シーサイドへようこそ2
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僕の妹、御風。歳は僕の3つ下で血は繋がっていない。というのも僕が5つになった歳に母親に抱かれてうちにやってきたのが御風だった。当時は僕の父と御風の母は結婚していたわけじゃなくて、どうやら僕の実母のかわりに家の手伝いをするために住み込みで働きにやってきたようだった。父親はまだ小さかった僕を抱えて生きていけるほど器用な人間ではなく、祖父母もすでに亡くなっていたし、とにかく女手が必要だったのだろう。幸いなことに、父親は代々土地持ちの家系で経済的には余裕があった。
とはいえ、御風と僕は兄弟みたいにして育った。父と母は雇い主と社員という関係ではあったものの、僕の面倒を見るのはたいてい御風の母親だったし、生活の仕切りも特になく、ふた家族の間にプライバシーのようなものは全くなくて、むしろ僕は御風の母親のことは初めから新しくできた母親だと思っていたほどだった。そして御風が3歳になったころ、ふたりは結婚した。同じ名字になった御風にますます僕は骨抜きになった。なぜなら御風はたった3つにして他の子たちとは明らかに違う恵まれた容姿の持ち主になっていたからだ。そして御風が小学校に上がる頃には、その容姿は町中の評判になっていた。海辺の一軒家に色白の緑色の瞳をしたお人形みたいなきれいな女の子がいる、と観光情報誌に載ったこともある。写真こそ掲載されなかったものの、県外からその容姿を一目見ようと家を覗く奴がいたりして当時はすこし迷惑していた。ただ、御風は御風の母親とはあまり似ていなかった。
その2年後に御風の母親が亡くなってから、僕はとにかく御風を誰の目にも触れさせたくなくて、過剰に束縛した。もちろん御風の自由を奪うような真似はしなかったけれど、少しでも御風に悪戯しようとする奴がいれば、男女関係なくすぐに制裁に向かった。犯罪まがいのことも数えきれないほどやった。警察のお世話にもなったし、数々の奇行のおかげですっかり「頭がおかしい兄貴」として定着したが、後悔したことは一度もない。御風と僕は特別仲がいい兄弟ではなかったけれど、僕は気持ち悪いくらい御風のいうことはなんでも聞いたし、御風だってなんだかんだ言いながらも、15回に1回くらいは僕のお願いを聞いてくれる優しい女の子だった。
――おにいちゃん。
御風は僕のことをたらんだ舌でそう呼んだ。さっぱりとしたおかっぱに切り揃えた黒髪をたずさえ、ふわふわと笑いながら、僕の背中のシャツを引っ張った。やわらかな日差しのなか白い砂浜をバッグに微笑む御風は、まだ10歳になったばかりだ。白いミドル丈のチュールスカートがよく似合っている。
――おにいちゃん、もっと、こっち。御風のそばにきて。ね、ね、お願い。おにいちゃん。もっと、もっともっとこっちにきて。
うん、わかった。おにいちゃんはもっと御風のそばにいくからね。体が密着するくらい近くにいるからね。そう言いながら僕は御風の手を引き寄せ、頬同士がふれあいかけたそのとき、ぱちん、と乾いた音が部屋いっぱいに響いた。
あとから尾をひくようなじんじんとした痛みが頬にもたらされ、顔を上げると、そこはさっきまでいたはずの海辺ではなく、見覚えのないホテルの部屋で、目の前にいたのは10歳の御風でもなかった。
「いつまで寝てんだよてめえ!」
20歳になった御風はベッドに浅く腰掛けて僕の襟元を引き寄せていた。いったい誰がこんな言葉を教えたのだろうか。それにこの金髪。最後に見た15歳の御風はつやつやの黒髪だったはずだ。まさか悪い友達と付き合っているのだろうか。考えているいるうちにまた御風から起きがけの一発を食らう。今度はビンタではなく手刀チョップを胸にありがたくいただく。
「うほっ」
「気持ち悪りぃ声出してんじゃねーよクソ兄貴」
御風のイライラは最高潮だ。目尻に深いシワができている。それでも至近距離で見る御風の顔は以前と変わらず綺麗で僕はまじまじと見つめた。
「みかじぇ」
このうえなくアホな声を僕は出した。
「寄るな!この変態っ!」
「ああっ!御風っ……ほんもの、ほんものなのか?」
たまらず僕は御風の腕を掴んだ。すると今度は足で蹴り上げる方向で御風からの攻撃が始まる。僕はそれを軽やかにかわしながら御風の脚の長さを堪能した。細く長い脚には適度に筋肉が付いていた。
「だから言っただろう。こいつを引き取ったところでどうにもらなねーって」
入り口のドアが開いてハマーが顔を出した。彼はなぜかコック姿で僕を見つめている。御風は僕への攻撃をやめてハマーの方を振り返った。
