2章2話 - 愛と希望
ローズはただのお色気担当お姉さんキャラではありません
煌めく。
棘のように鋭くて、薔薇のように赤いなにかが。
目覚めると、目と鼻の先にまろい厚みがあった。
なんだろう。アイマスクにしては大きく離れすぎている。かといって天井には近すぎるし、材質だってまるで違う。そう、これはもっとやわらかい――……。
ぼんやりした意識が答えを導きだすより早く、ふわりと薔薇の馨香が鼻先にふれた。一拍遅れてローズが視界に入り込む。
「あら、お目覚めになられましたか。ご気分はいかがです?」
「……ッ!」
――膝枕されている。
気付いてすぐに飛び退こうとした。重くてすみません、お身体を凝視してしまってすみません。そう土下座して謝るつもりだった。けれど身体が動かない。またしてもソファのうえで仰臥しているのに、今度ばかりは指先すらろくに動かず、唇がはくりはくりと戦慄くだけ。
「美しいでしょう。これは黒妖犬の瞳……神魔の血液を凝縮したものなのですよ」
ローズはこちらの焦慮を知ってか知らずか、助け船をだすこともなく真紅の宝石へと凝眸を預けなおした。光に透かすべく掲げた指先がわずかに位置を変えると、はじかれた光が矢となってヒロの目を焼く。先ほどの眩しさはこれだったようだ。
「これこそ彼らが顕現するための繋鎖になったとみて間違いありません。もっとも今は機能を停止しているため、ふたたび彼らが襲いかかってくる可能性はございませんわ。どうかご安心くださ……紘さま?」
「……、……」
なぜか涙があふれた。身体を動かせないのに泣くことはできるだなんて妙な話だ。けれど、とまらなかった。とめられなかった。
こぼれて、頬をつたい流れて、落ちて。それでも次々にうまれる涙滴を、ローズの華奢な指先があわてて掬いとっていく。
「どうかなされましたか? 怖い夢でもみましたか?」
違う。そうじゃない。いつもの悪夢をみたわけではないのだ。
あなたたちが、今までずっとあんなふうに戦ってきたことが、僕には悲しい。あなたたちや、神魔とよばれる者たちの犠牲があったことが苦しい。音を発することができたなら、そう答えただろう。
誰にも信じてもらえないような夢物語が存在するのに、どうして〝闘争〟という態をとっているのだろう。なぜ誰ひとりなにひとつ傷付けることなく生きていけるはずというヒロの願いは、この世界で確固たるかたちをとらないのだろう。
幼い頃から疑問に思っていた。
人の嫌がることをしてはいけない。誠実であれ。愛をもって接しなさい。慈しみなさい。差別はいけない。盗みもいけない。不義をしてはならない。それらすべてを守る努力しなさい。
〝正しいこと〟といえば漠然としている。けれど世の中には、こんなにも〝正しいこと〟の指針であふれかえっている。なのになぜ毎日のように殺人や汚職のニュースが報じられるのか。
――人は生まれながらにして罪を背負っているからです
シスターはそう言った。つまり、どうしようもない、ということではないか。初めから間違っているのだから、いまさら努力したところで、誰かを犠牲にして生きることから逃れられないという意味ではないか。
けれど。それでも。誰も傷付けないで生きていく方法をきっと掴めた。血で血を流すような闘争に、瑕疵をつけることなく幕をおろしたのに。正しいことがなせたのに。
どうして、今、この身体は動かないのだろう。
「紘さ……」
「――彼は起きた?」
扉の開け放つ音と同時、シャロンの鋭い声が場を切り裂いた。
ローズは膝枕をそのままに姿勢をただし、すかさず応の構えをとる。
「はい、今しがた。ですが身体は動かせないようです。正騎士になるための訓練をうけていないのですから無理もありませんが……」
「そう甘いことを言っていられる状況じゃないのは、あなたもよくわかっているはずよ。今夜もう襲撃がおきない保証は誰にもできない。〈世界再構築〉した以上、次の敵は率先して彼をねらう可能性も考えられる」
シャロンは舌端火を吐く勢いでまくしたてながら、ソファの前まで歩を進めた。声音通りの険しい表情でヒロを瞰下する。
「――皆守紘。機関にあなたのことを伝えてきたわ。ローズから聞いていると思うけれど、あなたに拒否権はない。逃げたところで追っ手がかかるだけよ。お世話になった養護施設に迷惑をかけたくはないでしょう?」
どうやらヒロの涙を、騎士になることへの拒絶反応と解釈したようだ。
