第十六話 “ストンの実”
時間とは残酷なもので。いつだって個人の意思に関わることなく進行を続ける。
では、もし。
それを選べたとしたら?
認識の問題ではなく現実的な問題として提起すれば?
大人になる道と子供になる道。いったいどちらが幸せなのだろうか。例えばそれを望む者がいて、例えばそれを実現する者がいて、ならばそれは誰が間違っているのだろうか。果たして、その行いを悪と断じること以上の悪があるだろうか。
きっと間違いを正すことは、間違いなく正しい。正し過ぎて間違ってしまう。
善よりも遥かに美しい―――偽悪だ。
◆ ◆
たっぷり三十分。
歯茎スライダーの間隔を観察した。結果は左が四回で、右が二回だった。
「これは、右の道だね」
「まぁ・・・気休めの範囲だけどな」
「行きましょうか」
当面の目的は、歯茎の化け物を避けながら奥へ進むこと。最終的な目的は、ミエーレを助けて森に帰ること。ならば出来るだけ危険を避けるのが得策と言えるだろう。
“ぐう”。
「あぅ・・・・・」
シャルティが桜色に頬を染める。
意気揚々と行動を再開した途端、出鼻を挫くようにして再び腹の虫が鳴いた。たった一つの“グリドンの実”では、小さな体が必要とするエネルギーにも満たなかったらしい。
「・・・はぁ」
ああ。こんなことになるなら、お菓子のひとつでも持ってくれば・・・・。
「そういえばマジマさんに食べられたんですよねぇ。わたしのストンの実も」
「じーま?」
ジーと恨みがましく睨みつけてやる。
思い返すのは、つい昨日の記憶。もう遠い昔のように感じられる出会いの朝。・・・なんだか考えてみれば、日常が崩れたのはマジマが来てからのような気がする。
「・・・まさか死神じゃないですよね」
「じっ!? まーじまじ。じじっまじじじまじまっ!」
「え?」
いったい何が琴線に触れたのか。
マジマが怒り心頭で毛を逆立て、一気にまくし立てる。普段から飄々としている黒猫にしては珍しく感情的な声だった。いや何言ってるかわかんないけど。
「どしたのポッド?」
「いや―――別に」
その様子を見て、ポッドはセピア色の光を懐かしむように目を細めていた。
「・・・? まあ、でも」
シャルティが話題を変える為に一旦区切って、言う。
「当たりですよ、この道」
右の道を選び、既に10分は経っている。
だというのに今までは5分のペースで現れた歯茎は、何時まで待ってもその姿を見せない。恐らくは左の道がハズレだったのだろう。その影響か、周囲に漂う刺激臭も徐々に薄れている。
「・・・代わりにいやーな鉄の匂いがするんですけどね」
しかし一度進むと決めたのだ。確証もなく、確かめもせずに、別の道を選ぶ訳にはいかない。だからワザと誰にも聞こえないように小声で呟いた。
その道は進めば進むほどに苔の数が増え、比例して光量が膨らんでいく。まるで危険信号を告げるように。
「まだ・・・けっこう薄暗いけどな」
「ですねー。まあわたしは夜目が利くので、もし真っ暗でも樹皮の流れのひとつひとつまで見れますとも。よゆーで」
「ほう。なかなかやるな」
「ええっ!? あ、ああそうですよそうなのですよ! 伊達にネコ耳をしていないのですよ! 諜報偵察なんでもござれ。万事このわたしにまかせてくださいね、ふふん」
驚いたようにポッドが褒めてくる。
やっと気が付いてしまったか、このわたしの有能さに。実はこう見えて、基本的な五感は他人よりも敏感で、瞬発力にも優れている自信があるのだ。
・・・デメリットはあるが。
そして道なりに進み、緩やかな曲がり角を抜けた瞬間。
「―――んなっ!?」
カッと、青い光が突き刺さった。
地上の光には及ぶべくもない微々たる量に、瞳孔の処理が追い付かない。
「ちょっえ見えないです見えないです。ねぇわたしの長所がさっそく行方不明なんですが」
「そっか。ごめん正直シャルのことはバカにしていたけど――――うん頼りにしてるよ!」
「いやホントごめんなさい一瞬で行動不能になったんですけど!」
目が機能を停止して脳が情報を拒絶する。手が泳いで、誰かの肩に寄り掛かる。
薬も過ぎれば毒となるように、その光は暗闇に適応した目の毒となった。世界が白一色に染まり、ジリジリと水晶体が焼けるような気がした。
「いや・・・そんな眩しいか?」
「なっなんで・・・! 大丈夫なんですかぁ・・・! ひゃあ!? なんか当たったんですけど! べちゃって言った!」
「あ。・・・」
