未払いセックスレス
未払いセックスレス
***
シーサイドはその名のとおり浜辺のすぐ近くにあって、おもに魚介イタリアンを取り扱う店だ。糸島の豊満な食料を武器に都会では一万円を超えるコース料理を三千円ほどで出している。料理を取り仕切るのはハマーで、その日市場から仕入れた食材を、ホテルで鍛えた腕で調理し、高級店にも負けないものを出す。店をオープンして一年ほどしか経たないが、店は連日予約でいっぱいになり、たびたび雑誌で取り上げられるようになったのも、ハマーのこの腕があったからだと御風は言っていた。
アルコール剤をつめた瓶を片手に僕は規則正く並べられたテーブルを隅から順に拭いている。ブラインドをすべて開け放った店のなかには、海沿いの気持ちのいい日光が満遍なく差し込んできて、暖房をつけていないのに、冬場とは思えないほど暖かい。
店の中では厨房とフロアを仕切カウンターの小窓越しにハマーと御風がメニューの打ち合わせのようなことをしていた。僕にはよくわからないのだけれど、バレンタインシーズンに向けての限定メニューを考えているのだという。どこの言語かもわからない料理名がぽんぽんと飛び交っていた。
「バレンタインなんだけど、できればカップルじゃなくて女子会とかそういうので使って欲しいのよね。友チョコみたいな感覚で友ランチ?みたいな」
「女性客狙いなら少し値段を落としたほうがいいかもしれないな。2500円ぐらいでランチ組むか?ワンドリンク付きで」
「んー。そうだねぇ……ニーゴーか。……浜砂さん、もう少し落とせる?できれば2000円以下で手を打ちたいの。ほら、うちみたいなところって市内から来ようとすると足代もかかるし、そのぶんお得にすませたいと思うのよ。でも安すぎても特別感がなくてだめ。田舎のランチでこのくらいまでなら出せる、くらいの値段設定、でね?」
ハマーは眉を寄せ、できないことはないけど、とつぶやいた。すかさず御風が、なにかあるの?とちくりと言う。
「そうなると、牡蠣を諦めるしかないな。もしくはパスタをトマトベースにするか」
「牡蠣はやっぱり厳しい?旬だし前菜で出したいなあと思ってたんだけど」
「残念ながら牡蠣小屋もかき入れどきだし、あんまり安く仕入れができないんだよ」
「ちぇっ」
御風はカウンターにもたれかかり、ミニスカートから伸びる足をゆらゆらと意味ありげに組み替えた。細く長い、けれどもガリガリではなくちょうどよく鍛えられた美しい妹の脚に僕は机を拭くのも忘れて見とれてしまう。足先からそろりそろりと視線をあげていけば、彼女がいう「使ってはいけない穴」にぶつかるだろう。昨夜、小太りの紳士が指を突き立てていたあの穴だ。
「漁港の爺さんに頼んでみるかなあ。しばらく『ただ』で大丈夫だからって」
ただ、とはおそらく売春のことだろう。僕は反射的にふきんを持つ手をとめてしまう。ハマーは顔色ひとつ変えず、厨房に広げたノートにひたすら何かを書いていた。どうやら彼はあたりまえのように「客間」で御風が何をしているか知っているようだ。よく考えればわかることだ。僕が少年院から出所してくるまで彼は御風とふたりっきりで働いていたのだ。知らないはずがない。
コールガール。
私はお客さんとえっちして体を売ってお金をもらっている。
御風はたしかにそう言った。真夜中、真っ暗な空間のなかで。ぽってりとした唇から吐き出される卑猥な言葉たち。やがて日が昇り紺色の空がわずかに白みはじめてもなお、僕は眠ることができなかった。あれは夢なんじゃないか、と強く思っても、昨日僕が残した証は「ゴミ箱の丸まったティッシュ」という形で存在している。それを見るとクズらしく勃起してきて、僕はさらに一回抜いてしまったのだけれど。
「牡蠣はうまいが好みが分かれる食材でもある。地産にこだわるなら、いつもみたく豚とか魚とかそういうのを使ったほうがいいかもな。それに鰤なら安価で卸してくれるオッさんを知っている」
「豚はいつものように松田さんに頼めばいいし、鰤は美味しいし。今回は牡蠣を諦めるか。あ、でも一度でいいから牡蠣を出して見たかったなあ。牡蠣小屋だけ賑わってるの結構くやしい」
「なら、1日限定で牡蠣パーティーみたいなことやるといい。その日だけなら仕入れは問題ないし、お得意さんだけに限定すればロスも少ない」
