2章3話 - 白痴
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まさか、また神魔の襲撃が――……!?
驚いて跳ね起きれば、まるで思いがけない光景に出会う。
花瓶が無残にも砕け散り、ローテーブルに潦をえがいていた。室内にあってぽつりぽつりと漣をおくりこむのは、てのひらの生命線に沿って刻まれたひとすじの創傷。パンドラが花瓶を割ってうまれた流血の惨だった。
一瞬で衆目を奪った幼女は、しかし周囲を顧みることなく破片に手をのばす。シャロンの悲鳴が空気を切り刻んだ。
「パンドラ! 駄目よ、やめなさい!」
「ふ、うぅ、うえッ、ああ!」
手首をつかまれたパンドラが恐怖と不快感を相携えて暴れだした。その拍子に破片の山を薙ぎ倒し、今度は腕から新しい鮮血がほとばしる。
「……ッ! ローズ!」
「はい、ただちに」
ローズは繻子織のドレスグローブを嵌めなおすと、床に転がるスケッチブックを拾いあげる。数時間前、パンドラが嬉しそうに書き綴ったヒロの名前は、血飛沫という名の血溜まりに溺れていた。それもすぐに破片の受け皿となったことで完全に見えなくなる。
「あッ、ああ、う、ぁ、あーっ!」
「暴れないで! お願いだから良い子にして!」
「アシュレイ卿、ここはわたくしが。……パンドラ様。貴き御身に触れるご無礼を、どうかお許しください」
即下、手刀が延髄を打つ。
悲鳴はない。抵抗もない。ぷつりと糸がきれたように、パンドラはシャロンの腕のなかに倒れこむ。誰かが紙で指を切っただけで卒倒するヒロをして瞠若せしめる、電光石火の収束だった。
ヒロが安堵の息をつくよりも早く――間髪をいれず、次の金切り声が響く。
「あなた、パンドラが今どういう状態なのか理解できているの!?」
幼女をしっかと抱きとめるシャロンだった。神魔との戦いのさなかでも、ここまでの威迫があっただろうか。裂帛一閃、耳朶をかすめて吹き抜ける。
だが流石は年長にして愛の騎士。ローズ・B・ウェブフィールドは怖めず臆せず、凜然たる姿勢を貫きとおす。
「無論にございます。免疫機能の低下により、わずかな切り傷でも破傷風に繋がりかねません。花瓶の水が古ければ、なおさら感染リスクは高まるでしょう。叶わぬ対話を試みて時間を無為にするより、実力行使で無力化し、応急処置を施すべきだと判断いたしました」
「……っ!」
「また報告書によれば、紘さまは暴力沙汰を嫌うとのこと。対応が長引けばパニック障害を誘発しかねません。それでは先ほど幻想痛を治療した意味がなくなってしまいますわ」
ふたりの視線がヒロにむく。思わぬ矛先をうけて戸惑ったが、ローズの言うとおりだ。
流血に身動きできなかった。それにあの手刀は、傍観の立場にあるヒロすら目で追うのがやっとの神速で、打擲という認識をつくる間もなかった。おそらく当の本人すら打たれたことに気付かなかっただろう。
「……っ、……、……ごめんなさい」
シャロンはうなだれ、静かに誤を認めた。ローズもあげつらう意図はなかったようで、いつもの微笑みをうかべ、優しい声音で少女をつつみこむ。
「お気になさらず。わたくしはパンドラ様と保健室に行ってまいりますので、アシュレイ卿は紘さまを寮に案内していただけませんか? いつ敵襲があるか予測できぬからこそ、今のうちにできることから片付けておくべきです」
「……でも身柄を押さえておくよう本部から……」
「彼は我が身可愛さに逃げる方ではないでしょう。それに消毒前、近親者と別れの挨拶をするための時間を設けることは推奨されています」
「だからッ、上層部からの命令だって言っているでしょう! それに別行動してビーチェを死なせてしまったら……! 世界の命運が、人類の存亡がかかっているのよ!」
「……失礼、どうやら迂遠すぎたようです。率直に言わせてもらいましょう」
「――〝それ〟は死にました。
死者のために生者をないがしろにするのはおやめなさい」
ローズのまなざしが、ぞっとするほど酷薄に細められた。
体格優位のあるがままに、シャロンの頭蓋から爪先までを貫くように瞰下する。
もしも視線で人が殺せるならば、間違いなく少女は左右対称の肉塊となりはてていただろう。
「……ぁ、」
「なるほど、アシュレイ卿は〈パンドラ〉継承以前の人となりをご存知でいらっしゃる。神魔から守りたい気持ちが人一倍強かろうことは想像に難くありません。ですが本日、ベアトリーチェ様は人格的死を迎えました」
「……死……そ、んな……」
「そうです、死です。死にました。そして死の危険はなにもパンドラ様の専売特許ではない。騎士に召し上げる。神魔との戦いに巻き込む。それらは今まで普通に過ごしておられた紘さまにとって〝死ね〟と同義。ベアトリーチェ様の死を嘆く心がおありなら、なおさら紘さまの心残りのないよう工面してさしあげなくては。そうでしょう?」
シャロンが助けをもとめるようにヒロへと向き直った。しかし事態に圧倒されるばかりの自分では、かける言葉など見つからなくて。そしてこの状況下、沈黙は少女を苦しめる以外のなにものでもなかった。碧眼が透明な悲しみでまたたく。
「…………パンドラの手当をお願い。私も……彼を寮に送り届けるから」
「ご理解、感謝いたします」
悄然とうなだれる少女からパンドラを掬いあげると、ローズはさっと踵をかえし、部屋をでていった。
ふたりきりになった部屋で、重く苦しい沈黙が垂れ込める。なにか言葉をかけたいのに、うまく言葉がでてこない。もどかしさの海に窒息してしまいそうだった。
「……、……シャ、ロン」
「…………わかっているわ。ちゃんとあなたを寮まで送り届ける。……ちゃんとお別れできるよう取り計らうから」
暴れた拍子に外れたのだろう。カーペットに落ちていたカチューシャを拾い、シャロンはそっと唇を寄せる。
名前を持たない感情だった。まるでヒロが礼拝堂で祈りを捧げるような、衝動というには不確かすぎるなにか。それはたった今、彼女の前に死神の顔をして現れたのではない。部屋の隅におちた埃のように、日常生活の端々にありながら息をひそめていたものだ。
ヒロは今になってようやく靴の裏に風を通した。蹲ったまま動かない少女に寄り添い、震える手に手を重ねる。
「ねえ、シャロン」
「……わかってる。今、案内するからっ……!」
「そのまえに聞かせてくれないかな。どうして君が戦っているのか。どうしてあの子が命を狙われるのか。……〈パンドラ〉とは一体なんなのか」
酷いことを尋ねている自覚はある。本当に申し訳ないと思う。けれど、どうしても訊いておきたかった。
ヒロの〈希望〉はあの少女との出逢いからはじまった。シャロンを助けたい一心を助勢に、誰も傷付かない世界という理想をこのうえなく実現する色として現れた。
君たちの事情を知りたい。
それはきっと騎士として生きる理由に。
戦う証になっていくから。
まだ続く