異世界1
冷や汗がこめかみから流れ落ちる。
頭の中がシャッフルされたような、気持ち悪さ。
片膝をつきながら、膝に頭をつけて、呼吸を整える。
スウ、ハアと大きな呼吸を繰り返す。
(緑の香りが濃い)
匂い刺激は、脳へ伝達しやすいのかもしれない。
最初にまともに機能し始めたのは、嗅覚だった。
しっとりとした深い森の奥が持つ、濃い緑の香り。
しんと冷え切った空気に混じる露の香り。
ルシアは、ゆっくりと瞳を開けた。
目の前の巨石には、マーガレットがいつも通りの笑顔をはりつけて、優雅に腰かけていた。
「ここはどこだ」
「ママたちのいない世界よ」
「・・・」
「そんな、ホームシックにかかったような顔しないで」
ルシアは、周囲を見渡した。
臭いから予想していた通り、周囲は、木と草でそれ以外の存在が見当たらない。
おまけに、先ほどまで雨が降っていたのか、空気は湿気を含んでおり、草木の上には水滴が残っている。
「それで、ここで何をすればいいんだ?」
「とりあえず、ベッドのあるところを探したいわね」
「珍しく意見があったな」
立ち上がり、目を閉じる。
風の音
それが運ぶ臭い
(集中しろ)
「————少し、きな臭い」
風が運んだ違和感を感じ取る。
「行くぞ」
返事を待たず、歩きだす。
マーガレットは、巨石の上からひらりと飛び降りるとルシアの後を追った。
近づけば近づくほど、その匂いは濃くなっていく。
何かが燃えるている。
それに混じっているのは、土煙や・・・何かの異臭。
嗅いだことのない、できれば一生嗅ぎたくなかった種類のものだ。
「微量だが魔力も感じるな」
大したことのない魔力だが、数が多い。
音、臭い、魔力。
全てに注意しながら慎重に歩を進める。
『~~~~~~~!!!』
『———!!』
誰かの悲鳴に、怒号、愉悦。
相対する音が交錯している。
(———誰かが襲われている)
『飛翔 結界』
ふわりと体が浮く。
うっそうとした森の中だ。
姿を隠す場所は多く存在する。
なるべく葉の生い茂る高い場所を利用し、身を隠しながら移動する。
そして――――異臭と硝煙。悲鳴。
あらゆるものが鮮明に見えた。
「なんだ、あれ」
見たことのない生き物が、所狭しと溢れている。
「っ」
臭いのもとはあれだ。
ルシアは結界を強くする。
臭いが遮断され、息がしやすくなった。
「いや。見たことはあるな。あの女が昔読んでいた絵物語の挿絵に載っていた。たしか」
「ゴブリンね」
ルシアの結界の隣で、堂々と姿を晒しながら、浮遊する姉に、ルシアは柳眉をゆがめる。
「おい、隠れろ」
「私、あまり好きではないの」
にっこり。
そういうと、くるりと後ろを向く。
「それじゃあ、ルシア。またね」
振り返って、ひらりと手を振ると、マーガレットはそのまま、ふわーっとどこかへ飛んでいく。
「あのアマっ」
見るからに誰かが襲われているのに、この非常識の非道の外道が。
とりあえず、口には決して出さないが、心の中でののしっておく。
「あんな女にかまっている場合か」
ルシアは視線を元に戻すと、彼らの動きをじっと見つめた。
確かに、マーガレットは非常識の非道の外道だが、ルシアとて馬鹿ではない。
人情味あふれて飛び出して行って、何もできなければ意味がない。
冷静に。そして、早く。
事態を把握し、策を練らねば。
ゴブリン、と姉が言った生き物は、見たことのない、ルシアの世界にはいない生き物だ。
数はざっと300はいる。
ここは、森の中の集落のようで、家らしきものが30はある。
森の中の集落にしては多いのではないだろうか。
それらが燃やされ、あのゴブリンたちに制圧されている。
(数が多すぎてほぼゴブリンしか見えんぞ。村人はどこだ)
うごめく同じような生き物たちの中から、違う姿を探す。
「っ」
家の一つから、ゴブリンではない存在が引きずり出されるのが見えた。
金色の髪をした子供だった。
その瞬間。
「—————」
ぶちっと音を立てて、ルシアの中の何かが切れる。
感情に比例して、魔力が膨れ上がる。
ごうっと音を立てて、暴風の塊のようになったルシアは、子供のもとへと豪速で突っ込んだ。
どおおおんっ
『?!?!?!?』
『~~~~~~~』
爆音とともに、ゴブリンたちが吹き飛ぶ。
『!!!!!』
『~~~~~』
ぎえーぎえーと怒りと混乱の音を立てながら、ゴブリンたちが叫び、家の中からや他の場所からもわらわらと集まってきた。
爆発の中心地はまだ土煙で覆われている。
しかし、知らぬ敵が現れたことを把握している彼らは、場をぐるりと囲って、いきり立つ。
ぎえーぎえーと獰猛な声が響き、嗤っている。
今か今かととびかかる機会を狙っている。
その時―――一閃。
完全に包囲された中、土煙の中から、白刃の光が一閃した。
『へぶっ!!』
『!!!』
顔が変形するほどの打撃を受け、ゴブリンたちが吹き飛んでいく。
土煙が晴れた。
その中央には、仁王立ちのルシア。
その手には、漆黒の鞘に身を包んだ剣が握られ、もう片方の腕には、金色の髪をした子供を抱えている。
「いいか。私はな」
ルシアの冷たい瞳が、ゴブリンたちへと通告する。
「ルール―(ルシアのルール)を守らない者は殲滅して良いと決めている」
なんといっても、ルシアとて、所詮はあのマーガレットの血縁者である。
常識人として誇りをもって生きているが、ルシアが定めた圧倒的倫理。それを超えるものには、手を下す。覚悟と傲慢さを、とっくに確立している。
「———さあ、教えてやろう」
圧倒的な魔力が、弱きものを圧迫する。
マーガレットの魔力が、ただ存在するだけで、ルシアを潰そうとしたように。
「お勉強の時間だ」
ルシアは、嗤った。