第十九話 “始まり”
少年が怒り、少女が泣く。
狂気は砕け散り、夢は形を作り、ここから道は始まる。物語が――始まる。
「・・・kyakya,kyakya,kyakyakaykyakya!」
歯茎蜘蛛の腕が唸り、頬を掠り薄皮を削ぎ落す。ジンジンと火傷をしたような痛みがした。
でもへっちゃらだ。どんなに大きな傷だって、言葉が与える傷には及ばないことがある。今の世界は二人だけの独壇場、邪魔者には一瞥もくれない。
「KyahaaaaaaaaaaaaaaaaA―――――――!!」
歯茎蜘蛛の歯が床に接着、そのまま空間ごと呑み込んで突っ込んでくる。
一刹那で全身が腐った魚の匂いに包まれ、すでに目前には真っ赤な口内しか映らない。両足が柔らかい舌の上に乗せられる。もはや数秒後には壮絶な死が待ち受けている。
「……ぐす」
涙を拭い、目瞑して己に問いかける。
答えはまだ見つからないけど――――せめて探しに行こうと思う。もちろん情けない話だと理解している。だがシャルティは一人だと寂しくて、隣に誰かがいて欲しくて、出来ることならそれは。
「・・・一緒に、来てくれませんか?」
「――――」
「私を、手伝ってくれませんか?」
「――――うん」
「また・・・バカなわたしを助けてくれませんか?」
「昔からそうじゃないか。シャルがバカやって、ボクが乗っかって、最後にミエーレさんが怒る。何も変わらないよ」
「――――――はい、はいっ・・・」
「ほら。やっぱり泣き虫シャルティだ」
「ぅえ・・・」
涙を拭いては流れ、止めどなく溢れてくる。いつか強くなりたいと願っているのに、すぐに弱い自分が顔を出す。それでも涙は甘さを失っていた。
「さようなら。森の“わたし”」
別れの挨拶を機に、“おはよう”とばかりに髪に埋もれていたネコ耳が跳ねる。奥に仕舞われていた爪が顔を出す。尾骶骨が伸びて肉が付随することで白い尻尾が生える。まだ生え変わっていない小さな八重歯が伸びる。炎のように赤い赤眼、その丸い瞳孔が針の細さに狭まる。
「ガ、グギ――――――ニャ、アアアアアア――――!!」
ギチギチ、ギチギチ。全身の筋肉が歓喜の悲鳴を上げた。変化は一瞬で完了する。そこには一匹の白ネコがいた。耳だけではない、シャルティの姿はさらにネコとしての特徴を増していた。
「お帰りなさい。本当の“わたし”」
言葉を置き去りに、ヒュンと鋭い風切り音がして歯茎蜘蛛の舌がひしゃげる。
「・・・kya?」
すぐさまギロチンのように重い歯が落ちて来る。上下から閉じる歯が外の世界を遮断して、視界が黒に染まる。完全に口が閉じられるまで、幅はあと50センチ。
「シャル・・・っ!?」
「――――――よゆーです、絶好調なんですよわたし?」
不安げな声を、満面の笑みで黙らせる。シャルティはアイルを抱えた状態で、足場の悪い舌上を風のように走り抜ける。手元の少年が息を飲み、普段とは細部が異なっているシャルティの体に気が付く。
あと40センチ。
まさにこれ以上ないシチュエーションではないか。逆境なんて笑い飛ばしてやればいい。友に頼り頼られ一喜一憂、暗い森を出て明るい世界へ―――――。
あと30センチ。
「にゃああああああああああああ――――――――!!」
あと20センチ。
もう大人では入らない隙間になっている。子どもの頭でギリギリ通るかという境界線だ。最後に右足を全力で蹴り抜いて、飛ぶように跳躍する。
――――――ガチン!
