2章5話 - バベルの塔崩落事件
15年前の事件についてと親友の再登場
昇降口にたどりつくと、夜の匂いがした。
ひかえめな電燈の灯が、春の薄暗がりのなかでじんわりと滲み、電球の全体像をうっすらと暈している。昼とは異なる緩やかな時間が、一度は癇癪によってひりついた場の雰囲気をやわらげようとしていた。それが悲しいことなのか、ありがたいことなのか、今のシャロンには判別できない。
彼はなにも言わない。理事長室をでて窓ひとつない長い廊下を歩いても、突きあたりの扉が幅のせまい螺旋階段に繋がっていても。部活勧誘ポスターの飾られた壁や、職員室や生徒会室のプレートを目にしても。なにひとつ尋ねたり呟くことはなかった。
色々なことがありすぎて、様々なことを知りすぎて、心が追いついていないのかもしれない。シャロンも最愛の少女のことをまだ受けとめきれず、どんな景色も張りぼてのように心を上滑りするばかりだ。
だから、なのだろうか。気の緩みは、硬く引き結んだくちびるを緩めるに至らせた。有り体にいえば、口を滑らせたのだ。パンドラの対応を優先させるあまり、後手にまわしてしまっていたことだった。
「……ねえ、未来は可能性に満ちているって思う？」
「シャロン？」
「神魔との戦いに終止符が打たれる日がくるって信じられる？ あなたはたまたま騎士の適性があって、なんとなく進学先にここを選んで、偶然カインとの戦いに巻き込まれたんだって納得できる？」
シャロンには学園を目指す理由があった。
一方で、彼にも学園を目指す理由があった。登校という、ごくありふれたものではあるけれど。
「過去が現在をつくって、現在が未来に繋がるなら、私たちはずっと過去に操られているのかしら。最初の一歩が間違っているなら、未来は無限の可能性があるように期待できるだけで、本当は選択肢なんてないんじゃないかしら」
学園はパンドラや騎士の候補となりえる者を保護し、収容するための施設だ。しかし生徒全員がそのために集められたわけではない。皆守紘が入学試験をパスしたのも、あくまで災害遺児にたいする福祉として――表向きの顔たる〝教育機関〟が選出したにすぎない。
けれど肝心の選出理由――災害遺児という背景が、王城とまったくの無縁でなかったとしたら。
「――皆守紘。一九九九年、東京都で発生した〝バベルの塔崩落事件〟のあとに発見された遺児」
音もなく風が吹いた。
夜の校庭に埋もれていた風は、脱靴箱と脱靴箱の隙間を縫って、ふたりの髪をわずかに揺らす。
「……ああ。なにかと思えば、そのことか」
彼の声音は、いましがた風に吹かれて転がる微塵のようだった。軽やかとは言わないが、どこか安堵が滲む。日常の延長線上にある些末だと言外につたえていた。
「うん、そうだよ。僕はあの事故の生き残りだ。……僕の親は不法就労外国人らしくて身元がはっきりしなかったから、ナオと一緒に養護施設に入れられたんだ。でも、それがどうかしたの？」
バブル期に構想された、東京バベルタワー。完成すれば、いや完成途中でさえ世界一の高さを誇るその超高層ビルは、今から約十五年前に倒壊した。
もともとバベルタワーは東京二十三区全域を敷地に、何十年もの歳月を費やして住居や商業施設を完備する予定だった。そのため特例として、不法就労外国人の雇い入れが黙認されるほか、完成した下層部は工事にたずさわる数多くの労働者やその家族の臨時居住地にあてられていた。
そのため死傷者数も前代未聞の規模となる。身元がはっきりしない遺体だけでも数千。最終的な死傷者数は数万人にのぼった。
最も被害のおおきかった爆心地の生き残りが、当時赤ん坊だった皆守紘と日高直紀だ。
「あれはただの事故じゃなかった。どこかの国が起こしたテロ事件でもなかった。……神魔と騎士が激突してうまれた悲劇だったの」
「ちょっと待って。君たちは特異領域をつくって、そのなかで戦うんだよね？ だから現実世界まで影響はでないんじゃ……」