違うと言いたくて唇を震わせる。だがシャロンは不快げに眉を寄せ、さっさとヒロの視界から離れてしまった。
「とにかく時間がないの。ローズ。幻想痛の治療ついでと言ってはおかしいけれど、彼に特異領域を創りだす手本をみせてあげて」
「かしこまりましたわ」
薔薇の名を冠する麗人はソファから降りると、背中に流れるウェーブがかった黒髪のした、うなじへと両手をさしいれた。ぱっと花が咲くように払えば、流れにあわせて艶がきらめき、風情と色気がこぼれおちる。
「紘さま。特異領域とは我らの心がかたちづくる精神世界のようなもの。アシュレイ卿は〈矜持〉ゆえに黄金を、わたくしは〈慈愛〉ですので紅を纏うのです。それを今からお見せいたしましょう」
指先を噛むようにして繻子織のドレスグローブをぬぎすてると、手の甲があらわとなる。剥きだしの肌には薔薇のタトゥーが刻まれていた。
「――世界は愛で満ちている」
口上と同時、周囲は赤色につつまれる。
まるで薔薇の千枝が、紗の天蓋となってあまねく世界を覆い尽くすがごとく。たった一言で世界はぬりかえられた。
「誰かが誰かを愛さなければ、次代の生命は産まれない。だからわたくしたちが存在するのは愛の結果なのですわ。幾千の戦禍と、それを産みだす幾億の憎嫉があろうとも、人の数だけ、ものの数だけ、愛は受け継がれている。それゆえ、この世界は愛で満ちている」
必要は発明の母という俗諺をおもいだす。望まれたから存在する、そしてその望みのかたちこそが愛であるという彼女の言葉は、本当にそれがすべてならどんなにいいだろうという羨望をともなって胸中に滲みわたる。
だが呑気にしていられたのは、そこまでだった。ローズはスーツの前をはだけ、ヒロの下肢を跨ぐようにして馬乗りになる。
「……ッ!?」
「心が反映されるとは、心が剥きだしになっていると言い換えることもできましょう。この世界において、わたくしたちはあまりに無防備です」
華奢な指が、つい、とヒロの頬をなでる。そうしてゆっくりと戦慄く唇にふれた。二度、三度と、弾力を愉しむように皮膚と皮膚が重なりあう。
「…………ローズ、」
「あら、アシュレイ卿。どうかなされましたか?」
「……遊んでいる余裕はないと言ったはずよ。早く終わらせなさい」
「ふふ、承知しております」
どこか威勢のない、けれど棘のある物言いに、ローズは鈴の音が転がるように応えた。
唇をもてあそぶ指は頬にもどり、鬢をかきあげると、隠すものを失った耳孔に吐息がふきかけられる。
「二度お眠りになられているあいだ、経歴や人となりを調べさせていただきました。誰かが傷付くことを忌避し、ずいぶん自虐的な性質をお持ちでいらっしゃるとか。そんな紘さまだからこそ、先の戦闘で、こうお考えになったのではありませんか? ――アシュレイ卿を救うためならば、咽喉笛を喰い破られ声を失っても構わない」
鬢をかきあげるのとは別の指が、咽喉にふれた。
「腕がちぎられ、命すら果てても惜しくはないと」
そのまま二の腕に流れ、猿臂をたどり、胸までの長い航路に艶という見えない航跡を残していく。やや体温の低い肌膚はしっとりとして、吸いつくようにヒロのそれに馴染んだ。
「これが〈幻想痛〉。精神によって創られた傷のことです。厄介な点は、下手に各自の信念とむすびついてしまえば、現実に負った傷とたいして変わりのないところ。そして紘さまの信念は、あのグレンデルやフェンリルすら退けるほど……〈世界再構築〉をなしえるほど突出している」
「あなたに自覚はないのでしょうけど、特異領域に存在できることと、特異領域をつくりだす――ましてや他者のそれを、なんの訓練を経ることもなく書き換えてしまうなんて、到底不可能な所業なのよ」
「よって、それを利用させていただきます。人を救おうとするとき、なにも真正面から戦うだけが手段ではないという紘さまのお考えに、わたくしも賛同いたしますわ」
ローズがてのひらを宙に浮かべると、たちまちナイフが顕現した。握把部分には赤薔薇が、刀身には茨が彫りこまれていて、まるで美術品のようだ。
だがヒロの鼓動を高鳴らせるのは、ローズの艶めかしさでも、ナイフの精巧さですらない。滲みでる不穏さと、武器が顕れている事実だ。その不安を肯うように、麗人は握把をヒロに握らせ、彼女自身のてのひらで固定する。そのまま鋒鋩を彼女の下腹部にむけた。
「……!」
