第八話 “灯火”
『三人の姫君』
昔々、あるところに。
まだ魔女が蔓延していた頃、三人の美しいお姫さまがいました。
長女が、砂糖。
次女が、シロップ。
末女が、蜂蜜。
彼女たちには神聖な力がありました。
王は姫を溺愛し、蝶よ花よと育て、ただ甘くあることだけを求めました。それ以外は必要ありません。だって味が変わってしまうでしょう?
こういうものは、なによりも純度が大切なのです。
でも満足でした。
愛していたから、愛されていたから。
幸せでした。
ですが、栄華を極めた王国に一条の影が差します。
仲間を駆除されたことに怒り狂い。
悪い悪い魔女が、流行り病を作り出したのです。
それは墓穴からやってきました。
風に乗り、人から人へと伝染し、幾万がバタバタと倒れました。
バタバタ、バタバタ。
それでも墓穴は埋まりません。深淵には満腹がないのでしょうか。
長女は嘆きました。
罪なき民の犠牲を。
だから墓穴へ飛び降りました。
いつしか深い悲しみは涙となり、砂糖の体をグズグズに溶かしました。
その塩っぽい砂糖水が墓穴を清め、天国の門が生まれました。
次女は猛りました。
罪なき姉の犠牲を。
だから魔女を壊しました。
いつしか深い怒りは笑みとなり、赤いシロップが国中をビチャビチャに染め上げました。
こうして無数の魔女から力を回収したことで、彼の姫君は唯一の神様になりました。
神様は慈悲深く、国中に分け隔てのない加護を与えます。
民には無限の生を、魔女には一瞬の死を。
天使よ来たれ、現世に五つの天国を創造せよ。
かくして。
――――人は死ななくなりました。
最後に、末女はなにもしませんでした。
バカみたいに王の言い付けを守り、ただただ甘くあり続けました。一人だけなにもせず、なにも出来ない独りになりました。
◆ ◆
「そして蜂蜜は腐りました」
夜は深々と静かに、肌寒い夜風が霧を掬う。
ミエーレが締めの一言を告げれば、肺から生温かい吐息が漏れ出でた。まるで命が空気に淡く溶けていくようで、年甲斐もなく感慨に浸ってしまう。
もったいない、と思うのは自分だけだろうか。
肌寒いといっても吐息が白く染まるほどではなく、透明な命の軌跡は触れることも叶わない。放っておけば、熱は勝手に霧散してしまうのだろう。いくら惜しんでも、名残惜しく手を伸ばしても、温かさの名残が指を掠めるのみ。
それは自然なこと。あるべき世界のルール。
「・・・すぅ」
アイルの穏やかな寝息が聞こえる。
どうやら御伽噺の途中で眠ってしまったらしい。
涙の影響で顔が腫れていないだろうか。目を凝らしてみるが、表情の輪郭を捉える以上のことは出来ない。照明も月明かりもない以上、真偽を確かめる手段はなさそうだ。
願わくば、今だけは安らかに。
偽善を胸に秘め、少年の髪をそっと梳く。
「・・・・」
少女の寝息は聞こえない。呼吸音すらなく、そこにいるのかも確証が持てない。
ミエーレは整理整頓が好きだ。
同じものは同じ場所にあるべきで、境界線がなによりも大切だと考えている。
だが、いつからか歪んだ正しさを妄信する彼女がいて、それを正せない私がいた。
本当なら今夜―――――。
(なら、いっそのこと)
思うよりも早く、意味すら知らず、驚くほどに自然と手が動いた。自然と、為すべきことを為すように。定規で真っ直ぐな境界線をひくように。夜闇の中で、輪郭だけを頼りに右手が這う。
足、腹、胸、そして首。
止まった場所は、片手でも握り潰せる細さのソレ。
ゴクリ、ごちゃ混ぜになった黒い感情を嚥下した。たかが一滴の唾が喉を重く通り抜けて、胃液の海を震わせた。
「泣いたら、ダメ」
今―――――爪先が白い肌に触れる。
「お姉さま?」
開く瞳孔、夜闇に浮かぶ紅い満月。
「・・・・」
ギュウと、唇を噛み締めた。石のように強張った右手を、反対の手で無理やり引く。
ふと、ミエーレは勝手にピクピクと痙攣する喉に気がついた。再び精一杯の唾を絞り出して飲み込む。不思議と鉄の味がした。
どうして――――?
