2章6話 - パンドラ候補
主人公の正体 考察回(前半)
シャロンはひっそりと夜闇にまぎれ、彼らが男子寮にむかうのを見送った。
先ほどの態度は素が八割、演技二割といったところだ。本来、この学園の生徒ではないのだから、女子寮にむける足などない。できるだけパンドラのいる校舎から離れたくなかったが、万が一にもナオと呼ばれる少年が女子寮まで送っていくと言いだしては困る。そのための態度だった。……まあ、彼の様子を鑑みれば、最初から杞憂だろうけれど。
「……行ったわね」
彼らが視認できるかどうかの距離になって、ようやくシャロンは昇降口にもどった。保健室を目指そうと土足であがりこむと同時、イヤー・カフから着信音が鳴り響く。カフの微少スイッチをいれると、一瞬だけノイズが走る。
「キミ、報告内容は確かかね」
架電相手はすぐにわかった。隻句だろうと即座にわかるほど粘着質な喋り方。そのうえ滑舌が悪く、他人を嘲笑する響きまで孕んでいるとなれば、ミルディンしか有り得ない。
相手が眼前にいないのをこれ幸いと、シャロンは盛大に顔を顰めてみせた。
「当然です」
粘つく声を断ちきるように、短く、はっきりと言い放つ。
負けじと嫌悪感を隠しもしなかったが、さすがは〈狂いのミルディン〉。気にした素振りもみせず、ほうほうほう、と彼独特の相槌を三度くりかえした。了解の意を伝えるためではなく、こちらが思案しているあいだは黙っていろという意思表示だ。
「皆守紘。バベルの塔崩落事件のあとに発見された遺児の片割れ。親類縁者はまったくの不明。サバイバーズ・ギルトの症状がみられ、重度の摂食障害のほか、なにかを傷付けることに極端なストレスを感じ、パニック障害もみられる。〈希望〉の適性あり。添付された写真は受験時のもので、三か月と経っていない」
「ええ、すべてその通りです」
「ほうほうほう。いいよ。うん、いいよ。キミ、今どこなの。なにしてるの」
なにって、大嫌いなあんたと会話しているのよ。そう言いたいのをぐっとこらえ、彼が求めているであろう応えをかえす。とにかく一秒でも早く通話を終わらせたかった。
「彼を男子寮まで案内していました。今はローズと合流しに……」
「あああああああ。なにやってんの。ねえ、なにやってんの。馬鹿なの。無能なの」
「…………は?」
「パンドラなんかどうでもいい。彼の身辺警護――いや、監視だ。神魔なんかに渡さないように! 逃げられるなんてもってのほか!」
「なにを……! 確かにパンドラは稼働限界にきています。遅かれ早かれ数日中には死ぬでしょう。彼が貴重な〈希望〉の適性者であることも重々承知しています! でも、それでもあの子はまだ生きている! パンドラの安全確保が最重要任務のはずよ!」
さすがに声量を抑える努力はしたものの、最後はほとんど人目を憚らぬ悲鳴だった。肩で息をしながら、いまさら周囲を見渡す。カフの向こう側がやけに静かだ。
「……あの、ミルディ……」
「あああ馬鹿。ほんっとうに無能! これだから戦うしか能のないガキは困る!」
「なっ……!」
「パンドラなんかより優先に値するから言ってるんだ、このグズ! いいか、この任務は最高レベルだ! 最優先だ! 薬物の使用、暴力、賄賂、なんでも許可する! なにを犠牲にしてでもアレの入手に努めるんだ! もうわかっただろう、さあ行け! 時間を無駄にするなアシュレイ卿!」
ふたたびノイズが鳴り響き、唐突に通話が終了する。
口角泡を飛ばさんとする勢いに、結局、最後まで押しきられてしまった。
「なによ……どういうことなの……?」
イヤー・カフの位置を直しながら、呆然と呟く。
ミルディンは神魔研究の第一人者だ。騎士の適性はなく、騎士の座にこそ就いてはいないものの、捕獲した神魔をつかって実験をおこない、結果を機関にフィードバックしている。記憶を改竄・消去させる〈秘なる霊液〉も、かつて彼のような研究者が開発したものであり、いくら騎士と研究部が畑違いとはいえ、容易に無視していい存在ではない。
では第一人者である彼をして、最重要任務の護衛対象であると言わしめた皆守紘は、一体何者なのか。
報告書をとりまとめたのはシャロンだ。情報の量、質、ともにこちらが勝っている。ただ手持ちの情報をどう料理したのかが異なるだけ。ならば今からでも彼が行き着いた考察に、おのれが辿り着けぬはずがない。
「……ヒロが、パンドラ以上の重要人物である理由……?」
騎士は適性がなければ就任できないため、つねに慢性的な人手不足に悩まされており、現在〈希望〉の席は空位となっていた。そういう意味でヒロは貴重な存在だ。だが他属性の騎士ならば、ローズやシャロンをはじめ複数在籍している。そもそも騎士はパンドラを守るために存在するのだから、騎士というだけでパンドラより優先されるはずがない。たとえベアトリーチェがあと数日の命だとしても、この優先基準は覆らない。
「パンドラよりも……パンドラ以上……?」
嫌な感覚が、足下から一気に駆けあがる。
彼の〈希望〉という騎士特性――〝戦意の喪失による非戦〟という固有能力は、ある意味、パンドラの〈楽園追放〉と似通っていないだろうか。
初代パンドラが神魔を精神世界に封印したのは、殲滅するには無力だからこその、苦肉の策だと思っていた。それが彼女にできる限界なのだと。しかし、その解釈が違うなら。封印というよりも棲み分け――神魔と人間が傷付けあわないようにするための手段だとしたら。
ミルディンがパンドラより優先すべきと言ったのは、今のパンドラが稼働限界を迎えているからで。死期がせまっているから、で。王城が次のパンドラ候補を優先するのは、至極当然の話で……。
「ヒロは……次のパンドラ……?」
呟きは風に吹かれ、なんのかすがいもなく夜に呑み込まれていった。
まだ続く