第九話 “悪意なき告発”
満月の日は、神気楼樹の霧が薄くなる日だった。
つまり霧は森の外周部に展開するだけで最低限の防御力に落ちている。消えた霧は森の中央部に集合し、巨大な天使を形成していた。そこで彼もしくは彼女が何をしているのかは――――誰も知らない。
「・・・ふ、ふふっ。ふふふっ」
生まれて初めて炎を見たような顔だった。興味本位で触ったら火傷をして、それでも新鮮な痛みを喜ぶようにミエーレが笑っていた。
「シャルティ!」
「・・・え、ってわわっ」
チリン、清涼な音がした。
それは銀の軌跡を引いて、シャルティの手にスッポリ収まる。
「え・・・これ、なんですか?」
「あげるわっ!成人でも大人でもどっちでも良かった。ええ、お祝いよ!」
霧で薄まった月明りに透かしてみる。
チリン、小さな月色の鈴だ。
どうやら森にはない金属で出来ているらしい。
「あなたはあなたらしく、ね。嫌なことがあったら鳴らしなさい。月はいつでもそこにあるから」
ミエーレは悪戯っぽくウインクして、おやすみと言った。
「あ、はい。ありがとうございます」
よく分からずに、申し訳程度の感謝を告げる。
鈴は紐で繋がれていて、どうやらネックレスらしい。試しに首から下げてみる。
・・・・・・。
なんだこれ。やっぱりよく分からない。
「・・何に使うんでしょうね」
チリン、鳴らしてみる。
寝ぼけた頭に凜と染み渡る音だった。決して不快なわけではなく、ささやかに、うるさ過ぎず、それでも確かに存在を主張する。
そういえば霧の森は物資不足のため、モノらしいプレゼントは初めてのことだった。
「・・・あれ?」
どうしたのだろう、胸が熱い。魂に火が灯って、息が蒸気に変わったようだった。
チリン。
「・・・あれれ?」
頬が痛くて触ってみると、筋肉がふにゃふにゃとだらしなく緩んでいた。
チリン。
足が浮いて、体が軽い。
いつしか歩みはステップに、ステップは疾走に、疾走は全力疾走に速度を上げていた。次から次へと湧き出してくる熱が、勝手にシャルティの足を動かした。
――――なんだこれ、まったく。お姉さまったら、まったく!
「うぇへへへ・・・」
トイレなんてすっかり忘れていた。
「わぁぁぁぁぁぁぃぃいやったぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
どこまでも走っていけて、なんでも出来る気がした。
きっと人間は、元々そういう生き物なんだと思う。本当は誰にだって無限の可能性があるのに、様々な要因が遮ってしまう。
それは神で、天使で、獣で、魔女で、人で、国で、時間で、法で、死で、宿業だった。
どれも違う名前を持っているけれど、無慈悲に境界線を引いていくことは同じだ。煩わしいが、そういった枠組みがあるからこそ人を人に足らしめているんだろう。
ならば。もうこの世界に人はいないのかもしれない。
◆ ◆
「はッ・・・ひィ・・・・」
三十秒でバテた。
大声を上げながら全力疾走なんて土台無理だった。
「あ、はは、・・・・」
それなのに顔はバカみたいに笑い続けていた。自分でも、もう手に負えないと思う。
手を胸に当てれば、心臓が早く酸素を寄越せと暴れている。乳酸の溜まった足は、普段の十倍は重力を感じられた。それがどうしようもなく気持ち良くて、バカなことをしている自分に酔った。
走った影響で体は火照っているし、足は力なくふらつくし、これでは本当にお酒でも飲んだようだった。目を閉じれば、サァッと夜風が頬を撫でる。今は汗が冷えてゾクゾクする感覚すらも愛おしい。
「ふぅ」
大きく深呼吸して酸素を入れ替える。夜の空気が肺を冷やして、体全体へ徐々に広がっていく。酔い覚ましというわけでもないが、しばらく散歩でもして熱を冷まそうと思う。
「それにしても酔い覚ましと熱冷ましってなんか似てますね」
字も違えば意味も違うのに、症状や対処方法は同じというのが面白い。どちらも水を飲ませて寝かせておけば万事解決、弱っている嫌な奴に恩を売りつけるチャンスだよ!