「冬のシーサイドパーティみたいなやつ?なにそれ楽しそう!やるやる!はい、決まりっ!」
御風は顔をぱあっと明るくさせるとハマーに手のひらを差し出し、ハマーも遠慮がちに手を出してぱんっと軽くハイタッチをした。屈託のない御風の笑顔。ああ、羨ましい。僕だってあんなふうに御風とハイタッチがしたい。
せっかくまた妹と一緒に過ごせるようになったのに、僕は彼女に近づくことさえ許されていない。例えば――僕はそっと彼女に近づいてみれば――御風はすぐに気配に気づき僕を睨みつけ、
「おい、何手ェ休めてんだ。働けクズ」と、鋭く言い捨てた。
あの半径2メートル以内の決まりは未だ健在なのだ。一応まだ物置小屋にはおいてもらっているけれど、御風が住む3階への立ち入りは許されていない。僕が御風のプライベート空間に立ち入るなんて、鳥肌が立ちっぱなしになるほど気色わるいのだという。
『絶対パンツ盗むでしょ?気持ち悪い』
と、御風は言う。その通り。僕の手グセの悪さは折り紙つきで、多分パンツだけじゃ終わらない。さすが妹、僕の本質をよく理解してくれている。
「ところで、クズ」
御風が顔を上げて言う。どうやらハマーとのメニュー会議は終わったらしい。
話掛けられたのがうれしくて、僕は溶けるくらいの笑顔で振り返った。御風は眉をうねらせてなぜかハマーを一度振り返り、彼がすでにガス台に向かっていると知ると、わざとらしく指で頭を抱えてため息をついた。
「キモッ。私の許可なく口開かないでくれる?なんか頭がぐらぐらするから」
「うん。僕だって頭ぐらぐらする。お揃いだね」そのため息吸い込みたいよ、と胸の内で付け加えた。僕にとって御風の嫌味は最高のご馳走なのだ。
「嫌味だってわかんないの?ほんっとに人の話聞いてないよね。まあいっか。ちょっとアンタにやってほしい仕事があるの」
「しごと?ウェイターの?」
「ウェイターもだけど、それと別にちょっと欲しいことがあるの……アンタ昔から人を脅したり追い込んだりするの得意でしょ?」
御風はそう言って僕を向き直った。そう彼女がいうように僕は恐喝とか結構得意だったりする。昔から御風に近寄る輩をだいぶ痛めつけてきたせいか、ねちっこい嫌がらせには定評があった。栄光を語ることはしないが、被害者の男曰く『全然話がつうじなくて恐怖』らしい。あたりまえだ。僕は僕のききたいこと以外、他人の言葉なんか耳に入らない男なのだ。
御風は尻ポケットに手を突っ込んで、中から皺になった名刺を一枚取り出して僕に渡した。名刺には社名と名前のほかに顔写真まで印刷されていて、にやりと笑った色黒の初老の男がこちらを向いている。写真の下には、「真心をこめて」とコメントが入っていた。
「ちょっとこいつからお店のツケを取り立てて欲しいの。そう多い金額でもなかったから放っておいたんだけど、最近顔見せなくなったし、そろそろ回収しなくちゃ出禁にもできなくてね。できそう?」
「もちろん!任せてよ。御風の言うことならなんだって僕はやるよ!」
「……そう。ならよろしく。三日休みあげるから、百万円しっかり回収してきてね」
「百万円?!」
おもわず体が後ろにつんのめり、その拍子にテーブルの足に膝をひっかけて派手に転ぶ。御風はあっさりと金額を言ったが、1日300円のお勤めをしてきた僕にとって、百万円なんて未知の金額だ。
「なにしてんの?」御風は冷えた視線を僕にそそぐ。そして床に転がる僕ではなく、無傷の「机」のほうを指先で優しく撫でた。
「いや、ちょっとびっくりして……」
「この机、あんたより時給高いんだから丁重に扱ってくれなきゃ困るんだけど」
「あ、えっと……ごめん。机さんには誠心誠意謝るよ」
「あんたの謝罪で机さんが負ったストレスが無になると思うなよ……と、まあ、それはともかくとして、いままで彼を信用して待ってたんだけどいい加減一本越えちゃうとさすがの私も怒るわよ。もう一回聞くけど、手をださずに、できる?」
「もちろん。でもなんで百万円を超えるまで黙ってたんだ?たかがランチ程度じゃその金額にならないだろ?」
僕の質問に御風は呆れたように頭を抱えて何度目かわからないため息をつく。
「ランチの負債なわけないじゃん」
「え?ってことは……」
「察してよ。それ以上私から何か言うつもりはないからね」