未払いセックスレス3
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家を出たのは朝だというのに、ハマーの軽トラックで家路に着く頃にはすっかり日も暮れてしまっていた。帰りは送る必要はないとハマーに言ったけれど、どうせ方向は一緒だからとあれよあれよと乗せられて、駅までとかバス停までとか曖昧な約束だったのに、僕はちゃっかりシーサイドまで送ってもらったのである。昼間あれだけハマーの手は借りないと言ったくせに、結局のところ、僕はハマーいなければ今日1日何もできなかったであろうことに気づいた。
だから僕は、そのあたりについて、帰宅途中、信号待ちのタイミングできちんとお礼は伝えておいた。するとハマーはハンドルを握ったまま、ちらりと僕を見遣ると、礼を言われるまでのことはしていない、なんていつもみたくぶっきらぼうに返しはした。けど、直後にギアを繋げ損ねてエンストさせていたから、案外動揺していたのかもしれない。
「お前さ、本当に御風のことが好きなんだなぁ……」
湾外沿いを煙草片手に流しながら、ハマーは独り言みたいに言った。
「そうだよ。今更気づいたの?」
「いや、ずっと前から知ってはいたけどな。ただ、こう目の当たりにすると強烈というか……本当に御風のためなら人が殺せるんだなと」
「あたりまえじゃん。僕は御風が生まれてからずっと、御風が健やかに育つために生きてきたんだよ。多少毒抜きしたとはいえ、やることは捕まる前と変わらない。ただ大人になった僕には大人のしての責任があるから、すこし慎重になっただけだな」
「ふーん。慎重ねえ」
「あ、ハマー、今僕のことバカにしたね?僕そういうの結構わかっちゃうタイプだから」
「知ってて言ってんの」
ハマーは灰皿に煙草を押しつぶして消した。
シーサイドに戻ると、休業日のレストランになぜかあかりが灯っていて、中に入ると、一番奥の四人掛けテーブルで御風と見知らぬ若い男が三人同じテーブルを囲んでいた。御風は入り口に僕の姿を確認すると、こちらに来いとばかりに黙って顎をしゃくった。
「たっだいまぁっ!」
彼女に呼ばれたことが嬉しくて僕はスキップ混じりに御風のもとへと駆け寄って行く。すると御風は派手な舌打ちをして僕を睨みつけた。
「うるせえな。喋ることは許可してないんだけど」
「そんなこと言わないでよ。お土産がないからスネちゃったの?ごめん。ちゃんと謝るから許して」
「謝るもなにも、会話そのものを私は許していないってば」
御風はため息をついてソファー席にだらりと体を預けた。半日ぶりに会った御風は相変わらずかわいい。グロスを塗ったつややかな唇、オフショルダーのもこもこニットからつるりとした鎖骨が見え、僕はたまらずどきりとした。しかも、今日は珍しく黒ぶちの眼鏡をかけている。御風は中学になってから急に目が悪くなったので、家にいるときは眼鏡をかけていた。ふちなしの古いデザインの眼鏡は僕が選んであげたっけ。その頃、御風が福岡市でナンパにあったりしたから、防衛の意味も込めてすこしダサいデザインを選んであげたのだ。もちろん、ナンパ相手にはすこし反省してもらったけど。
僕がしばし、御風の眼鏡姿を眺めていると、テーブルにいた男のひとりが、僕の腰をポンと叩いた。
「あれ?ハルじゃん!じゃあ、御風ちゃんがハルを引き取ったってマジな話だったんだな!俺、俺のこと覚えてる?街田だよ、街田!高校のとき、1、2年同じクラスだったじゃん!」
「えー?そうなの?」
僕は声をかけてきた男の姿を目にいれる。漁師と言わんばかりの真っ黒に日焼けした肌に、パンチーパーマ並みにクセのある髪をタオルをヘアバンドみたいにしてまとめている。かれはおちゃらけた様子で、ほら、ほら、と指をさしてみせるが、残念ながら、そんな男、僕の記憶には存在しなかった。
「やめとめやめとけ。こいつがお前のことなんか覚えているわけねーだろ」
後ろからハマーが言う。どうやら軽トラを駐車場にいれてからきたらしく、手には重そうなビニール袋が握られていた。
「あれ?帰ったんじゃないの?」
「そうしようかとも思ったんだが、どうせここで使うやつだから置いて帰ろうかと。休みなのに勝手に入ってすまないな」
「そんなことないです。おかえりなさい、浜砂さん。なんかこのバカお世話になったみたいで……休みの日なのに申し訳ないです」
御風が体を起こし、僕には決してしない丁寧な言葉でハマーを出迎えた。ハマーは気にするなと手を振って、隣のテーブルに仕入れた香辛料の入ったビニール袋をどすんとおいた。
「オイスターパーティーの打ち合わせか」
タブレットやノートパソコン、パンフレットが広げられたテーブルの上を覗いてハマーが言った。13インチのmac bookには「オイスターパーティー2017」と書かれたプレゼン資料が映されていた。
「そーそー!御風ちゃんったら、また大きなパーティーやるっていうから、青年部連中も大体的に協力しようと思ってね。シーサイドのメンズパーティーっていえば、ここらに住む若い男はみんな参加するじゃん?回数を重ねるうちに規模も大きくなってるみたいだし、手伝いは多いほうが良いでショ?」