「基本的にはあなたの言う通り。特異領域は、神魔や騎士が超常的な現象をおこすために用意する、人為的異世界だと考えてくれていい。ただ問題なのが、神魔は〝憑依〟や〝洗脳〟によって人間の身体を奪えるということ。人の肉を奪った神魔が現実の世界で兇行におよぶことは充分有り得るわ」
だから黒妖犬はシャロンに何者かと問いかける一方で、神魔としての在り方を望んだ。シャロンはそれに呑まれかけ、窮地に陥った。もしも彼がいなければ、今頃、神魔の操り人形となって、仲間に剣をむけていたかもしれない。
「よくあることなの？ ……その、人間が洗脳されたり憑依されたりするっていうのは」
「それを説明するには、まず特異領域について話さなければならない。あの世界の色は、どのような世界を望むのか――どんな信念なのかによって変わるって言ったわよね？」
「うん。君が〈矜持〉、ローズさんは〈慈愛〉、……僕が〈希望〉だ」
「信念はいわゆる〈七つの美徳〉のことで、矜持、希望、正義、寛容、大志、自制、慈愛の七種類があるわ。けれど信念なんて、……気持ちなんて、ほんのわずかな後押しですりかわってしまう。心が剥きだしになるということは、心が無防備になるということだから」
矜持がすぎれば傲慢になる。
正義心がすぎれば憤怒に、寛容がすぎれば怠惰に、大志がすぎれば強欲となる。
希望が叶わなければ嫉妬に転じ、自制が叶わなければ暴食に転じ、未熟な慈愛は色欲とまざりあってしまう。
「十五年前の事件もそう。騎士のひとりが裏切ったと言われているけれど、実際のところ本当に裏切ったのか、洗脳をうけたのか、憑依されたのかまではわからない。とにかく核となった人物が次々に仲間を神魔に堕とし、何千何万の人間をまきこんで、当時最高の騎士だったアベル・ファタールを殺害しようとした」
「……その騎士たちはどうなったの？」
「相討ちだったと聞いているわ。すくなくともアベル・ファタールは帰還せず、裏切り者の死体は発見されなかった。そのあとは平穏そのものだったから、楽観的な推測でしかないけれど。それがどうかしたの？」
「……ううん、なんでもない」
昇降口の電燈がまたたき、頭上から不穏な影をちらつかせた。
寿命が残りすくないのだろう。ふたたび灯った光量はいくぶんひかえめで、目の前の少年にいくつか新しい影を落としている。けれど彼の表情に憂いが刻まれているのは、決してそのせいだけではない。
「……事件当時の記憶はなくても、あなたは何千何万の死傷者がでた事実だけでつらいのね」
「そういうわけじゃ……、……ううん、そうなのかもしれない。すこしだけ考えてみたんだ、十五年前のことを。なにも憶えていないけれど、……そのつもりだったけれど、でも今の話を聞いたら、僕が地面を歩くのも怖いのはバベルタワーが崩壊した記憶があるせいなのかなって」
曖昧な笑みをうかべながら、ヒロは確かめるように昇降口から一歩をふみだした。
遅れてシャロンも玄関口をでる。
「報告書によれば芝生のうえも歩けないとあったけれど、今も怖い？」
「アスファルトやコンクリートなら大丈夫。校庭みたいに砂と砂利だけの場所もまだ平気かな。そういう意味では東京でよかったなって思うよ。大体どこも舗装されているからね」
校舎という箱をでてみれば、一面の夜が広がっていた。
夜間照明は白いひかりを地面に投げかけ、遠方ではぽつぽつと地上の星がきらめく。
とはいえ空が広いことに変わりなく、夜の深さにも障りなく。近くの公園や校庭の花壇といった諸々が、隅々にわだかまる闇を濃く肯っていた。
「でも、完全になんとも思わないわけじゃないんだ。アスファルトの下には地面があって、本当なら花や木が育つはずだった。こっちの都合で勝手に埋め立てたのに、僕は平然と踏みなじって生きている。それを息苦しく思うよ」
「……埋め立て地ってお台場のあたりでしょう？」
なんとなく引っかかる。彼からわずかに動揺の気配を感じるからだろうか。