「ふふ、女性経験はおありでしょうか? ここは女にとって最も大切な器官――子宮を孕む場所。そこを貫かれ、いじめられることは、女性にとって 死すらも凌駕する業苦」
「……、……!」
彼女はヒロの手をつかって凌辱しようとしているのだ。
嫌だと叫びたい。手を振り払いたい。
相手が本気かどうかなんて関係ない。ただ兇器をむけているだけで心はちぎれそうなのに、もしほんのわずかでも血が流れたら。傷付けてしまったら。
ヒロの身体はまだ動かない。シャロンの視線は感じるけれど、止めに入る様子はない。目覚めてからパンドラの声を一度も聞いていないから、この場でローズの自殺行為をとめる者はいないということになる。
今までの言動から察するに、〈幻想痛〉を現実に持ち越さないこともできるのだろう。
けれどシャロンたちの戦いを見てわかった。この世界で負った傷そのものはなかったことにできても、戦った記憶は残る。傷をうけた瞬間の痛みや苦しみすべてを遡って消すことにはならないのだ。
「さあ、紘さま。わたくしを貫く瞬間を――ご堪能あれ!」
ヒロの手ごとナイフが振り下ろされた。
まるで心という心を隅々まで蹂躙するかのように、禍々しい光景がスローモーションとなって流れていく。彼女の恍惚とした表情。蛇のように翻る黒髪のひとふさ。彼女が愛と謳った、濃爛緋紅の宙。すべてをつぶさに感じる。
「――……ぁ……」
声がでた。
そうだ、ここは毎夜おとずれる悪夢じゃない。
今のヒロには、彼女の兇行をとらえる目がある。彼女の意図を汲む耳があり、彼女に気持ちをつたえるくちがあり、彼女を守るための手足がある。
もう誰も傷付きませんように。もう誰も、僕のせいで苦しみませんように。未来永劫、僕によって誰かが死んでしまいませんように。
その願いのためなら死すらも厭わぬと誓ったのではないか。どんな痛みであろうと、どんな無理難題であろうとも、自分にできることならば喜んで受け入れると心に決めたはずではないのか。
「……ぃ、やだ、」
誰かを傷付けることはできなくても、世界を変えることはできる。誰かが誰かを傷付け、犠牲という名の屍を築いたうえでようやく掴みとるものに、きっと胸を張ることはできない。
そんな信念を掲げて、なんと答えた?
できなくてもやってみせる。そう言い切ったはずだ。
その理想のかけらを、一端でも掴めたのではなかったのか。
「――誰かが傷付くのは……誰かを傷付けるのは、もう嫌だっ!」
意識が。視界が。世界がはじけた。
ヒロの希いを一旒の旗にかかげたこの世界で、薔薇のナイフは薔薇そのものに姿を変えた。握把は花樹となり、刀身は花瓣となってこぼれおちていく。
彩ったのは緑。
生命の再生と復活。楽園を象徴する色。
「……そう、それが紘さまの願い。紘さまの色。〈希望〉と呼ばれるもの」
ローズの説明も虚しく、翠緑に染まる世界は、呆けるヒロを嘲笑うかのように急速に薄れていく。危機が去ったという安堵、世界を創造できたという驚愕が、もう目を眇めても届かない儚さへと変えてしまっていた。
鼓動というより血液が沸騰するようだ。
額から汗が流れるのにあまんじていると、ローズの華奢な指がそれを攫う。
「お見事ですわ。まだ実感が追いつかないでしょうが、あなたさまは今、ご自身の心に打ち克ったのですよ」
「声がでたでしょう。切っ先を振りきることができたでしょう? もう身体はなんともなっていないはずよ。ローズも早くどいてあげなさい。不健全だわ」
「あら。最後まで雰囲気を大切にするのが男女の嗜み。紳士淑女としてのマナーですわ」
シャロンの険しい声も、ローズが愉快げな声も、今ばかりはヒロの耳に届かない。もう眼瞼の裏側にしか残っていない翠の世界を、噛みしめるように思いえがく。
「……僕の、世界。……〈希望〉……」
誰の犠牲もださずに巨魔を退けた。そして今、ローズの助力ありきとはいえ、自分の意志で淡緑の世界を創造することができた。
誰も傷付けない世界。生命に祝福をあたえる領域。
まさしく……なによりも、誰よりも、ヒロにとっての希望だ。
指先と眼瞼がふるえて、鼻先がつんと熱くなる。いや、全身が昂ぶっているのかもしれない。今まで悲しくて泣いてばかりいたから、嬉しくて泣きそうな感覚がわからないのだ。
嬉しい。――そうだ、嬉しい。これならきっと。
そんな言葉にできぬ感慨を切り裂いたのは、ガラスの砕けるけたたましい物音だった。
まだ続く