「あ!? なんですか『あ。』って!? ねぇポッドさん!?」
「いや。胸張って生きろよ・・・!」
「あなたぶっ飛ばしますよ?」
左手が生温かいのはなぜだろう。いや気のせいだ。
鼻孔をくすぐる別段香しくもなければ芳醇でもない香りは気のせいだ。なんだか手がピリピリと痺れる気もするが、きっと気のせいだ。
気のせいが気のせいで、それもう気のせいじゃないじゃねぇか。
「聞いて・・シャル」
「あ、アイル・・・?」
動揺する心は、幼馴染の声を聴いただけで冷静さを取り戻す。やはり持つべきは友、友情こそが世界を救うのだ、一体なにを恐れる必要があろうか。
「大丈夫、ただの歯茎が残した黄色い唾液だよ」
なにがどうなって大丈夫なんだろう。さてはコイツはバカか? そんな風にどこかで冷静な自分が俯瞰していた。
「ひぃゃああああああああああああ!?」
恐い怖い。目が見えないから余計に怖い。
大丈夫? 手が焼けるような痛いんですけど。
「ああ、理解したよ。『無知こそが最大の善』、こんなのは間違っている。この世界はおかしいんだ!」
なぜに今気づくんだろう。
12話掛けたわたしの涙と成長の物語はなんだったんだろう。
―――それは幸か不幸か。
視界が奪われた影響で、ただでさえ敏感な神経がさらに敏感になっていて。だから聞いてしまった。
「―――――――――ぃぃ――――――ぁぁぁぁぁ」
遠くから空気を裂いて聞こえる悲鳴を。いや、音が曇っているだけで発生源は近い。
「―――――――ぃぃ――――――ぁぁぁぃぃぃぃぃ」
なんのことはない、目前の光の奥だ。
わざわざ耳を澄ませるまでもなく理解できる、明白な事実。
(まさか)
ウソだと思いたかった。この時ばかりは自身の耳の良さを呪わずにはいられない。
「え……シャル…?」
アイルの疑問を背後に残し、駆ける。左手の唾液をポッドに擦り付け、駆ける。
「ぐああ!!」
(まさか・・・・!!)
その声は女性のものだった。音が反射した影響で変質していて、どうしても判別は付かない。なにか障害物でもあるのだろうか。
右手で目をゴシゴシと擦り、ぼやける視界の中で光の先にひた走る。本能が叫んでいた。心が砕けそうになるくらいに暴れていた。そんなことはない、ありえない、と。
「ああああああいぃぃぃたぁぁぁぁいぃぃぃぃぃぃいいいいいいい!!」
恐怖はなかった。ただ焦りだけが体を突き動かし、早く確かめなければならないと思った。通路を抜けて全身が青い光に飲み込まれる。もう音はすぐそこから、それこそ痛いくらいに聞こえている。
「ってここ・・・・」
まず感じたのは、狭い通路が放つ圧迫感からの解放。次に鉄の匂いが全身を駆け巡り、最後に既視感がストンと腑に落ちる。辿り着いた先は、半径50メートル円形の木製ホール。
「最初の場所・・・?」
そこはシャルティ達が落ちた、魔女の家のスタート地点とあまりにも類似していた。だが何か・・・・違う。漠然とした違和感が喉奥で詰まっている。
「バカッ!! 伏せろ!」
「ちょ――――」
びちゃあ。
背後からポッドに後頭部を押される。体勢はうつ伏せで、全身を床に押し付けられた。それも赤と黄に染まった液体が池を作る、床に。
「――――んなぁもご!?」
「アレ・・・アレが見えないのかよ!」
ポッドが指さす先には、例の如くもう見慣れた歯茎の化け物がいた。
通常サイズの5倍はある歯茎の――――さらに5倍はある歯茎が。その大きさおよそ25倍。その威容は、もはや小さな山と呼んでも差し支えない領域に達している。
「ん、んん―――!?」
「バ、叫ぶなって・・・・!!」
心臓が火山になって爆発した。
血が燃えるように熱いのに、液体に触れた体が末端部から一気に冷えて行く。
「唾液、だけじゃないよ。勘違いしてた、これ、大半が血だ・・・」
遅れてやって来たアイルが、戦慄したように言う。
昂る生者の血と、極寒の生者の血。血と唾液、吐瀉物で出来た大きな池の水面が小刻みに揺れてさざ波を作る。
ガチガチ。ガチガチと。
歯が震える心臓が震える。鳥肌が伝染して総毛立ち、体が石になって動かない。当然だ。石は動くモノではなく、沈むモノなのだから。
つい先日の情景、鉄の泉でのポッドの水切りが想起される。石は必死に飛び跳ねて、やがて力尽きたように停止して、自身の重さで溺死した。
ああ―――心が溺れていく。
どこまでもどこまでも、深く深く、光の届かない真っ暗な水底へ。
