未払いセックスレス10
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店を出て牧村と別れ、一番近い地下鉄の駅に着く頃には、すでに23時を過ぎていた。
階段前に貼られていた時刻表の正面で足を止め、僕は思わず「あー」っと口に出してしまう。ここからシーサイドへ帰るには、地下鉄で一度街へ出て、その後、JRに乗り換えて最寄駅まで向かい、そこからさらにバスに乗る必要があるのだけれど、どう考えても終バスに間に合いそうになかった。
「あー、どうすっかな」
僕はずきずき痛む頭を抱え、腕を組んで考える。
タクシーを使うという手もあるが、朝、御風からもらったお金ではどう考えても足りない。
始発までの時間をネットカフェで潰すことも考えたが、このへんは住宅街でそんなものはないし、検索しようにも、そもそも僕は携帯電話を持っていない。
仕方なく、僕は一度地下鉄に乗り、ハブ駅まで向かうことにした。
けど、その目論見は突如後ろから左腕を掴まれたことで無になってしまった。
「うわぁっ!」
完全に不意を突かれたおかげで、僕はなんの準備もなく体を後ろへ持っていかれた。間抜けな声が出る。そのまま、吸い込まれるように、僕は大きな胸板に抱きとめられた。
カメムシ色のブルゾン、潮風の匂い。振り返るとそこにいたのは、やっぱり、仕事帰りのハマーだった。
「うわ、なんで?」
「何回クラクション鳴らせば気がすむんだテメエは」
「ん?」
「あそこ、分からなかったか?」
ハマーはくいっと顎をしゃくる。目を向けると、駅沿いの幹線道路の向こう側に、ハザードをつけたままの軽トラックが止まっていた。
「えー?迎えに来てくれたの?」
「ああそう……って、うわっ、酒臭っ!」
「へえ?そおぅ?」
「アルコール濃度高すぎてこっちまで酔いそうだ。貴様いったいどのくらい飲んだんだ?」
「うーん、よく覚えてないなあ。なんか、焼酎を二本?かな?開けたとこまでは覚えてるけど……」
「なんじゃそりゃ。お前、歩けんのか?」
「失礼だな!見てわかんないの?歩いてるじゃん」
「……そっか。ならいいや。とにかく帰るぞ」
ハマーは僕の腕を掴んだまま、ずるずると僕を路肩に止めた軽トラまで引っ張っていく。僕は笑いながら「靴底がもげる」なんて言うけど、ハマーは無表情のままだった。もしかしたら、ハマーは仕事が終わってからここでずっと僕が店から出てくるのを待ってからもしれない、とふと思ったが、そんなことはあるはずがない、と口に出す前に頭から叩き出す。
ハマーは助手席を開けて乱暴に僕を座席に放る。
「やだなあ、あれだったら、僕、荷台でもいいよ?」
「バカなこと言うな。俺が捕まる」
そう言いながら、すばやく運転席に回り込み、シートベルトを着けてハザードを消す。平日の夜中、ゆきかう車もまばらだ。シートベルト締めろ、とハマーがちくりと言ったので、僕は「はぁい」とわざとらしく舌を巻きながら返事をし、ゆっくりとシートベルトをしめた。
「ほら、水」
「ん」
「吐きたくなったら、この袋に吐け」
「ん、わかってるから大丈夫」
「窓あけとくから、寒かったら言えよ」
「わかってるから、ハマー、僕、大丈夫だってば!」
僕は思わず声を荒げた。なんだか介抱されてるみたいだ。ハマーは相槌の代わりにぐりん、と大きくアクセルを踏み込んだ。
やがて軽トラはゆるやかに加速を始める。
僕はやたらブレーキランプがオレンジ色に光る街並みに目を細める。軽トラのエンジンはすごくうるさいのに、どんな静寂よりも心地よく感じた。ハマーはハンドルを握りながら、僕には目もくれず、信号とか道路標識とかサイドミラーなんかを据えた目で見つめている。
「タバコ、吸っていいよ」
「いや、いい。切らしてる」
「そっか。珍しいね……」
意識したわけじゃないのに、なんだか弱々しい回答になってしまい、僕は元気をアピールするためにごほん、とわざとらしい咳をした。どうも意識ははっきりしてるのに、ただ僕が酒臭いというだけで、なんだかハマーに甲斐甲斐しくされているのが気に食わないのだ。だから僕は今日得た情報を整理するために、そっと目を閉じた。
瞼の奥には海があった。
何年か前の僕が見、記憶に刻みつけたあの灰色の海だ。砂浜はまっすぐに古びた家の裏庭につながっていて、義母が生前使っていた自転車が錆びを携えてちょこんと置かれていた。風は冷たかった。僕は学生服姿で、手にはいつもの学生鞄ではなくり旅行鞄を持っていた。
——ああ、そうだ。
僕はそこで目を開ける。
やけに体が重だるく、僕は鼻からふうーっと長い息を吐いた。窓に肘をつき、体をすべてドアのほうに預けた。いつの間にか車は都市高速に乗っていたらしく、窓を開けると頬を切ってしまいそうな風が僕のそばを駆け抜けた。
「ねえ……ハマー」
「何だ」
僕の呼びかけに、ハマーはニコリともせずに答えた。
「牧村さんね、離婚するんだって」
「ほー」
「御風のこともあるんだけど、直接の原因はセックスレスなんだって」
「は?」
「——の××××なんか、見るもんじゃないよね」
「……お前、」
「ごめん、今の忘れて。なんか僕、へんなこと言っちゃったから」
ハマーはしゃこしゃこと頭をかきむしり、バックミラーを合わせたのち、ちらりと僕を見た。
「お前、やっぱり酔ってるな。糸島までまだかかるから、少し寝てろ」
「うん、そうする」
僕はおとなしくハマーの忠告に従い、脱いだコートを毛布代わりにして、浅く眠ることにした。ここ数日慣れないことをしたからだろうか。案外簡単に眠気が訪れ、僕は、海に沈んでいくように、ゆっくりとレム睡眠に落ちていった。