第五話 “少女の夢”
泣き喚くポッドを前に、シャルティが右往左往していると―――――。
「こらーーー!!」
混沌とした空気を浄化する美声が響く。それは間違いだらけの世界で、確固たる正しさを確信出来る声だった。それは幼さと成熟の間で絶妙なバランスを保ち、空気を振動して背徳的な魅力を脳へ届けた。
「あっミエーレお姉さま!」
ミエーレは、シャルティの姉だ。
正しく泥中の蓮、この天国で三人しかいない穢れなき人間。
腰まで伸びた金髪は星の輝きを放ち、どこか手の届かない尊さを感じさせた。また瞳は晴天に広がる空の青さで、どこまでも澄み切っている。
見た目は少し大人びているが、まだ十二歳の女の子だ。
これで、もしもミルのようなかわいい眼窩があれば最高だったのになぁ、とシャルティは思う。だけど元の素材だけで、ミエーレは十分に魅力的だった。太鼓判だ。
だからミエーレは理想の姉で、憧れの存在だった。
そんな理想の姉が両手を腰に当て、眉を潜めている。怒りんぼミエーレだ。整った顔は怒りに染まっているが、それはそれで映えてしまう辺り、美少女はお得である。シャルティの独断と偏見だが、『森の子』で一番かわいいのは、怒りんぼミエーレと歌好きミルの二強だと思う。
ともかく。きっと賢い子なら異変を察して、言い訳の一つもしてみせただろうが―――。
「わーい」
シャルティは気にせず抱き付き、安心して全体重を預けた。すると甘酸っぱい香りが鼻孔いっぱいに広がる、『グリドンの実』だ。先ほどポッドも食べていたので、シャルティはすぐに分かった。
どうしてかは分からないが、『森の子』は『グリドンの実』を好んで食べることが多い。絶対に甘い方が美味しいのに、みんなは不思議だ。
「どうしてみんなは『グリドンの実』が好きなんですか?」
「・・・ねぇシャルティ。好奇心旺盛なのは良いことよ、私もそう思うわ。でも先に言うことがあるんじゃないかしら?」
ミエーレが笑顔でやけにゆっくりと言う。それは彼女が怒った時の癖だった。
「お姉さま、今日も笑顔が素敵ですね!」
「・・・誰が口説き文句を言えと言ったのかしら」
しまった。
「お姉さま、太陽が恥じ入るので笑うのは辞めた方がいいですよ?」
「あなたは自身の行いに恥じ入らないのね」
シャルティを受け止めた、ミエーレの腕はいつしか拘束具に変わっていた。ギリギリ。
「これは罠ですね、卑怯ですお姉さま!」
「自ら喜々として飛び込んで来たんじゃない…」
・・・・・・・。
「あ、分かりました。ごめんなさい!」
つい失念していた。確かにこれではミエーレが怒るのも無理がない話だった。
「そう、ちゃんと言葉にして・・・」
息を吸い、肺に新鮮な空気をいっぱい満たして――――――。
「ただいまです、ミエーレお姉さま!!」
「違う・・・・」
満面の笑みで、その言葉を口にした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「私が言っているのは、このお姉さまが言っているのは!どうして二人を泣かせたのかってことよ!」
ミエーレは背中に隠していた涙目のアイルと、哀れに泣き叫ぶポッドを指差した。もはや笑顔の内に秘めるでもなく、怒りを露わにしている。
シャルティは空に浮いた耳を搔いて、思考に更ける。
なるほど。
「これはこれは。お姉様ともあろう者が、天上におわす御仁が真実を見誤るだなんて信じられません。ですが完璧な人はいません、わたしが許してあげます」
「……」
口角を引き攣らせたミエーレは、頭痛を押さえるように手を当てる。さらに疲れたため息をして――。
「…じゃあまずアイルの件について。嫌がる彼を無理矢理説き伏せ、ネコ耳にした理由はなにかしら?」
「それがわたしの夢だからです」
少女は威風堂々、他人を憚ることなく夢を語る。いつしか年を取るに連れて失ってしまう、純粋培養の輝きがそこにあった。
「―――そう。あなたの夢ってなに?」
