第十七話 “プロローグⅠ”
「―――Kya?」
咄嗟に押し殺した悲鳴に反応し、玩具のように大きな耳がピクリと動く。緩慢な速度で六本の腕が蠢き方向転換。歯茎蜘蛛が振り向き、濃厚な唾液が床を汚す。
「……!?」
互いが互いを認識して睨み合うような一瞬、空気が停止する。僅かでも変化を与えた瞬間に、この均衡が崩れてしまうと簡単に予想できた。
「………」
歯茎蜘蛛は動かない。こちらを向いたままの形で唾液を垂れ流して、いつまでも不気味な沈黙を保っている。恐らくアレは耳を澄まして、虎視眈々とこちらの様子を伺っているのだろう。
乾く下唇を濡らして、音を立てぬようにジリジリと踵を後退させながら間合いを推し量る。
大丈夫、アレに目はない。恐らく存在は認識されたが、さすがに位置までは特定されていないはず。そもそもあの巨体では円形ホールを出られないのだから、息を潜めてこのまま通路に戻ればいい。
それは常識の範囲では正解だった。
「…Kya,kya――――――――――!!」
ダァン! と唐突に前腕が鉄製の鎧を踏み砕き、血と唾液の池を叩き潰す。一拍置いて、空に舞った汚い分泌物がホールの全体に雨となって降り注いだ。酸性雨など比較にならない災厄の雨だ。
「・・・・・!?」
両目を瞑り体を硬直させると、すぐさま滝のような雨が次々と体を殴っていく。数秒置いて、恐る恐る片目を開けてみる。
うわぁと思った。
周囲には吐き気がする悪臭が霧になって立ち篭め、黄色い液体に白い肌が穢されていた。腰まで伸びている長い白髪は水分を吸って、普段の何倍も重く感じられる。
服も汚水が浸透して重さを増し、頭から足まで濡れてしまった。耳の奥に入った水に不快感を感じ、思わずシャルティは眉根に皺を寄せてしまう。
だが声は出せない、大きく身動きも取れない。今すぐに耳を震わせて水分を飛ばしたいところだが、そんなことをすれば一瞬で感知されてしまうだろう。
・・・・雨、水滴、音、耳?
単語の羅列が思考を駆け巡った。
「・・・・・・・」
歯茎蜘蛛は再び停止している。あの雨は獲物が見つからずに焦れた結果、闇雲に放った一撃。そのはずだ。だが意味のない攻撃だったにしては妙に理性的というか、雨が降り終わるのを待っているような――――。
「きひっ」
「・・・・っ」
先程までの音が咆哮だったとしたら、今の音は紛れもない声だった。どこかで聞いた、明確に悪意を伴った人間の声に似ていた。まさか……。
―――焦らすように一歩が踏み出される。
歯茎蜘蛛の耳が捉えたのは、二つの雨音のズレだ。平地である円形ホールの中、ちょうど人間一人分高いところで雫が弾ける音。そして体からポタポタと滴り落ちる音。
―――嘲笑うように二歩目が踏み出される。
この暗闇の世界において、耳は口ほどにものを言う。暗闇に適応した生物に知恵比べを挑む愚かさを、シャルティは今更になって理解した。
「kya・・・・kaya、kyakkyakaykyakya――――――!」
三歩目と四歩目はほぼ同時だった。六本腕が唾液の池を叩く度に、二メートルも水柱を巻き上げながら走り出す。六本の腕は互いに絡まることなく務めを果たして駆動し、速度をグングンと上げる。
「・・・下がれ。下がれ下がれ下がれ下がれ下がれ・・・・!!」
遠ざかっていくポッドの乾いた声が聞こえる。
だが性能が良すぎる鼻は、強烈な匂いを直接脳内に運んだ。内から蝕まれるようにシャルティはふらふらと腰が抜けて、足は棒のように震えてしまう。視界の端で破壊の雨が降り注いでいるのに、夢でも見ているように現実感がない。
「シャル・・・・っ!」
「な、なんで・・・・! 動け、動いてくださいよっ」
歩き方を知らぬ赤子のように床を捉えることが出来ない。当たり前のことが当たり前に出来ない。シャルティは簡単なことを難しくやろうとしていた。
「早く・・・・!」
「わかってますよ! でも・・・動かないんです。あの時からずっと溺れてるんですよ、心がっ!」
「おいおいおい、何やってんだお前ら!?」
脳裏で今回の件とミルの件が連想付けられていく。恐怖が恐怖を呼ぶ負の連鎖だ。
生きる為に生きる。すなわち生存競争とは動物の宿業だ。他を蹴落として繁栄することが人類の営みだ。それは大層な御託ではあるが、決して犠牲の理由と意味を説明するものではない。
もし理由があれば気が楽だった。ミルの犠牲が意味あるものだったなら、自分に言い訳が出来た。仕方ないと諦められた。
でも違う。
ミルの犠牲にはなんの理由も意味もなかった。これは無知が招いた告発だ。真実を暴くことが、必ずしも正しいとは限らない。優しい嘘だってある。愛を守る為の嘘だってある。
「うぅぅ・・・・」
近づいてくる怪物を見ながら、刻一刻と迫る死を俯瞰しながら、シャルティは一人思う。わたしは生きていてもいいのだろうか?