どうでもいい思考をしながら、チリンチリン鳴らして徘徊する。
「あれ・・・」
落ち着いて周囲を見渡せば、そこは見覚えのある場所だった。
「ここ、ビックリ草の群生地のそばですね」
よくよく考えれば当然の話で、今日だけで二度もここを通っている。なるほど、足が自然と動いた理由にも頷ける。ふと、お調子者マウと歌好きミルの顔が脳裏に過ぎった。
「うん。ちょっと・・・行ってみますか」
体はすっかり冷めていてむしろ肌寒いくらいだったが、どうにも好奇心が上回った。普段と違って霧がない森は新鮮で、シャルティは浮足立っていた。
きっといないだろうな、とは思う。
わざわざ里を離れて、こんな辺鄙な場所で密会する理由なんて思いつかない。だって会うなら会うで、どちらかの家で会えばいいのだ。よっぽど温かいし、居心地もいいだろう。
だからいない。
はずだった。
―――――人は知るから悪に堕ちる。その観点から言うならば赤子以上の善はいない。もっと言えば、人は生まれてこなければ完璧だったのかもしれない。生きるということは、すなわち悪を知るということなのだから―――――
擦れる音がした。
荒い息遣いがした。
近付くに連れて、音はどんどん激しさを増していった。
何の音かは分からない。
シャルティはなぜか悪いことをしている気分になって、自然と息を殺していた。鈴をしっかりと握り締め、音が出ないように慎重に足音を潜め、四つ足歩行で闇と一体化する。理由は分からないが、その形がしっくり来た。
なんとなく、「マジマみたいだなぁ」と思う。
木立の先から、黄色い花園が姿を現す。
暗くて何も見えなかった。仕方なく木の陰から顔だけを出して、耳を立てて様子を伺ってみる。
――――ギギギギ。
金属に爪を突き立てるような音がした。
観光客が貴重な遺産に名前を刻むような音がした。
自分のおもちゃ箱を無断で漁られて、宝物を汚い手で触られるような悪寒が、背筋をそっと撫でる。
「ぁ・・・・・」
頭がクラクラして、手が冷え切り感覚が消えて、足が地面の支えを失った。魔法の言葉で隠されていた汚い世界が牙を剥いて、自分の常識を破壊していく気がした。
――――ギギギギギギギギギギ。
月光が差した。
夜のベールをゆっくり剥いで、花園を蒼く照らし出した。
ひらり。
消火菊の花弁が舞い散る。
サッと風が吹き、一気に視界が開けた。黄色い花で出来た絨毯はバージンロードのようで、霧の間から覗く満月は結婚式のベルだった。月光を浴びる花々は、キラキラと体を光らせて祝福する。そんな儚い美しさの中心に―――――。
獣がいた。
二匹の獣は、
「あ、」
戦っているのだろうか、
「あぁぁ・・・」
わからない、
「・・・おぇ」
わからない、わからない、わからない。
「ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――――――――――――――――――!!!!」
少女の声に、肌色の獣がビクリと震える。二匹はまるで怯えた人のような顔をして、慌てて声の発生源を見た。
―――チリィン。
場違いな鈴の音だけが虚しく響いた。
◆ ◆
「・・ひっく、うぅぇぇ・・・」
どこをどうやって帰ったのかは分からない。無茶苦茶に走り回って、気が付いたらミエーレとアイルの胸に抱かれていた。
そこにはなぜか泣き虫カールも、博識エキゾも、脳無しオシットも、のんびり屋リックも、イタズラっ子ポッドも、皆がいた。
――――二人を除いて。
どうやら、いつまでも帰ってこないシャルティを心配して、森の子を全員叩き起こしたらしい。事はもう大騒ぎになっていた。
「ね、どうしたの?」
ミエーレが頭を撫で、無理してあやすように言う。
シャルティは自分が情けなくて、次から次へと熱い涙が溢れた。涙がボロボロと流れる度に、比例して自分の中の炎が熱を失っていくように感じられた。せっかく体に宿ったばかりの炎が一瞬で涙に押し流されていく。
「ごめ・・なさぃ・・ないちゃ・・・わたしっ・・・・!」
もう、とミエーレが呆れてため息を吐いた。得てして、優しさだけでは足りないこともある。気を使った結果、相手を殺す優しい嘘がある。厳しさが心を癒し、断罪こそが人を救うこともある。
そして自分を偽ることを止めた。
「・・・なんで泣いてる側に謝られるのかしら。でも、そうよ。大人とか子供なんて関係ない、そんなことは理由にはならないわ。確かに泣くことは悪いことではないし、涙は弱者の武器よ」
でも、と。
だから、と。
「あんたには要らないでしょう」
右目をウインクさせ、底抜けに明るく言ってのける。
シャルティはその意味を十全に理解することが出来なかったし、ミエーレが何を見出したのかも分からなかった。だが最後に残ったちっぽけなプライドが、失望だけはさせたくないと思った。
「・・・・はぃ・・・」
だから鼻水でグズグズにした顔で、一ミリだけ頷いておいた。
「よしいい子ね! さあ理由を話しなさい、キリキリ白状なさい。下らない理由だったら・・・」
耳は引っ張られたくないので、仕方なく答える。
「・・あの、ミルさんとマウさんが――――――――――」
森の子は全員そろっていた。
霧も聞いていた。
それは悪意なき禁忌の告発だった。
◆ ◆
霧の森、禁忌四カ条。
第一に、自他に関与する徒な傷害を禁ず。
第二に、境界外への出入りを禁ず。
第三に、肉の摂取を禁ず。
第四に、性交渉を禁ず。
以上悪しからず。
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