チッ、と足の爪先が焼けるように擦れる。
「抜け・・・・」
「・・・・・たぁっ!!」
そしてシャルティとアイルは浮いていた。投げ出された空中は、とても受け身を取れる体勢ではない。
「にゃ!?」
「ぐぇ」
汚い池の中を無様に転がり抜ける。
転がっていた鎧に衝突して静止。しばらく使っていなかった体の機能は酷く劣化していて、酷使した足は節々が痛んでいた。コンディションは最悪だ。
「助かっ・・・」
「―――まだです!!」
アイルを引っ掴んだ瞬間、歯茎蜘蛛が噛み締めた歯応えの差に気付いて再び大口を開く。
「・・・・・・kyaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!」
癇癪を上げる子供の声から、怒り狂う女性の金切り声へと変成した。六本腕が滅茶苦茶に蠢き、腕と腕が絡まって減速しながら突進する。スピードは格段に落ちているはずなのに、その狂気はより一層深まっているように感じられる。
「すごいっ。シャル、速い・・・!」
「ねぇアイルアイル」
シュッと、通り過ぎた足元の水を水蒸気に変えて走る。歯茎蜘蛛が水を叩き潰して走る超長距離用のフリースタイルなら、シャルティは洗練された超短距離用の競技スタイル。足の長さは違えど、その速力には明白な差があった。
・・・・そう。残念なことに明白な差があるのだ。
「うん?」
「体力切れましたー。にゃははは!」
「いや・・え?・・・うわっ!?」
短距離ならぬ超短距離。この体の消費カロリーは異常であり、子どもの体力は一瞬で尽きた。だから二人は仲良く前傾姿勢で盛大にすっ転んだ。もう顔面から唾液の池にダイブだ。これが本当のフルダイブか、絶対違う。
「あ、これはもう一歩も動けないやつですにゃー。いやぁどうでしたかわたしの速力?」
「がっかりさんだよ!」
・・・がっかりさんだった。
「バカ、バカバカ、ミディアムばかーーー!!」
体が背負われて、泣き言を言いながらアイルが走り出す。迫る迫る迫る。せっかくシャルティが稼いだ距離が瞬く間に詰められて、背後から破壊の雨が降り注ぐ。
だが希望はある。円形ホールを抜けて通路にまで逃げ込めば、縦三メートル横五メートルである歯茎蜘蛛の巨体では干渉出来ないはずだ。それはそれとして。
「・・・そのミディアムって中途半端みたいでイヤなんですけどにゃ」
「まったくもってっ、そのっ、通りっ、でしょっ、ぜぇ・・・ぜぇ」
せっかくなので全身の力を抜いて脱力する。小さくて肉付きの薄い背中は揺れるし乗り心地は最悪だった。しかも盗賊が町娘を攫うような体勢なので、歯茎蜘蛛の様子が良く見える。何だこの乗り物最悪じゃねぇか。
「足遅いですにゃー」
「うるさい、なぁっ・・・! っていうかっ、なにその語尾っ、ぜぇ・・・」
「?」
語尾? シャルティが訝しげに三角の耳をぴくりと震わせる。案外自分のことは自分では分かり難いものだ。なにか普段と違うだろうか、シャルティが首を傾げる。
そんな問答を無視して、彼我の距離は秒ごとに詰められていく。やはり普通の子供の足では振り切れる速度ではなく、荷物を抱えている状態ではなおさら不可能なようだった。
距離はあと数メートル。その時、歯茎蜘蛛の前足二本が流れる白髪を擦った。巻き上げられた汚い水飛沫が顔を洗う。
「ぎにゃっ。ちょ死にます死にます・・・・!」
「はぁはっ・・・あと・・・三歩!」
「後ろ、後ろっ」
先に避難していたポッドが警告すると同時、スッと影が差す。シャルティとアイル、丁度二人を覆うサイズの巨影だ。それは射程距離に入ったことを示していた。頬に落ちた雫に肩を震わせ、恐る恐るアイルが振り向く。
「「―――――!!?」」
「Kyaha!kyakya・・・・・!」
この化け物に表情があるのなら、きっと歯茎蜘蛛はニンマリとほくそ笑んでいた。分泌される唾液の量が一気に増して、滝のように垂れ流される。
(あと、ちょっとなのにっ・・・)
「ああ射程距離に入った―――食らえ」
