第十話 “神獣”
森の主である神気楼樹とは、霧そのものだ。森の全域を覆う万年霧、面積など計りようもないそのすべてが彼の体である。
『告発の理解及び確認を完了した。癌細胞を切除する』
その声に、色はない。
その声は、音ですらない。
その声は、霧が直接に鼓膜を揺らしているだけだ。
「「「「・・・え?」」」」
森の子たちの呆気に取られた声を皮切りに、霧は蛇の形を形成して万の質量で発射された。それは大波だった。個体が寄り集まり、生きた波は東の森を呑み込んでいく。地を這うごとに蛇の牙は触れたものに喰らいつき、森を傷つけながら一直線に爆走する。
白い蛇には知性など欠片もなく、ただ純粋なる食欲に漲った唾を撒き散らすのみ。――――下された命令は、二つの癌細胞の捕獲。
大地を喰らい、木を喰らい、花を喰らい、イノシシを喰らい、小鳥を喰らう。それらは軒並み空に巻き上げられ、土煙で出来た嵐の一部になった。
これは明確なる破壊行為であり禁忌第二条の違反だった。ただし、法とは愚かな民を縛るものであって、決して王を縛るものではない。
神気楼樹は霧の森で絶対的な生殺与奪権を有していた。
――――波が数キロは離れた、ビックリ草の群生地へ到達するのに必要とした時間、およそ三十秒。
まずミルとマウが感じたのは地鳴りだった。
まるで万の軍勢の進行、あるいは像の前の蟻。秒ごとに強まる振動によって、足が崩れ落ちた。歯がカチカチと痙攣するのは、恐怖のせいか、振動のせいかは分からなかった。
二人は惨めに獣らしく四つ足をついて、哀れにも芋虫の速度で逃げることしか出来ない。
「・・・ああぁ、うそ、いや。いったい誰が・・・・。これ神気楼樹の舌じゃない・・・・!?ねぇ、ねぇ助けてよマウ!?」
ミルは一度、同じ景色を見たことがあった。森を蹴散らして、木々が爆発して、地面が空に舞う、蛇の嵐。九年前にミルが、とある男女を告発した時に起こった破壊の再現だった。
「―――――お願いがある、ミル」
「な・・なに?」
冷静なマウの言葉に、男らしい頼もしさを覚えた。
きっとなにか、一発逆転の策が――――、
「俺を庇ってくれ」
「・・・・は?」
脳が石になった。機能が停止して言葉が上手く咀嚼出来ない。
理性が誤認と断じて、送られてきた電気信号を揉み消す。
「いやおかしいって。なんで俺が、この俺が喰われるんだよ。 おかしいだろうが!? あぁ!? お前が誘ってきたせいだろ!? なあ俺は悪くない、悪くないよな!? だって、せっかく! せっかく長生き出来る楽園に辿り着けたのにッ!! ああそうだ、お前は言った! 満月の日、神気楼樹は月光浴をしているから大丈夫だって! そうだ、全部お前が悪い。だから、お前が、一人で、責任を背負え!!!!」
理性が死んだ。
開いた口が塞がらない、パクパクと無意味な開閉を繰り返し、唾液を生産しては乾かし続けた。どこを探しても、これ以上非生産的なロボットもいないだろう。
マウが放つ言葉はどれもこれもが「お前」という前置詞が付き、己を顧みることのない、保身だけで構成されたガランドウの言葉だ。もはやミルには、神気楼樹のことは露ほども頭になく、ただ目の前の馬鹿を黙らせる使命感に燃えていた。
最後に残ったのは獣性だけだった。
「しんで?」
少し黙ってもらおうと首を絞めた。
驚くほどに心が乾いていて、透明に透き通っていて、自分の行動になんの感慨も持てなかった。きっと家畜を殺す時の感情は、無味無臭なんだろうとミルは思う。
「がッ・・ぐぇッ・・・・ぁあぁぁぁぁぁ・・・・・!」
マウの手が泳いで、ミルの細くて白い首に辿り着いた。
「ァ・・・・ああッ・・・・・」
まるでウロボロス、互いが互いの首を絞め合う地獄絵図。
気道が塞がれて、自分の顔から血の気がスッと薄れて行く様子が他人事のように感じられた。力ではマウが上だが、先に首を絞めたのはミル。冷静さが失われてきた頭では、どちらが先に事絶えるかは全く予想できなかった。
それにしても、どうしてマウは抵抗するのだろうか。私はただ永遠に黙っていて欲しいだけなのに。許せない、ナニが許せないのかも分からないケド、強いてイウならソンザイが鼻にツイて、ナンダカメマイガシテキタシ、ヤッパリユルセナイミッコクシャハダレゼッタイ二コンナセカイユルセナイユルサナイユルサナイ。
三十秒経過。
飽きもせずに絡み着く二つの癌細胞に、大量の蛇が噛みついた。
バラ肉にガブリ、ロースにガブリ、肩にガブリ、肩ロースにガブリ、モモにガブリ、外モモにガブリ、サーロインにガブリ、耳に、右眼窩に、鼻に、唇に、髪に肩甲骨に喉に人差し指に爪に頭皮に舌に歯にヘソに胃に――――――――――。
「「ギギギギギギギギぃぃぃいぃぃぃゃあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっッッッ!!」」
◆ ◆
全てが一瞬で終わった。
――――死体が運ばれてきたと思った。
それがズルズルと蛇の群れが引きずって来た、ミルとマウを見た感想だった。正確には牙が刺さって絡み着いているので、戻って来る時に連れてきてしまったという表現が正しいか。
全身に穴が開けられ血に染まっていて、一見ではとても生きているとは思えない。それでも、まるで穴の空いた風船のようにひゅーひゅーと空気の抜ける音だけが、二人の生存を証明していた。
また数キロ分の東の森がポッカリと無くなっていて、蛇の破壊力を痛烈に物語っていた。その道の奥ではビックリ草の群生地がクレーターになっているのが確認できる。
「……どうして」
シャルティには分からなかった。
禁忌の意味も、その過剰なまでの制裁の理由も。
「わたしが、……言った、から……?」
『然り。シャルティ・クーレよ、大義だった。我が森の子として相応しき密告よ』
万の蛇が褒めるようにザワザワと蠢いた。
やがて蛇の構成要素である霧が解け、一カ所に渦を巻いて集合し始める。
まず五千が幹になった、次に二千が根になった、続けて二千が枝になり、最後の千が葉となった。
森に影が落ちる。まだ夜だというのに、夜を飲み込むような影――――二度目の夜とも呼ぶべき現象だ。神気楼樹は息を吸うように葉を広げ、森に施されるはずの月明かり全てを簡単に独占してみせた。
見上げても果てがない山の標高、焔を通さない巌の幹、岩盤を砕く根、空を切り裂き光を呑む刃の葉。
森を覆う万年霧の幼体、神気楼樹。
正式名称――――、
『第二宿業天使、神獣カヴト・ミラージュ』
顕現。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
霧の森、禁忌四カ条。
第一に、自他に関与する徒な傷害を禁ず。
第二に、境界外への出入りを禁ず。
第三に、肉の摂取を禁ず。
第四に、性交渉を禁ず。
以上悪しからず。
15時にも上げます!