「やはり、あなたが」
唇が喜色にゆがめいた。窃々とした囁きではあったけれど、確かにそれは歌劇のように――凍てつく世界に罅隙をいれる言葉だった。
「やっぱお前が――今まで〈アベル〉を弄んできた張本人なんだな?」
「やはりあなたが――我が子〈バベル〉を弄んできた張本人なのですね?」
確信ありきの、形骸化した問いかけと同時、ミルディンの双眸が驚愕にひらかれた。
彼の薄い胸板に衄れた〝薔薇〟が咲いたのだ。茨は肺腑をしぼるように勢力をひろげていく。
「……ヵ……ッ」
苦痛に舌をたたき鳴らし、ミルディンは頽れた。ただでさえ生白い肌が、薔薇に血を吸いとられて屍蝋のように朽ちていき――地面にぶつかった衝撃で〝壊れて〟しまわないのが不思議なほど、ただの物体となりはてる。
「ふたりとも、こっちに来て……!」
ミルディンが伏したことで拓けた先、静かに微笑むローズを見遣った瞬間、シャロンはなんとか驚愕から脱した。相変わらず状況はつかめない。それでも魂に刻んだ、パンドラとその後継を守るという信念が、少女の鼓動を衝き動かす。
だが茫然自失とする少年と、物言わぬ人形同然になりはてた少女をすぐ傍まで引き寄せられたのは、決して彼女の手腕にあらず。ただ反逆者が見逃してくれただけにすぎない。
否、相手は個にあらず。
ミルディンをしかと標的にさだめたのは、ふたりぶんの声だったはずだ。
「あら、復讐の機会をわたくしに譲ってよろしかったのかしら?」
ローズの声に、足下の落英繽紛が蠢きだす。日高直紀の流れた血液より現れ出でしさまは、やはり異彩、そして異様。黄金色を満艦飾に、傲慢そのひとが姿態をなした。
「あなたたち……人間に憑依して……っ!?」
特異領域でしか存在しえぬはずの〝薔薇〟と〝魔人〟が現世に顕れたということは、人間の肉を奪ったということに他ならない。
一体いつから。どうやって。いや、そんなことはどうでもいい。やるべきことに変わりはないのだから。
「人類に仇なす化け物め! 彼らの仇、討ち取ってやる……!」
怒気が、爆発的に界をぬりかえる。
矜持による〈世界構築〉は刹那。光鋩をぬきはなつのも、また刹那。
俊足すら飛び越して光速に達する踏み込みが、ただでさえない距離をさらに縮める。この突貫は、昨日の彼女自身にすら躱せない刺撃となるはずだった。
「おいおい、誰の仇だって?」
「――……え、」
否、事実そうなった。カインにあたえるはずの剣禍が、日高直紀の胸を貫穿することで。
剣の鋒鋩を肉に……肋骨すら刺し貫いて心臓にうずめるこの感覚が、妄想の産物であろうはずがない。
「まだ俺を人間だと思ってんのか?」
「……なに、なんで、」
ローズに首を掻ききられたはずだった。カインに肉体を奪われていたはずだった。そして今、シャロンの一撃はまぎれもなく心臓を貫いたはずだった。
ではなぜミルディンのように死んでしまわないのか。
「日高直紀――あなた、一体……!?」
「まだわっかんねえの? 黒妖犬の目は俺の血液。カインを棲まわせ、かつ頸動脈を裂かれようが心臓ぶちぬかれようがどうってことないのも俺の身体。駄目押しに、お前が創りだしたこの特異領域に存在できるってことは……答えなんてひとつじゃね?」
「――し、神魔……!?」
にたり、と彼が嗤う。つりあがった唇から覗くのは、八重歯というにはあまりに鋭利な犬歯。あるいはこうも呼ばれるのだったか。――すなわち、鬼歯、と。
「半分正解で、半分ハズレだ。俺はな、〈人と吸血鬼の混血〉なんだよ」
純粋な神魔とは異なり、命の息吹をあげたときから人界で肉をそなえていた者。
カインが魔に転じた元人間、すなわち魔人ならば、彼はその逆――人が混じった魔、すなわち人魔なのだ。
「もっともお前にとっちゃ、こっちの自己紹介がわかりやすいか? 十五年前まで使っていた適当な名前だけどな」
「王城傘下、第十三番目〈血宵の闇〉アリアス・リークス。……そう、お前らが〈十三番目の裏切り者〉と謗る相手は俺のことさ」
まだ続く