他人を踏みつけてまで幸せを享受することに意味はあるのだろうか。恐怖が生を刺激して、想起された罰が己を縛り、濁った自意識が溺れて行く。
凡百の救いなど求めていない。欲しいのは断罪だけだ。だからシャルティは諦めることにした。なにが『人を馬鹿にしないでください』だ。そもそも人を陥れたのは自分ではないか。責任転換にも程があるだろうに。
「わたしは・・・いいです」
「なっ、なにが」
「これは罰なんですよ、だって悪いことしたら・・・罰が当たるんです」
「なんで今っ・・・いいから、ほらっ!」
どうして人は簡単に強くなれないんだろう。反省した失敗を繰り返し、絶対の覚悟は鳴りを潜め、約束の一つすら満足に果たせない。いとも容易く恐怖に沈み、他者の期待を盛大に裏切る。
強くなった気になっても、その実、この通り何も変わってやしない。結局は知った被っているだけで、見て見ぬふりをしているだけだ。残酷なまでに人間の本質は不変だ。
「ねぇ…頼むから」
「……」
以前のように手を引かれても体は石のように動かない。意志は石のように溺れて行く。
「~~~~~っ。ああくそ」
……ああ。これでようやく自分なんか置いて、逃げてくれるはずだ。誰しも命は惜しい。こんな面倒な人間には愛想を尽かして当然だ。そしてようやくシャルティは笑えた。
「――――――」
「・・・・なんで」
ぎゅうと、手が握り締められる。笑顔は笑顔のまま、シャルティの時間までが止まる。
「いたい、です。早く逃げなきゃ、ダメじゃないですか・・・・」
鎧が砕ける破壊の音を聞きながら、ずっと重ねていた我慢に耐えかねたように、無二の親友はガシガシと柔らかな茶髪を掻き乱して爆発した。
「一つ、文句があるんだよシャルティ」
「・・・・・」
それは今言う必要があることなのだろうか。吐瀉物の波に晒されながらシャルティは両手で顔を掴まれ、無理やり目と目が合わされる。
「ずっとずっと。誰よりも近くにいたから分かる。シャルはバカだ」
「・・・は、あ?」
予備動作ゼロ。怒ったミエーレがするように、両耳が引っ張られる。
ぐいぐい、ぐいぐい。まるで溺れた人を助けるように。
「ちょ・・いっ!?」
「・・・今、答えが見つからないなら、そんな難しいこと後で考えればいいだろ」
まさに目と鼻の先で茶髪の少年が静かに猛る。
なにを怒っているんだろうと、思う。いつもの口調を崩してまで、緑の瞳が厳しい視線を投げかけている。鈍痛が脳の働きを邪魔して、情報が上手く処理出来ない。
「いつから・・・いつからそんなに良い子ちゃんになったんだよ。良いことだけをしていれば正しくなれるとでも思ってるの?」
「・・・・・」
「潮らしく黙ってないで無知が悪かったなら死ぬ気で知っていけよ! 悪い所があるなら直していけばいいじゃないか!」
「・・・もう。遅いんですよ・・・」
侵した罪からは逃れられない。過去を変えることは出来ない。もうミルはいない。正しかったシャルティ・クーレもいない。
「全然遅くない、今から救えばいい!」
「どうやって、方法は・・?」
「そんなの知るか」
「・・・な」
“やれ”と言っておいて、その方法は“分からない”と言う。
それを人は無理難題というのだ。
「無理かどうかはどうでもいい。ボクがしているのは、助けたいと思っているかどうかの話だ」
そんなもの決まっている。
「・・・死にたくなるくらい助けたいに決まっているじゃないですか!! 他人の、くせにっ……!アイルなんて……他人のくせに! 答えもないくせに、勝手にわたしの問題に口を挟まないでください!」
シャルティは絶対に言ってはいけないことを口にした。己の正義を守るために家族を否定した。自分で言ったくせに、心臓に針金が刺さった気がした。
「・・・ああっ! わざわざ他人のボクが、お前が、嫌いだから。教えて上げてるんだよ、感謝しろよ!」
「上から目線で偉そうなこと言わないでください!」
