未払いセックスレス2
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次の日。僕は公休を使って名刺の男に会いに行くことにした。
朝9時をまわったばかりの糸島駅はちょうどラッシュ時間を過ぎたこともあり、人の姿はまばらだった。僕はJRの発券機でICカードに二千円をチャージすると、電車ではなく、福岡市内行きのバスに飛び乗った。
シーサイドから最寄駅までちゃりで30分ほど。一応、天神、博多などのハブ駅までなら電車を使ったほうが早いけれど、男が働いていると思わしき営業所はバスで行ったほうが早いそうなので、僕はそちらにした。
後ろから二番目の窓際の席にマフラーを取って座る。ここから目的地がある福岡市の西方まではおおよそ1時間といったところだろうか。僕はコートのポケットからあの名刺を取り出した。
男の名前は牧村幹雄。ウォーターサーバーのリース会社で営業として働いているらしい。名刺にはその社名「有限会社:わくわくお水配達屋」と、下に小さく「課長代理」と書かれていた。僕はそれをぐしゃりと潰し、同時にこみ上げてきた怒りを窓に額をこすりつけて発散させる。
なぜこんなうだつのあがらないリーマンごときが御風を買うことができたのだろうか。写真に写っているのは、たしかに人は良さそうだが、お世辞にも美形とは言い難い頭皮の薄い中年の男だ。
僕は未だ御風の仕事を容認したわけじゃないし、もちろん彼女が体を売るのには反対だ。しかし、ただの厄介者である僕になにか言及する権利はない。それに御風を買うことができるのは一定の権力や地位を持った人間に限られる。実際に彼女を抱いて帰った男たちはどこぞの地方議員だったり、企業の社長だったりする。コールガールだからといって、誰とでも寝る女の子ではない。たとえ、なけなしの小遣いを貯めて一回分の料金を持ってシーサイドに来たとしても、御風が相手にするはずがない。
僕はまだ働き始めて2週間そこらではあるけれど、何人かそういう客をハマーが門前払いにするのを見たこともある。僕が暴走することなく彼女を見守っていられるのは、そういう基準があるからに他ならない。
だからこそ――僕はこの男が憎くて仕方がないのだ。
だってタダで10回も御風とセックスした男なんか死んだって構わないじゃないか!
僕なんか一回オナニーするごとに一万円払ってるんだぞ。
朝、朝食を摂りにレストランのキッチンに行くと、アイランド型になった調理台の上に、ピンク色のポストイットとここから福岡市内までの往復バス運賃と思わしき千円札がひらりと二枚置かれていた。ポストイットにはただひとこと「捕まるのはやめてね」とだけ書かれていた。つまり、今度こそ捕まらなければなにをしたって構わないんじゃないだろうか。
なんて、考えをため息と一緒に吐き出して捨てる。同じ過ちは繰り返さないと誓ったじゃないか。だいたい、次また同じことをしたら、僕は一生塀の外へ出られなくなってしまう。そうなると、もう二度と御風を守ってあげることなんかできないのだ。
「よし、なんとか合法的な方法で頑張るぞ!」
僕は声に出して決意する。けっこう大きな声が出たせいで、優先席に座っていたばあさんが怪訝そうにこちらを見たが、にっこり笑っていなしておいた。
しかし、どうして御風はこの牧村という男と10回も寝たのだろうか。金も力もない、うだつのあがらない男。しかも、彼は半年ほど前から月二回のペースで予約を入れていて、一度も支払いをしていないらしい。そんなことを御風が許すとも思えない。
僕は窓枠に肘をついて考えてみる。曇ったガラス戸の向こう側をぼんやりと田園地帯が走り抜けていく。
牧村という男が実は福岡をキャッシュで買えてしまうほどのお金持ちの家の息子だという説。とてつもない技巧の持ち主でその技に感服した御風が無料にしてしまった説。もうひとつはこの牧村という男が手にあまるほどのクレーマーで自力での債権回収をあきらめた説。しかしどれもしっくりこない。仕方なく僕は考えるのをやめ、到着までのあいだ、体をバスの揺れに任せて眠ることにした。