居住まいを正して、ミエーレの声色が変わる。十二歳の少女は真剣な大人の眼差しで、幼き夢の真価を計る。
「わたしの夢は、かわいいモノを作ることです!具体的には、理想の女の子を見つけて、最強のネコ耳美少女を作るのです!」
えへんと、満足気なシャルティ。
本当は「世界中の人の右目をくり抜きたい」という夢もあるが……。
以前ミエーレに伝えたら、なぜだか悲しそうな顔をされたので、シャルティは言わない。理由は分からないが、そう決めていた。
いずれにせよ――――例え怒られるとしても、自分の夢だけは偽れなかった。
しかし悪いことをしたら、ミエーレは必ず耳を引っ張る。怒りんぼミエーレの決まり文句は「悪い子は魔女に食べられるぞ」だった。
そんな風に怒った顔はかわいくないし、痛いのは嫌いだ。シャルティは、かわいいモノが好きなのだ。だから今回も体を竦めて衝撃に備える。目をしっかり閉じて、全身を硬直させ、歯を噛み締めた。
「?」
……来ない。
恐る恐る、右目だけを開いてミエーレの様子を窺う。
「その女の子はこの森にいた?」
「――――」
聞いたことのない、優しい声だった。それは何もかもを許す危うさで、触れれば壊れてしまいそうな、すべてを白に染め上げる笑顔だった。
どうして怒らないのか、どうして笑うのか。
そんなとりとめも無い疑問だけが胸中を熱く燻っている。熱は内に籠るばかりで、酸素を求める魚のように口を開閉させることしか出来ない。やがてミエーレの表情はボンヤリと霧に隠れて朧気にしか映らなくなった。
「……いえ、いいえ。まだ、いないです」
確信なんてどこにもなかった。理由だって曖昧模糊としている。
でも分かる、直感だ。
――――わたしは、まだ宿業に出会っていない。
ミエーレが気の抜けた声で「そっか」と言って空を眺める。まだ見ぬ森の外を、透明な顔で見つめていた。
シャルティが釣られて顔を上げれば―――――どうにも重苦しい霧が煙っていて、空はどこにも見当たらなかった。
自由なる青は灰に染まり、気体であるはずの霧は鉄に変貌して全身を重く圧迫する。今や霧は外敵から守る柵であり、内敵を拘束する檻に見えた。
「今夜ね、話があるの」
ミエーレの透明な声に無言で首肯する。
横目でチラと目を細めると、そこには今まで見たことがない大人びた少女の微笑みがあった。星の輝きを放つ金髪に、晴天の碧眼。『霧の森』に住むシャルティは星も青空も見たことがなかったが、それでもミエーレを知っていた。だからきっと、どちらも綺麗なモノなんだろうと信じられた。
また整った顔はさらに美しさを増し、凛と背筋が伸びた姿は傾国の姫君のように見えた。ゴシゴシと目を擦って再確認するが、それは見間違いでも幻覚でもなく、確かにミエーレ・クーレ本人だった。
知らない顔を見るのは何度目だろう、とシャルティが感慨に耽る。なぜ今日に限って、未知の出来事が重なるのか。わたしは一体、彼ら彼女らの何を知っているのだろうか。不思議と今の内心を形にする言葉が見つからなかった。
(・・・・・・)
いつしか心までが曇ってきて、シャルティは自然と三者の言葉を思い出した。
ミルは言った。
森を出るべきだと。
ポッドは言った。
森を出るなと。
ミエーレは許した。
是非の決断を。
きっとそれらの見解は、どれもが正しくて、どれもが間違っているのだろう。正しさの基準なんてものは空想の産物だ、形而上の夢幻だ、世界のどこを探したって見つかるはずがない。――――それこそ、天国でもなければ。
否、もしかしたら天国にだって・・・・・。
どちらにせよ決めるなら早くした方がいい。宿業はいつだって突然で、待ってなどくれないのだから。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
霧の森、禁忌四カ条。
第一に、自他に関与する徒な傷害を禁ず。
第二に、境界外への出入りを禁ず。
第三に、肉の摂取を禁ず。
第四に、性交渉を禁ず。
以上悪しからず。