いや、違う。彼は自身の異常性を理解している。そこに譲れない信念を見いだしているけれど、同時に万人に押しつける愚と不毛さに苦しんでもいる。
ではなんだろう。一体どこに戦士としての勘が働いたのか。
疑問は、少女の内心を知るよしもない少年本人が教えてくれた。
「ああ、えっとね。江戸って知ってる？ 昔の東京の呼び名なんだけど。その江戸時代がはじまってすぐの頃は、関東平野は巨大な湿地帯だったんだ」
「そう……そうなの」
かつてこの地は巨大な湿地帯だった。その事実に愕然とする。
カインだからグレンデル。グレンデルだから沼地に棲む。沼に棲む怪物だからフェンリル。単純にそう思っていた。それだけでしかないと思い込んでいた。けれどこんなかたちで、彼らの繋鎖を補強するものがあったなんて。
ローズは瓊玉を発見したが、あれはあくまで〝夜目にも燃え熾る緋色の瞳〟とされる黒妖犬を繋ぎとめるためのものだ。依然としてフェンリルの繋鎖は、沼という〝言葉〟しか見つかっていない。
考えすぎだろうか。だがもしも東京がかつて湿地帯であったことすら織り込み済みだとしたら。カインだけではなく、この国の……すくなくとも東京の歴史や立地に詳しい者が関わっているとすれば。十五年前の事件のように裏切り者が――……
「――お前、なにしてんの？」
シャロンが憂慮に囚われ、闃然とした刹那。思いがけぬ声が夜の闇に響いた。
声は、いまだふたりの庇の下においた玄関口でも、校舎の廊下からでもない。薄暗闇のむこうから滲むように現れた少年のものだった。
「ナオ！ どうしてここに？」
「おいおい、それはこっちの台詞だろ？ いつまで経っても戻ってこないから探しに来たんだよ」
「あっ……。そうだったね、ごめん。ちょっとシャロンのお世話になってて……えっと、彼女がそのシャロンさんで……」
「――自己紹介くらい自分でできるわ。私はシャロン・アシュレイ。この学園の生徒よ」
あわてふためく彼を制し、涼しげな顔でさらりと嘘をつく。その嘘が違和感をあたえるより先に、流れるように握手をもとめた。
所作も、タイミングも、完璧だったはずだ。しかし相手は――ヒロの親友にして遺児の片割れたる日高直紀は、さしだされた手を取ることはなかった。
「いや、だからさ。お前、ヒロになにしてんの？」
厳しい声音と双眸が突き刺さる。問いはシャロンにこそ向けられていたのだ。
呆けたのは一瞬。すぐに腹が熱くなる。自慢ではないが短気なほうだ。初対面でこんなことを言われて黙っていられるような淑女ではない。
「なにか勘違いしてないかしら。私は道ばたで倒れていた彼を見つけて、保健室に連れて行った。放課後、様子を見に行ってみたら、ちょうど目を覚ましたところだった。聞けば新入生だって言うじゃない。保健の先生に頼まれて、男子寮へ案内している。ただそれだけよ」
日高直紀の視線は揺らがない。当然、謝罪の言葉ひとつ現れない。
なるほど、今までの事態や会話のせいで、ヒロの顔色はお世辞にもいいとは言えない。夜だからなおさら血色が悪く見えただろう。それでも彼の態度はあんまりではないか。
「無理に付き合わせていたわけじゃない。嫌がる彼にせまっていたわけでも、ましてや虐めていたわけでもないわ！ 大体ね、彼はあなたの所有物じゃないの！ 私となにをしていようと、あなたには関係ないでしょう！」
……もしも今、ヒロが青褪めているとしたら、理由の大半はこの剣幕に帰結するだろう。だが怒りに滾るシャロンはまったく気付かなかった。気付かないままヒロの肩に触れる。
「じゃあ私は〝女子寮〟にもどるわ。またね、ヒロ」
「え、ああ、あの、…………うん。……おやすみ、シャロン」
「ええ。おやすみなさい」
当然、女子寮にむかうためには、日高直紀の隣を通らねばならない。必然、相見えるふたりは、犬猿の予感を隠しもせずにすれ違う。
「……こいつが所有物とか、一度も思ったことねえよ」
目睫の間にせまる寸前、日高直紀はそう吐き捨てた。シャロンはもう取り合わなかった。
まだ続く