目を閉じ己に問いかけるが、内には闇が広がるばかり。自分のことなのに、答えはどこにも見当たらなかった。
「なぁに?」
それでも焦りを殺して、嵐の心は平静を装う。いつも通りの口調で、いつも通りの笑みを真似た。瞑目の果てには答えこそ見つからなかったが、それでも落ち着く効果はあったらしい。
「・・・トイレ、行ってきます」
寝ぼけたような、少し上擦った声。少女が慌ててもぞもぞと起き上がる。
「気を付けるのよ? もう真っ暗なんだから」
どの口が言っているんだろうか。ミエーレは年を取るごとに器用になっていく自分が嫌いだった。
「・・・はい」
身軽に寝床から跳ね、少女は逃げるように家を飛び出した。
一歩、二歩。少女の姿が夜に呑まれる瞬間――――霧を裂いて急ブレーキ。
おもむろに顔を上げ、指で指して、
「え。・・・あ、あれ!」
言う。
――――二つ。月があった。
空に蒼い月、地に紅い月。
月明りを全身に浴び、シャルティが丸い目を爛々と輝かせる。まるでスポットライトを独占する主役のように、さながら濃霧はスモークのように、ミエーレの視界には白髪の少女だけがいた。
他にはなにも映らない。なにも。
「うわぁ、うわぁ・・・・!!あれが・・・|月なんですか!?」
シャルティは潤んだ瞳で、興奮でウサギのように飛び跳ねる。今だけは、輝く主役を前にして霧は粛々と脇役に徹していた。
「うそ・・・」
それがミエーレには眩しくて、思わず目を細めてしまう。直視することは出来ない、だが目を閉じることも出来ない。だって、
「霧が・・・・」
晴れるなんて。
神気楼樹の眼であり、森を監視する万年霧。
嘘みたいだった。信じられない魔法のような奇跡だった。
いじらしく紅と蒼が乱舞する。くっついては離れて、離れてはくっついて、まるで初々しいカップルみたいだった。霧が光を反射して、幻想的な光のパーティーを演出する。
その中心でシャルティはクルクルと舞っていた。
◆ ◆
「わたし、思うんです」
濡れた息を吐いて、
「きっと『三人の姫君』は未完成なんです」
感動で心臓の震えが、
「だって」
声を震わせちゃって、
「良くも悪くも」
歯がカチカチ鳴るけど、
「物語の最後には」
涙を拭って、
「『おしまい』がなければいけないんです」
笑う。
滅茶苦茶だ。理論すら超越した暴論だ。
ああ理解した。紅い月なんかじゃない、あれは太陽だった。
「・・・終わっていませんよ。長女から次女へと進む間に、段々とすごいことが起きているんです。だから最後の末女は、それまでのすべてをひっくり返してくれるんです!」
シャルティの言葉には自信しかない。大言壮語、無知蒙昧の戯言、井の中の蛙、子供の夢物語。
穴だらけの暴論を切り捨てるのは簡単なことだった。
「どうして、分かるの・・・?」
しかし常識に縛られた反論は、シャルティの熱に焼き尽くされた。疑問を抱かせないほどに美しく残酷な炎。ミエーレが乾いた喉を絞り出し、ひび割れた声で問う。
だって、と片目を閉じて小悪魔的ウインク。
「蜂蜜は腐らないんですよ?」
やがて月光は霧に閉ざされた。境界線は引かれ、夜は夜に、あるべき姿へと回帰する。
魔法のような奇跡は、夢から覚めるように一瞬で消え去っていた。
だが。炎は今、燃え始めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
霧の森、禁忌四カ条。
第一に、自他に関与する徒な傷害を禁ず。
第二に、境界外への出入りを禁ず。
第三に、肉の摂取を禁ず。
第四に、性交渉を禁ず。
以上悪しからず。