すぐそこに危険が迫っていることで、理性の歯止めがバカになっている。これでは滅茶苦茶だった。理論も何もあったものではない。ただの感情論だ。
「ああそうさ、罪悪感は感情論だ。蹲っている余裕があるなら動けばいい、罪があるなら自分を傷つけるよりも全部を救ってバカみたいに笑って見せろよ!」
「・・・ぅぅ」
無理を無理なまま笑い飛ばせと言うのか。罪を抱いたまま悪を偽り、己の正義を為せというのか。
「―――そんなの間違ってます!」
自分の中で燻る、幼い正義が声高に叫んでいる。正しさは善によって行われるべきで、罪を清算しないまま前に踏み出すのは間違っている。人は完璧にならなければならない。
これが歪んだ少女の正体。ミエーレでも除去し切れなかった、正しさという名の毒だ。最初から、呪われたようにシャルティは正しさに憑りつかれていた。
本当は疑問に思っていた。
なぜ霧の森には子供しかいないのか。なぜ森の子は全員が右目を失っているのか。禁忌が持つ意味はなにか。
シャルティが好きな“かわいいもの”とは、そういうものだった。
その呪いは天国と“森の子”によって掛けられたものだ。彼らは世界の正義をまだ透明な子供に押し付け、“間違い”を“正しさ”に変えた。これが“かくあれ”と望まれた人形の末路だ。
「いいや違う!!」
叫ぶように声を大にして、否定する。シャルティはそんなものではないと、自己犠牲に逃げることすら許してはくれない。
「間違いのまま進歩しないことが『無知こそが最大の善』なんじゃないか!!」
「――――それ、は」
それは、かつて否定した言葉だった。
知らず知らずのうちに、“わたし”が否定したものに、“わたし”がなっていた事実に愕然とする。信じられないと思った。眩暈がして今まで築き上げてきた己の基盤が崩れていく音がする。
だから認められない。内から溢れる恐怖に身を震わせながら、シャルティは唇を噛み締め、無理矢理に怒りを燃料にして血を沸騰させる。
「・・・もう間違ってしまったわたしは生きるのが辛いんです、死んじゃいたいんですっ!どうして分かってくれないんですか・・・・?」
「ああ分からない。たった一回の失敗で、自己犠牲に逃げる偽善者のことなんか知りたくもない。少しはこっちの気持ちも考えてみろよ!」
悪いことをしたら償いたいと思って何が悪い。それこそ目の前の問題から逃げて何を成し遂げられるというのか。誰かを不幸のどん底に貶めてまで、生きていたくはない。
「ならどうしたら・・・・。わたしは、どうしたらいいんですかっ・・・・」
「だから自分で考えろって言ってるだろ!?」
額で鍔迫り合いをして、唾を飛ばして、肩を荒々しく上下させ、子供みたいに叫んだ。
『はぁはぁ』
誰よりも親しかった友が、今では世界中の誰よりも憎らしい。しばし息を切って互いに睨みつけて、次なる言葉の刃を砥ぐ。
「―――――禁忌から生まれる・・・・善だって・・・・」
「?」
少年の怒りが理性の皮を剥がして、悔し気な顔が露わになる。憎しみすら籠った視線の対象はシャルティであり、しかしシャルティではなかった。
長年の経験で、目と目が合っていても、少年の心がここにはないと分かる。シャルティの何かが琴線に触れた結果、彼は当て所もない漠然とした怒りに燃えていた。
「・・・正しい間違いがあって、間違った正しさがあって。天使が産んだ天国があって、魔女が育てる地獄があって、人が生きて。きっと世界には本物なんかなくて、偽善と偽悪しかなくて――――――」
「・・・ぁ、ぅ」
今すぐ否定しなければいけない。それを認めれば、自分が自分でなくなってしまう。なのに体は冷え切って、歯がカチカチとなるだけで言葉はちっとも出てこない。
ぐらぐら、ぐらぐら自分が揺れている。凝り固まった正義が悲鳴を上げている。
「それでも悪を悪のままにしなければ、いつか―――偽悪になる」
「―――ぁ」