自慢じゃないけれど、僕は人間を追い込む方法を知っている。単純に弱みを握ってしまえばいいのだ。そして握った弱みを軸にしてゆっくりゆっくり握りつぶしていけば、簡単に人間という生き物は壊れてくれる。
僕がまだ中学生だったころ、そうやって御風の小学校の担任を壊したことがある。その件について僕を責めるこえは少なからずあったが、ひどいことをしたとは思っていない。なぜなら、初めに御風に仕掛けたのはその担任のほうだったからだ。御風を敵に回すような行いをするならば、僕が相手になるのは当然のことだ。クラスの協調性を高めるために、ひとり「いじめてもいい子」を作るのはよくあることだけれど、そのターゲットを御風にしたことが間違いだったのだ。その教師は精神を病んで病院に入院したらしいが、最終的にどうなったかは聞いていない。生きているか死んでいるかさえ、僕にはわからない。
牧村の勤める会社の事務所は二階建てショッピングモールの一階の一番隅、保険会社の営業窓口の隣にこじんまりと佇んでいた。ドアのない売り場のすぐ手前には、主力商品とおもわしきウォーターサーバーが三代ほど置かれ、その右奥にカウンター窓口が三つと、左奥に二人がけのソファーがひとつとマンガ本が入ったカラーボックスがふたつ置かれていた。福岡支部、と名乗っているわりにはやけに小さな組織だと思った。ひとまず、さきほどフードコートで買ったハンバーガーとオレンジジュースを片手に、店と向かい合うように置かれた通路ベンチに腰掛けた。包みをあけ、バンズを咀嚼しながら中の様子を伺ってみる。繋がっていないイヤフォンを耳にはめる偽造工作を行ったのもあり、僕を不審に思う輩はいないようだ。
入り口の前で風船を配るスーツ姿の男がひとり。カウンターの中にスーツ姿の女がひとり。牧村の姿はそこにはない。今日は暇なようで、風船の男はたまに店内をふりかえり、受付の女と談笑していた。ふたりとも二十代から三十代といったところだろうか。失礼だが、あまり仕事ができるタイプには見えなかった。
そうして、ハンバーガーを食べ終わり、オレンジジュースを氷水にしたころのことだ。ふいに背後から僕を呼ぶ声がして、振り返ってみると、僕と同じハンバーガーショップの袋を持ったハマーが立っていた。
「は、は、ハマー!な、なにしてんの?!」
「何って。お前がおかしいことしてないか見にきたんだけど」
そう言うなり、許可も取らずに僕のベンチに隣にどすんと腰を下ろした。
「もういい大人なんだから、椅子にくらい正しく座ったらどうだ。とても隠密活動しているようには見えなかったぞ」
「うるさいなあ。僕がどんな格好して座ってたって、ハマーに関係ないじゃん」
文句をいってはみたものの、たしかにベンチに横向きに足を上げて座るのはどうかと自分でも思ったので、僕はさっさともとの姿勢に戻る。ハマーは何も言わずにチーズバーガーを咀嚼しながらあのウォーターサーバーの店に視線を向ける。
それにしてもなぜこの男は僕の前に現れたのだろうか。僕はハマーの「クソダサい」だぼだぼなワイドデニムを舐めるように見つめて考える。おそらく御風の差し金に違いないだろうが、まったく信用されていないにもほどがある。たしかに僕はウェイターの仕事はあまり上手だとは言えないけれど、こういう「性格が悪そうな」ことで失敗したことなんか一度だってないのに。
「いっとくけど、御風の差し金じゃねーぞ」
ハマーは僕の胸中を読んだように、ケチャップのついた指を舐めながら言った。
「はあ?んなわけないじゃん。差し金じゃなきゃなんでこんなところにわざわざ来るわけ?僕と違ってハマーは明日休みじゃないでしょ?」
「んなの自己防衛以外の何物でもねーよ。お前が今度こそ何かヤラかしたりしたら、同じ職場で働く俺の立場も危うくなる。だからお前のできるだけ監視することにした。ただそれだけだ」