「まあ、浜砂さんの言う通りなんですけど、変態のろくでなしとはいえ兄に変わりはないので」
御風がハマーのことを浜砂さんと呼んだところで、僕はハマーの本名が浜砂慎吾あったことを思い出す。本名もあやふやなほど、僕はハマーとは関わりが薄かったわけだ。
「ハマー、僕なんでこんなところで寝てんの?ていうか、ここどこ?それになんでハマーが僕の妹と仲よさげに話してるわけ?」
矢継ぎ早に僕は尋ねた。確かに僕は変態だから御風に蹴られたり殴られたり罵られたりするのは嬉しいけれど、ハマーが彼女と馴れ馴れしく話すのを見るのは気に入らない。それに、さっきから「御風御風」って呼び捨てにしているのも嫌なのだ。ハマーはすたすたと僕に近づいてきた。
「まず、なぜお前がここで寝てるかっていうと、ここへ連れてきて御風を見た瞬間倒れこんだからだ。で、ここは御風が経営するレストラン兼民宿で、お前が今寝てるベッドは客室のベッド。俺が御風となれなれしく話しているのは、俺がこのレストランのチーフシェフで御風に雇われているからだ。わかったか?」
ハマーにしては珍しく饒舌だ。相変わらずの仏頂面だけど僕が聞きいたことには全て答えてくれた。
「え?!ハマーってシェフだったの?」
僕はわざとらしく口元に手を当てて大げさに驚いてみせた。何度も言うようだけれど、ハマーは僕と同じく工業高校出身で毎日半田ごてやらなんちゃらボイラーやらそういうものばかり扱っていた男だ。料理ができるなんて聞いたことがない。
「そうよ」
これに答えたのは御風だった。
「浜砂さんは高校を卒業してからずっと市内のホテルで修行していたの。そこへ私が行って頭を下げてこのレストランに来てもらったの。レストランをしようにも私だけじゃ満足に料理もできないし、それに男手が必要だったから。今では彼目当てで県外からお客様がいらっしゃるくらいなの。馴れ馴れしくて当然だし、むしろアンタの二億倍くらい浜砂さんにはお世話になってるの」
ベッドに座ったまますらすらと御風は答えた。ハマーの話では御風は彼の雇い主だが、そういう理由ならハマーがやたら御風になれなれしいのも頷けた。
「ここはもともと兄貴の家があった場所。それを2年前に取り壊してこのレストランを建てた。つまり私とあんたの家はこの店そのものなの。わかる?」
「……う、ん……」
僕は頷いた。なんとなくそういう気はしていたのだ。なぜならこの建物それには全く見覚えはないけれど、窓の外に広がる浜辺の景色はよく覚えていた。観光客の集まる海岸からやや離れたプライベートビーチは僕と御風の恰好の遊び場だったから。
「そういうわけで、これから兄貴にもしっかり働いてもらうから。ついでに、あんたの部屋はここじゃなくて突き当たりの倉庫ね」
「え?ちょ、ちょっと待って、なんで僕がここで働くの?」
「当たり前でしょ?ここ以外に行く場所なんかあんたにはないんだから」
「だからって……そんな急に言われても……」
「はいはい。口答えしない。衣食住の面倒も見るって言ってんだから黙って頷いておけばいいの」
「そんなぁ……僕にだって人権があるんだよ。もちろん御風と住めるのは嬉しいし、願ってもないことに変わりはないけれど……」
僕はここへ来る前の決意について考える。どんなに辛いこと苦しいことがあって、理不尽に虐げられたとしても、僕が罪人である以上、絶対に御風の住む家にだけは帰らない。そう決心したのに。
「あー腹立つなあ、もう!」
俯いた僕の顎を御風が人差指と親指でぎゅっと掴んだ。両側から親知らずあたりを圧迫され、とたん息ができなくなる。御風は心底苛立ったように、眉間に濃い皺を作り、低音で僕をなじりはじめた。
「私から全てを奪ったんだから、私に全てを与えるのは当然でしょ?!勝手に『やらかして』いなくなったくせに、今更なにもかも捨てて逃げるなんて絶対に許さない!」
そのまま彼女は僕をベッドマットに投げつけると、駄目押しに腰のあたりをスニーカーで思いっきり蹴り上げた。あひゅう、とおかしな声が出て、同時に僕の視界がじわじわゆがんだ。そこまでして御風はようやく気が晴れたらしく、ふう、と大きなため息をついた。仕切り直し、とばかりに柏手を一度打つ。
「兄貴にはお客さんのお出迎えホールキッチン補助にルームクリーニングまでなんでもやってもらうから。前科持ちで極度のシスコン変態なんて、どこも雇ってくれないのを引き取ってあげるんだから感謝してよね。あと三十分で店が開くからそこんとこよろしく。それから、」
僕が口を挟む間もなく早口でまくしたてた御風は、そこで一度言葉切った。潤ませた目で僕を見下げ、じろりと一瞥すると、また口を開いた。
「私に半径三メートル以内に近づくの禁止。近づいたら殺すから」
「はぁ?!」