ポッドが左足を弓のように弾き絞り、大きな一歩が踏み出され、付随して体が捻り、力が余さず指先に籠り、それは飛んできた。
「まーじまーーーー!!?」
美しいピッチングフォームだった。
「「えーー!?」」
見慣れた黒ネコが空を飛んで、歯茎の口に吸い込まれていく。
あ。食べられた。
「ほらさっさと走って下さい。マジマさんが美味しく食べられてる間に」
「二人とも早くしろっ! マジマの犠牲を無駄にするな!」
「キミら鬼なの!?」
「じ、まーじじじじーーーー!!!」
死んで堪るかとばかりに、謎の光を放出したマジマが高速回転して加速する。開きっ放しの口を抜け、狙いは違わず口蓋垂にぶち当たった。喉の奥でぶらぶら下がっている、名状し難いアレだ。
「―――kyaa!?」
「あれホントに効きましたね」
「我ながら驚いたな」
「いやなんか光ったよ!? マジマが回転する時不自然に光ったよね!?」
悶絶したように歯茎蜘蛛の動きが停止する。ネコの子のように首を掴まれて、シャルティは通路の中ほどで降ろされる。
「じっじっまじっ、じじじーーーー!!」
「あ、お帰りなさい」
マジマは一瞬で口内を身軽に飛び跳ね脱出、シャルティの腕に落ちてきた。
臭かった。
「――――――kyaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!!!」
かつてない怒りの咆哮に魔女の家がビリビリと揺れる。歯茎蜘蛛にとっては広いホールが居住地であり、間を繫ぐ狭い道を通ることは叶わない。
「わわっ。でも、大丈夫です・・・・よね、んにゃ!?」
「いや・・・嘘だよね」
「おいおいおいおい、おいっ!?」
「kyaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!」
何度も何度も、地震が起きた。
山のような巨体が、盲目なまでに通路へと体をぶつけ始める。飽きることもなく肉を削り続ける。柔らかい歯肉が傷ついて流血しようとも自傷行為を諦めない。
「kya!? kya,kyaaaaaaaaaaaaaa!!? kayaaaaakyaaaaaaaaaaaaaaaaaa―――――!!」
目の前に獲物がいるというのに食べられず、どんなに走っても届かない。これは歯茎蜘蛛が初めて味わう屈辱だった。無理解の奇声を上げ、何の意味もない威嚇を振り撒くことしか出来ない。
人を喰らって成長を繰り返した化け物はどこにも行けなくなった。この広くも狭い、何もないホールだけが生きられる世界。当然だ、徒に生命を弄繰り回せば必ずどこかで不都合が出てくる。
「―――それが肥大化した末路、存分に孤独を味わうといいです。わたし達全員の勝利ですにゃ!」
勝利のVサイン。
我ながらすごく格好いいことを言ってしまった。いや命辛々逃げ延びただけなんだけど。
「ねぇシャル・・・。さっきから気になってたんだけど・・・」
「はい?」
「「にゃ?」」
声を出す度に生まれる悪循環に気付いて、ピンと尻尾の毛を逆立てる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。いや待って違うんですにゃこれは勝手にですにゃ不可抗力というかにゃ、にゃーーーーーーー!?」
“うー”と唸り、シャルティが顔を真っ赤に染め上げる。それはまるで、年相応の普通の少女のようだった。
そして狂気に歪んだ少女は、ただの少女になった。罪を犯し、姉がヒビを作り、友がぶち壊し、輝く夢を見て、善も悪も呑み込んで、ようやくシャルティ・クーレは人間になった。
ネコ耳っ娘をどうすれば可愛く書けるのか。
ウケを考えれば最初から押すべきですが、あざといのはダメだと思うのです。とはいえ過度の描写もNG。という訳で出来るだけ描写を押さえて、血反吐を吐いて温存しました。
あくまでもスパイス。物語の進行によってさり気なく見えてくる位がちょうどいいのでしょう。
そして今、制限は解けました。やっと・・・・!
書きます。めっちゃ書いていきます。よろしくお願いします!