街田が僕の腰を叩きながら言う。
「はい。お手伝い本当に感謝します。私と浜砂さんと兄貴だけじゃさすがに100人規模のパーティーを回すのは難しくって。それに今回はネクラさんもDJとして来てくれるので……」
「へえ!あのネクラくんが外に出てきてくれるの?すごいじゃん。たしかこの店のサウンドは全部ネクラくんが作ってるんだっけ?まあ、俺たちはDJ NEKURAって名前より正輔くんって感じだけど」
「はい。なので、真冬なんですけど、そのくらいは来ていただけるかなあと予想してます」
「百人?そんなに??」
「むしろ少ないほうだぞ。去年の夏は200人来た」
「そうそう。女人禁制だっていうのに、飛び入りの人が女の子連れてきて大変だったんだから」
「そもそもこのパーティーって女の子きたらダメなの?!」
「そうよ。これは『メンズパーティー』私はあくまでも『男子校の文化祭』ってテーマでパーティーやるんだから、ちゅうとはんぱに女の子がきたりしたら遠慮しちゃうし」
「御風さんのいうとおり!ラストは全員パンツ脱ぐから!女子には見せられない姿になるから!」
「ええ……」
僕はあからさまに顔を歪めて街田を見る。そんな男ばかり集まってパーティーなんていったい何が楽しんだろう。けど、街田をふくめた三人の男たちは皆ノリノリのようだ。
「まあ、このバカは放っておいて、話し合いは一旦おひらきにしましょう。実は今日、街田さんから赤鯛を頂いてるの」
「朝釣れのやつな!」
御風がそう言うと、ハマーの顔がぱあっと明るくなった。ここ数日仕事をしてわかったことだが、ハマーは採れたて、釣りたて、に弱いらしく、特に釣りたての魚と聞くと無意識にテンションが上がってしまうらしい。そんなハマーの様子をみながら、街田がどうだと言わんばかりにピースサインをする。
ハマーはしばらくうつむいて考えたのち、すくりと立ち上がる。
「腹減っただろう。飯にしよう」
手を叩き、人数を数えるハマーの腰にはいつの間にか黒い前掛けがかかっていた。
オイスターパーティーの会議、という名の飲み会を終えると、街田たちとハマーを見送ってから僕は客間でシャワーを浴びた。綺麗に清掃して出てくると、僕の部屋で御風が腕を組んで立っていた。どうやら僕のことを待っていたらしく、おい、と声をかけてきた。
「あれえ?どうしたの???」
珍しく妹のほうから声をかけてくれたことが嬉しくて、つい僕は彼女に抱きつきたくなる。それを、御風はひょいっと横に体をスライドさせて避け、かわりに鳩尾にむかって強烈な右フックをかましてきた。おふっ、と息を吐きながらうずくまる。中指のシルバーリングがストレートに入ったのだ。
「だから、近寄っただけで抱きついてくるのやめてってば」
御風は僕に触れた手をタオルで綺麗に拭きながら言う。まるで汚物みたいな扱いだが、これもまた昔から変わらない習慣なので、僕はなんとも思わなかった。
「いや、まさか御風のほうから僕に会いにくるなんて思わなかったからびっくりしちゃって……」
「会いにくるも何も一緒の家に住んでるんだけどね……」
御風はそうツッコミをいれつつ、本題に触れる。僕が二千円もらって福岡市まで出向いた理由だ。
「牧村さんはどうだった?」
「……うん。ちゃんと支払いの約束は、とりつけた……。今すぐには無理だけど、年度末の手当てとへそくりで必ず払います、って……」
僕はぎゅっと拳を握り、牧村の薄くなった後頭部を思い出しながら言った。僕とハマーは言われたとおり債権回収の約束をとりつけた。三日で回収することはできなかったけれど、先に10万ほど渡してもいいとさえ牧村は言ったのだ。それを断ったのは、ほかならぬ僕だった。めずらしく歯切れの悪い僕の物言いに御風が首を傾げている。しかし、彼女はいつものようにまくし立てるような真似はしなかった。
長い沈黙が流れる。
僕は昼間牧村と対峙した。言葉を交わした。だからこそわからないのだ。
なぜ、御風があのひとから買われたのか。
牧村は言った。
――私が何を言っても無駄なことです。お金は必ず払います。どうか、少しお待ちいただけないでしょうか?私が言えるのはそれだけです。
僕は顔をあげる。そうして一つだけ御風に質問を投げようとする。なぜ、君がうだつのあがらないあの男に10回も抱かれたのか。けれども、メガネの奥に濃緑の瞳を見たとき、僕は何も言えなくなった。
「牧村さんは元気だった?」
御風は絵本でも読み聞かせるような優しい声で僕に尋ねた。
「うん。ちょっとひどいこと言ったから凹んだかもしれないけど、まあまあ元気だったよ」
「そっか。……ならいいや」
話は終わったとばかりに、御風は僕に背を向けた。
「明日も明後日も、予定通り兄貴は休みでいいから、好きに動いていいよ。お金が必要なら今日みたいにレストランの調理台にいくらか置いておくから」
「……ありがとう」
僕はかろうじてお礼だけ言うと、華奢な彼女の背中をしっかりと目に焼き付け、物置部屋へと引き上げた。