「監視って……ハマスナ、てめえふざけんなよっ!僕はお前なんかに監視されなくったって、うまいことやって見せるってば!」
僕はハマーに抗議すべく立ち上がってハマーのブルゾンの襟元をぎゅっとつかんだ。しかし、ハマーは僕の攻撃など意図もせず、ため息をひとつ吐くと、襟元にあった手をつかんで離し、暴れる子をおとなしくさせるように、気をつけの格好にさせる。ハマーには僕の倍の筋肉がある。くやしいけど僕はそれ以上抵抗できず、しかたなく僕はまたベンチに座りなおした。
「うまいこと、ねえ。なら聞くけど、お前、行きのバスであの男を『殺したい』と一度も思わなかったか?」
「…………思った」
「ほら、その時点でお前に信用なんかないんだよ。すくなくとも、俺には」
そう呟くと、ハマーはバーガーショップの袋から二つ目のバーガーを取り出した。僕には言い返す気力もなく、ひとまず食べかすを袋にまとめ、ショップの観察に戻ることにした。
平日の昼間。人の行き来はまばらだ。ここは福岡市でも大きな部類に入るショッピングモールのひとつで、休日ともなれば、家族連れやカップルなどで道を歩くのもままならないほど賑わうらしい。らしい、というのは、このモールがオープンしたのが僕が少年院に入ったあとのことで、実際に休日に訪れたことがないからだ。でも今日は、CDショップから流れてくるループCMが耳障りなことと、ポップコーン販売機の香りがもろに漂うことを除けば、なかなかいい感じの喧騒具合だ。
「ねえ、ハマー」
観察にあきあきしてきた僕は、ベンチにからだをもたれ、頭をがくりと後ろに下げてハマーに話しかける。すぐに、なんだ、と不機嫌そうな声が返ってくる。
「わざわざ僕なんかのためにせっかくの休日を無駄にして悔しくないの?結構重労働じゃん?本当は今すぐ返ってごろ寝でもしたいんじゃない?」
僕はわざとらしく語尾を上げたりさげたりしながら挑発するように言ってみた。ハマーは僕をちらりと見、表情を変えずに首を振る。
「このモールには香辛料専門店が入ってて、そこへ行くのが第一目的。お前の監視は二の次だ。勘違いするなよ、ハル」
「気安く下の名前で呼ぶなよ!御風にだって呼ばれたことないのに!」
二の次呼ばわりより、もいきなり下の名前を呼ばれたことに腹が立った。だいたい僕はハマーと名前を呼びあうほど仲がいいわけじゃなかったはずだ。
「なら、お前が俺をハマーハマー言うのはどうなんだよ」
「それはいいの!だって僕ハマーの下の名前知らないんだから!」
「どこまでも失礼な奴だな。卒業アルバムくらい見……」
そこでハマーは押し黙った。目をそらし小さい声で、すまない、と謝った。僕が卒業アルバムをもらうどころか、そのアルバムのどこにも写真が載っていないことを思い出したらしい。なぜなら僕は高校在学中に逮捕され、そのまま退学になっている。卒業さえしていない僕が卒業アルバムなんかもらうはずがないのだ。
「本当のことなんだから謝らないでよ」
図体の大きいハマーがしゅんとしている姿がなんだか気持ち悪く見えて、僕にしては珍しく慰めを口にする。いつも元気に逆立っているはずのツーブロックの上っ側も今は力なく垂れ下がっている。
「慎吾、でしょ?」
サービスがわりに覚えたての彼の名前を口にする。以前、ランチにやってきた女性の一人がハマーのことを「慎吾くん」と呼んでいるのを聞いたことがあったからだ。
「なんだ、知ってるじゃねえか」
ハマーは顔を上げるかわりに、ちいさくそう呟いて、残ったコーラを氷ごと飲み込んだ。
僕とハマーふたりで観察を始めてから三十分ほど経った頃、スーツを着た小太りの男が僕たちの目の前を横切ったのと同時に僕とハマーははっと顔を合わせた。明らかにオーバーサイズのツーピーススーツに白いシャツ、青いネクタイ。やや後退した頭皮が特徴的なメガネをかけた男。男は営業帰りのようで、重そうな鞄を脱いだベージュのコートと一緒に左手に持っていた。男が帰ってきたことに気づいたのだろう。先ほどの男性社員と女性社員が同じタイミングで頭を下げた。
「牧村だ」