乱暴な言葉が気遣うこともなく、心に絡み着いた矛盾を馴れ馴れしく紐解いていく。ポロポロ、かつて“わたし”だったものが涙になって剝がれ落ちる。
「あ、ああ、うああああああああああっ・・・・・」
頬に炎が落ちた。それが顔を伝って、全身に熱を運んでいく。満月の夜に誓った約束の炎が再燃する。本当のシャルティは死にたいくらいに生きたかった。
「ぅ・・・や、やめてください。もうっ、わたしを殺さないでっ・・・・!!」
「・・・生きるって死ぬことじゃないか。死んでいくから知っていくんじゃないかっ!」
幸せに生きる為に生きる。幸せに死ぬ為に生きる。
どちらが正しいのかは分からない。だが『無知こそが最大の善』という言葉が、生を否定していることは確かだ。例え永遠の生があっても、それでは生きた屍だ。人は生きているだけでは活きていけない。なんと面倒臭い生き物なんだろう。
「でもだからって・・・・嫌なことを後回しにするような、そんな逃げ道が許されるはず、ないじゃないですかっ・・・・!!」
「罪よりも知る努力をしろって言ってるんだよ―――――――――――!!」
初めて見る表情だった。感情を爆発させたそれは、隠されていた本音が多分に含まれているように思えた。だからシャルティも泣きじゃくりながら、少し考えてみた。生まれて初めて、他人を気にせず自分の言葉を探す。求められる自分ではなく、求める自分を。
自分がしたいことを。自分の責任を。本当の自分を。
「はっ、ふっ・・・ぅぅっ。ぅぅぅぅ・・・・!」
不純物を涙で流し切って、最後に残ったのはただの少女だった。そして化け物だったシャルティは人間になった。
「意固地になって難しいのを難しいまま解こうとするからバカなんだよ。どうせバカならバカらしく、難しいなら簡単な方法で解いてみせろよ・・・バカ」
「―――――」
一つと言った文句は、いくつもいくつも溢れてきた。涙もいくつもいくつも溢れた。そして夢よりも儚い一瞬を過ごした。
「わ、わたしは・・・・・」
善悪は正し過ぎて互いを否定する。全てを救うなら偽善と偽悪しかない。なら自分はなんだ、どうしたい、どうなりたい?
決まっている。そんなものは、最初から答えは決まっていた。
「・・・・わたし、は・・・死にたいくらい・・・生きたいんです」
「・・・わたしは。わたしと、同じような人達を助けたいです」
「ミルさんもマウさんも、人も魔女も天使も・・・世界もっ! 生きてっ、偽悪の味方になりたいんですっ――――――――――!!」
なにも特別な人間になりたいわけではない。ただ特別になれない人間を救いたいのだ。限られた人だけを救う天国が許せなかったのは、きっと無意識の内に自分に当てはめていたからだろう。
どんな世界にも馴染めない人は必ずいる。人に近付くために、正しさに憧れる人がいた。人が好きだから、人を遠ざける人がいた。人を好きすぎて、禁忌を犯す人がいた。
なるほど、世界からすれば彼らは悪なのだろう。だが悪だからという理由で正義を為せないはずがない。そんなことで終わりたくない。失敗しただけで失敗したくはない。
「・・・・嫌なんです。天国から溢れてしまった人達に居場所をあげたいんです。例え神さまが認めなくても、わたしが“あなたは間違っていないよ”と笑って許してあげたいんです」
それがシャルティの夢。かつて出来なかった偽悪の味方だ。この世界に真実がなくとも、間違いを正しさに変えることは出来る。そうしたいと、思う。
チリィン―――――。
奇跡の夜に聞いた月の鈴音が響く。
「―――そうですよね、お姉さま」
月は凛と鳴り、少女は炎の涙を流し、胸に夢を輝かせる。
偽悪もネコ耳も魔法もなく。
今はただの少女。
これは優しい地獄を夢見る、偽悪の味方の物語。
いつか世界を殺す日まで、きっと。
願わくば、彼女の偽悪が正義に至りますように。そんな訳で約62000字かかったプロローグでした。
評価ありがとうございます!