「シスコン変態兄貴なんだから当然でしょ。変な噂たてられたら困るし、理解して。ね、兄貴」
御風は胸の前で合掌を作り頭を傾けてぱちんとかわいいウィンクをくれる。その表情はとても「近づいたら殺す」とは思えないが、きっと彼女は本気だろう。御風が嘘なんかついたこと今までなかったから。僕は理不尽な要求を飲み込みながら嬉々とした表情でぐいっと深く深く頷いた。
レストランの名前は「シーサイド」という。ひねりのないネーミングは御風が「誰にでも読めるわかり易いものを」という理由でつけたものらしい。3階建の1階がガラス張りのレストランになっていて、2階はゲストハウスに、そして3階が御風の生活スペースになっていた。ゲストハウスはふた部屋あって、僕には客間と客間の間にある物置が割り当てられた。僕が「変態シスコン」を克服すればここから3階の居住スペースに移してくれるらしい。
あれから。
僕が目を覚ましてからというもの、三分後にはウェイター服に着替えさせられていて、その15分後にはレストランの厨房でハマーの仕込みを手伝わされた。それからばたばたとランチタイムがきて、僕は必死になってオーダーを取り、料理を運んだ。何もかも終わる頃には、体はしおれた野菜みたくへとへとになっていた。「院」でのお勤めで多少体力はついたつもりではいたけれど、まだまだぜんぜん甘かった。
御風がフロアに出たのは12時を過ぎたころだった。そのころにはフロアの20席はほぼ埋まっていて、僕といえば慣れないオーダー作業に爆発寸前になっていた。
御風は革靴のかかとを鳴らし颯爽とフロアに現れた。格好といえば、なぜだが金髪を隠すように一つにまとめ、燕尾ベストに黒タイ、センタープレスのスラックスに黒エプロンいうヅカ顔負けの男装具合だった。豊満な胸は見る影もなく押しつぶされていて、オーダーを取る声も心なしか低く出しているようだった。
「いらっしゃいませ。ようこそシーサイドへ」
ドラマの一コマみたいな完璧なイントネーション。客を席まで案内しオーダーを取るまでの流れるような所作。僕はその一つ一つに見とれていた。いや、彼女に見とれていたのは僕だけじゃない。このレストランに来ているのはそろいもそろって女ばかりだったけれど、皆、御風に目を奪われていた。わかっていたことだ。御風は年齢とは性別とかそういうのを軽く飛び越えて、見たものすべてを魅了するヒューマンだ。
「ご注文は?」
若い女性ふたり連れのテーブルに御風は颯爽と近づいた。
「あ、えーと……季節のランチを二つ。メインは白身魚のほうを」
「かしこまりました。お飲物は如何いたしましょう?」
「コーヒを……」
「かしこまりました。コーヒーは食後にお持ちしてもよろしいですか?」
「……は、はい。おね、お願いします……」
最後に御風がかしこまりました、と微笑むと、オーダーを取られていた客のほうが赤面して俯いた。それもそうだ、彼女に至近距離で見つめられて正気でいられるわけがないのだ。御風がオーダーボードを片手に中座すると、残された女の子たちは、向かい合って頬を寄せ合い、なにやら小声でこそこそ話しをはじめた。なんとなく、食器を下げるふりをして近寄ってみれば、あのウェイターさん、すごい美少年だ、と聞こえてきた。本当に容姿の整った神々しい人間というものは、性別のありかたさえ曖昧にしてしまうのだ。
「なあなあ!あれ御風だよな?御風だよな!」
汚れた食器をシンクに放り込みながらハマーに言えば、あたりまえだろ、と、面倒くさそうにぼそりと答えた。まるで僕の妹自慢など聞き飽きているかのようだった。
午後三時。昼休憩の間にハマーがブイヨンスープを作って出してくれた。たっぷの魚介で出汁を取ったそれは疲れた体によく染みた。今日は泊まりの予定はなし。ただ、夕方2時間ほどゲストハウスに客が入るそうで、僕はあらかじめその部屋のベッドメイキングを頼まれていた。
「2時間休憩だなんて、ラブホテルみたいじゃない?」
僕がそう言うとハマーは困ったふうに眉を寄せた。
そんなこんなで僕は慌ただしい1日を終え、時前にはシャワーを浴びて布団にくるまった。
窓を少しだけあけて、冷えた夜風を吸い込んでみる。
あまりにも忙しくしてしまったおかげで、夜になるまで僕は12月の浜辺の寒さを忘れていた。
僕はここへ帰るつもりなんかなかった。御風のことは確かに好きだし愛していたけれど、もう二度と会わない覚悟をして僕は院に入ったのだ。あのときハマーが迎えにきてくれなければ、院時代に貯めたなけなしのお金で東京までの夜行バスに乗り込むつもりだった。
でも、僕はふたたびここへ帰ってきた。
そして御風と再会した。それだけ、
平凡な事実だけがただ残っている。