「うん。彼だねきっと。頭の薄さですぐわかったよ。というか、ハマーも彼のこと知ってたの?」
「ああ。タクシー代を持ち合わせてないとか言って泣きついてきたから、何度か駅まで送ったことがある」
「え?そうなの?なんて野郎だよあいつ」
めっちゃ殺してやりてえ、という一言は口に出さずにしまっておく。男は僕たちに観察されていることには気づいていないらしく、談笑しながらカウンター裏のバックヤードへ入っていく。
「どうする?」
ハマーは潰したコーラパックをバーガーショップの袋にまとめ口をぎゅっと縛りながら、僕のほうをちらりと見た。
「うーん。どうしよっか。いつもなら、尾行とかして確実に相手を脅迫できるだけの弱みを探すんだけど、御風は急いでほしいみたいだし、僕としても放っておきたくないんだよね。むかつくから」
「俺も同感だ。めずらしく気が合うな」
ハマーはいつの間にか脱いだブルゾンを羽織り、固まった筋肉をほぐすように立ち上がって大きく伸びをした。僕は腰掛けたままストローを噛み、やたら大きくなった彼の体をしみじみと見る。ハマーのだぼだぼデニムにかめむしブルゾンは心底ダサいと僕は思うけれど、今日に限っては、その髪型と体格も相まって十割増しでいかつく見えるから良しとしよう。などと考えていると、ハマーが僕にぬるりと左手を差し出した。
「何?手でも繋いで行こうって?」
「ゴミよこせって言ってんだよ。空なんだろマックの袋」
「ああ、そういうこと。てっきりゲイっぽく乗り込むのかと思った」
ハマーは僕の軽口には答えず、僕の手からゴミの袋を受け取ると、近くにあったゴミ箱に押し込むようにして捨てた。本当、この男には冗談が通じないなあ。広く厚い背中を見ながら僕はハマーの真面目な一面を思い出す。そういえば高校一年のとき、とエピソードを思い出しかけたところで、牧村がバックヤードから戻って来るのが見えた。
「あいつ来たぞ。行こう、ハマー」
僕は勢い良く立ち上がり、かめむしブルゾンをぎゅっと引っ張った。
向かいのベンチに先ほどまで座っていた若い男二人がいきなりショップに入ってきたのに驚いたのだろう。「わくわく水道屋」と書かれたマットを踏んだタイミングで、受付カウンターにいた若い女性が肩をびくりと震わせたのがわかった。店の前風船を持っていた男も何かを察したようで、僕とハマーが入店したタイミングでショップの中に戻ってきていた。ただ、そんな店の雰囲気が変化したにもかかわらず、牧村だけは我関せずとばかりに、カウンター内のパソコン前にどすんと座っていた。
「あのう、すみません……」
僕は牧村の存在には気づいていたけれど、あえて女性社員のほうに声をかけた。「東」と書かれたネームプレートをつけた彼女は、やや怯えた顔をして僕とハマーを見比べたあと、ええどうぞ、とカウンターへ誘った。
「いえ、そうじゃなくて、僕たち牧村さんって人に会いに来たんです」
「ま、牧村ですか?」
「東」さんは顎に拳をあてちらりとカウンターパソコンのほうに視線を向ける。牧村のパソコンの動きが止まったのを僕は見逃さなかった。
「はい。糸島の『御殿』の件だと伝えて頂ければわかると思いますので」
事務所ではなくモール内のスターバックスを督促場所に選んだのはハマーの良心だ。僕としてはあのまま、僕の妹を侮辱したことについて大声でまくし立てて追い込むつもりだったけれど、僕が次の言葉を発する前に、多少込み入った話になるので場所を変えたい、と、ハマーが顔を真っ青にした牧村と僕の間にはいったのだ。これもまた彼の処世術なのだろう。納得はしていないが、ゴミを捨ててくれたこともあるし、彼に従うことにした。
ランプ下でドリンクを受け取り、一番奥の窓際の席に座るなり、牧村は禿げ上がった額をテーブルにこすりつけてきた。
「本当にすみませんでした!」
店内全体に響き渡るような大声をだしたせいで、スターバックスにいた客とスタッフが一斉にこちらを見る。しかし、そんな視線に屈することはなく、僕は腕を組んだまま、牧村の薄くなった後頭部を見下ろしてい。