もっとも、今の状況ならばそれは水ではない。
吐き気がする異臭に満ち溢れた薄汚い血と唾液の池に沈んでいく、ちっぽけな石。それがわたしだ。
チリィン。
「・・・・ぁ」
月の音が濁った思想を溶かし、シャルティは遅まきながら理解した。霧の森と、魔女の家の違いを。ずっと感じていた違和感が形作られ、言葉として滑り出す。ポッドの手は震えていて、既に口の拘束は解かれていた。
「なら、じゃあこれ。命から搾り取った汁を吸って、この魔女の家は現在進行形で成長しているってことですか?」
「「――――――」」
返事はなかったが、期せずして別の反応はあった。
「あがぁあああっ。あ・・・あハッ!あはははははははははは!?」
「ぅ・・・・」
狂乱とも呼べる、金属を掻き毟るような耳をつんざく絶叫だ。
両手で耳をペタンと押さえ、震える心臓を殺して辺りの様子を伺う。最初のホールはまだ何もない空間だったが、ここの中央部には鉄の山が積まれていた。
「・・・・っ。・・・何ですか、あの銀色の」
「・・・鎧だ」
「なにさ、鎧って」
「俺たちには一生必要ないもんだ」
「?」
恐らくは、鎧という金属塊の輝きが苔の光を反射して、この空間の光源になっているのだろう。最初のホールとこのホール、似たようでいて何かが違う。最初から抱いていた違和感がドンドン増幅して、今や心臓を荒々しく叩いている。
曰く。青は心を落ち着ける安全色で、赤は心を乱す警戒色だという。苔の光は淡い青、鮮血の赤、吐瀉物の黄。まるでこのホールは信号機のようだ。
突如―――人々の憩いの場である噴水のように、鎧の山から赤い水が巻き上がった。
「グぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ――――――ぁっ」
「・・・・ぇ」
――――それと目が合った気がした。
それは紙切れみたいにクルクルと空を舞い、螺旋状に血を撒き散らしている。子供だけが存在を許された天国にはあり得ない、シャルティが生まれてから初めて見る。成長し切った大人の女性だった。
そんな未知の生物には両の腕と足がなかった。まるで切れ味の悪いノコギリを使ったようなギザギザの切断面で、肉がグチャグチャに潰れて血管がゴチャゴチャと捩じれていた。
なるほど。大人とは、どうやら“森の子”の肉体構造とはかけ離れているようだ。もしこれが、一般的な大人の形なのだとしたら、だが。
彼女の肉体はギザギザのグチャグチャのゴチャゴチャ。純真無垢で残酷無比な子どもの玩具にされたお人形のようだった。ならこれは“高い高い”だろうか。
ボロ雑巾の体が落下する。
その下には地獄の窯ならぬ、歯茎の臭い大口が待ち受けている。名も知らぬ彼女は最後まで呆けた顔をしていて、小さな断末魔をあげた。
「たすけ」
ガチン。
それだけだった。
本当にそれだけ。世界に何も痕跡残さず、女性は歯茎の肉の一部となった。
「「「――――――――」」」
鎧の山から腕が飛び出す。
一本、二本、三本、四本、五本、六本。
歯茎の周りを包む鎧が弾け飛び、現れる全身。その腕は男女様々、太さ細さバラバラ、白黒黄の色とりどり、比喩なく人種のサラダボール。否、人種のハンバーグ。
巨大歯茎の全貌は、縦三メートル横五メートルの肥え太った肉の山だ。まるで蜘蛛のように、それは六本の腕を器用に動かして次なる獲物を探している。例えるなら歯茎蜘蛛とでも呼称すべき怪物。
歯茎蜘蛛が食後の余韻を楽しむように、床に広がる血と唾液が混じった液体をペロリと舐めとる。だがそれに目はない、鼻はない、耳はある。あべこべでちぐはぐで、生命としての構造を無視した醜悪なる魔女の使い魔だ。
「kyakya、kiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiaaaaaaaaaA―――――――!!」
勝鬨ならぬ、甘美なる食後の咆哮。
ビリビリと空気が悲鳴を上げ、池の水面が荒ぶる。子どもがする甲高い癇癪のような声だ。
「「「ひっ―――――!?」」」
忍び寄るような恐怖ではなく、突然爆発するような恐怖。必死で保っていた理性の壁を破壊して、突出した恐怖は勝手に喉を震わせる。
クルリ、と振り向いて。
ソレは見た。
目はないが。
それでも殺意と共に、見ていた。
◆ ◆
Filling Number 2
・【ストンの実】
採集した瞬間から果肉が硬化する性質を持つ。放置すれば鉄の強度に至るという。