「謝られても、ねえ。そんなこと幼稚園児でもできるわけですし、まさか、この場を丸く収めるためにただ謝罪だけでもしてほしい、とそういうことを思ってるんじゃないの?」
僕はフラペチーノからストローを抜き牧村の後頭部をクリームがついた先端でぽんぽんと叩く。おかげでチョコレートソースが襟元に飛散したがそんなこと僕の知ったことではない。
「ねえ、牧村さん。なんで今日僕がここに来たかわかる?」
僕はわざとらしく、大きな声で牧村の名前を呼んだ。
「それはその……えっと……」
「僕はね、牧村さん。対価を払わないような奴が大っ嫌いなんです。たとえば、これ。僕はフラペチーノの代金として500円を払い、その対価としてフラペチーノを受け取りました。あなただってそう。対価には対価を支払う。それが当たり前。それが経済もとい人間生活というものですね」
「はあ……ごもっともです」
「さすがにご理解いただいたみたいですね、嬉しいです。理解していただいたと仮定して話を続けますね。僕、あ、僕、名前をね、伊藤ハルっていいます。伊藤はよくあるイタリアの伊に藤の花の藤で伊藤、下の名前はカタカナでハル。どうです?覚えやすいでしょ?そんな伊藤ハルですけど、僕、一つだけ許せないことがあるんですよ。それはね、妹をないがしろにされることなんです。僕は生まれた時から妹のことを心底大事に思っていましてね。こういうのシスコンっていうんですか?とにかく僕は妹が好きで好きでしょうがないんですよ……」
牧村は徐々に僕の正体に気づきはじめたにちがいない。なぜなら、テーブルの上で彼の右人差し指がびくり、と震えたからだ。僕は続ける。
「ね、そんな妹にあなたひどいことしましたね?金を払う約束をしたうえで妹を買ったのに。金を払わないばかりか、踏み倒して知らん顔するなんてあんあまりじゃないですか。あんたみたいな輩が僕、許せないんですよ。それこそ死ねばいいと思ってます」
僕はできるだけ、冷静に言葉をならべたつもりだが、死ねばいい、のところで、横に座っていたハマーからエルボーが飛んできた。ちっ、と隠すことなく舌打ちをして、かまわず僕は続ける。牧村は簡易土下座のまま僕の話を聞いている。たしかに、頭を下げたままなら僕の顔は見えないし、精神的に楽かもしれない。でも、脅迫相手を楽にさせるほど僕は甘くはない。
僕も彼と同じくテーブルに伏した。そのまま口元を彼の耳元に寄せて、机をバンバンとリズミカルに叩きながら、まーきーむーらーさぁーん、と歌うように呼びかけた。
「ねーねー、どうして顔あげないの?僕がお話してるんだよ?人とお話するときは相手の顔をきちんと見ましょうって小学校で習わなかったの?ね、ね、まーきーむーらーさーん?聞こえないの?僕の声聞こえない?僕の気持ちも届かないの?」
まくし立てながら、机を叩きまくったおかげで、牧村のコーヒーが波打つのが見えた。さすがに騒ぎすぎたようで、スタッフさんが注意しにきたが、ハマーが軽く頭を下げてことなきを得る。
「ハル、いい加減にしろ」
ハマーは伏したままの僕の髪をつかんでがばっと起き上がらせた。
「えへへ。怒られちゃったね。これもぜんぶ牧村さんが僕の顔を見てくれないせいだよ」
「すみません!すみません!本当に、申し訳ありませんでした……っ!」
「どーしよー。こんなに注目されちゃって、僕ほんとに恥ずかしいなあ」
後頭部をぽりぽり掻きながら言えば、ハマーが仏頂面でため息をついた。やれやれ面倒なことに付き合わされたと言わんばかりに、牧村ではなく僕をじっとりと睨みつける。そうして僕の手からフラペーチののストローを没収し、かわりに牧村に髪ナプキンを渡した。
「言い訳とか釈明とかそういうのがあるんなら、聞きますけど」
と、ハマーが言うと、牧村は地獄に仏とばかりに泣きそうな顔をして、ハマーの手を取った。なるほどこれが飴とムチか。僕は新しいストローをフラペチーノに差しながら、不本意ながらムチにされた不満をクリームと一緒に飲み込んだ。