未払いセックスレス8
頼んでもいないのに出てくるえだまめは「場所代」だと牧村は僕に教えながら、凍ったグラスになみなみ注がれたビールを、さもうまそうに喉奥に流し込んだ。
僕はそんな彼を横目にウーロン茶をオーダーする。
駅前のカウンターの他には小上がりが一つだけという小さな居酒屋までは、モールからタクシーに乗ってやってきた。牧村の行きつけの店らしく、ドアを開けるやいなや、ねじり鉢巻をした大将に軽く挨拶なんかしていた。なんというか、彼のホームグランドにまんまと連れてこられたらしく、会社やカフェで見るよりずいぶん気が大きくなっているようだ。僕にメニューを渡すしぐさも、キャバクラにきた政治家みたいにさまになっている。
「大将、今日はなにが入ってるの?」牧村がカウンター越しに尋ねると、注文もしていないのに、きすのてんぷらが無言で渡される。牧村は、まだ頼んでないのに、と苦笑しながらも受け取って、テーブルの真ん中にことんと置いた。
「まあ食べなよ。ここの大将は寡黙だけど味はたしかだから」
「はあ」
僕はあいまいに答えて箸を割る。正直あんまりお腹は空いてないし、そもそもきす天はあんまり好きじゃない。でも手をつけないのも悪いので、きす天をひとつ摘んで取り皿に置いておいた。
「ほら、伊藤くん、塩はどうする?かける?」
「あ、じゃあ……」
牧村が卓上塩の瓶を渡してきたので、それをも受け取って、僕は首を傾げながらきす天にはらはらとかけた。
僕たちは君付けで呼ばれるほど仲が良かっただろうか。僕と牧村は債権者(代理)と債務者、僕は彼からお金を取り立てるために付きまとっているにすぎないのだ。
牧村といえば、沈黙さえ楽しんでいるようで、目の前のガラス冷蔵庫にならんだ魚や串たちを眺めて、次は何を食べようか、など、ぽつぽつひとりごちている。そうこうしているうちに僕の手元にウーロン茶が届き、ぼくたちはささやかにグラスを合わせた。
「お酒飲まないんだね」
牧村は僕のグラスをじろじろ眺めて言った。
「はあ。あんまり縁がないんです。生まれてこのかた飲んだことなくって」
「珍しいね。あ、でも、最近の若者はあんま酒飲まないんだっけ。難儀だなあ」
「うーん、そういうのともまた違うんですけどね」
僕は苦笑して答える。僕がお酒を飲んだことがないのは、二十歳になったとき少年院のなかにいたからなのだけど、これは言わないでおいた。
「でも飲めないわけじゃないんでしょ?」
「どうだろう。試したことがないから、わかんないなぁ」
「ここで、飲んでみなよ、って勧めるのは簡単だけど、そうするとアルハラ?になるんだっけ。生きにくい世の中になったもんだな。全く、うちの会社の若い連中も飲みに誘っても来ないし、これもまた時代なのかねえ」
牧村は目尻に皺をつくりながら自嘲するように笑った。赤黒い顔に刻まれた皺たちが、彼の歳がそう若くないことを示している。きっと僕くらいの子供がいてもおかしくないだろう。実際、彼には妻のほかに小学六年生になる子供がひとりいる。
「シーサイドはお酒も出すんだろう?飲めなくて怒られないのかい?」
彼の口からシーサイドの名前が出てきたことに僕は少しだけ驚いた。彼にとってシーサイドの記憶は思い出したくない出来事の一つではないかと思っていたからだ
「はは。たしかに迷惑はかけたし、御風さんに会うのは気まずいけど、なにもかも嫌になったわけじゃないよ」
牧村は僕の心情を察したらしく、そんなことを口にした。
「御風さんには感謝してもしたりないほどの恩がある。きちんとお金を払って、何もかも清算した暁にはお店にご飯でも食べに行きたいと思ってる」
「清算?」
「うん。実はね、妻とは今月いっぱいで別れることになったんだ」
「そう……て、えっ?」
転勤でもするみたいな気軽さで牧村が言ったので、僕は驚くことを忘れてしまった。箸をにぎったまま牧村を見れば、先ほどと同じく柔らかな笑みを浮かべている。なにもかも吹っ切れてしまったみたいな、からりとした笑みだ。
「ちょっと、まって、え?冗談でしょ?」
「この場に及んで君に嘘をつく理由がわからないな」
「でも……」
言いかけた僕を遮り、牧村は続けた。
「会社も年度末で辞めて、退職金は全て妻と子供に渡すつもりだ。先週出した退職願も提出済みだし、十中八九受理される方向らしい」
「牧村さんっ!それ、それって……本気で言ってるんですか?!」
僕が尋ねると、牧村はふっと真顔にかえり、本気だ、と呟いた。
換気扇が激しく回っている。BGMもない他の客もいない、空気を読んだ店主が奥へ消えた今、静かな居酒屋でその音だけがやけに立体的に響いている。次の瞬間、僕は派手な音を立てて、テーブルに額を押し付けていた。
「どういうつもり?」
怒る、というより、諭すような口調で牧村は言う。僕は胸のうちを正直に吐き出す。
「わかんないけど、こうすべきなんじゃないかって、思ったから……」
「なんだいそれは。らしくないことはやめなよ」
ほら、顔上げて。そう言われ、僕は表情を作らずに顔をあげた。そこには真顔の牧村がいて、僕の顔を見ると、口元だけを綻ばせ、結露だらけのビールを一口飲んだ。
「もしかして自分のせいだとか思ってる?」
「え?」
「この際はっきりっておくけど、私と彼女は君や御風さんと出会う前から終わっていたからね」
「終わってた?あれで?」
「そう、あれで。君は彼女を献身的な女性だと言った。私もそう思う。彼女は完璧に妻として母としての役目を果たしていたからね。ただ、私と彼女はもう何年も前から本当の意味で夫婦なんかじゃなかったんだよ」
牧村のビールジョッキを持つ手が小刻みに震えていた。僕は脳裏で彼の言葉を文字に起こしながら、牧村が言わんとすることを考える。けど、答えが出るより先に、牧村が口を開いた。
「セックスレスって知ってるかい?」
それは、僕の想像の、はるか斜め上をいく回答だった。
「驚いた、というわけでもなさそうだね」
「あーどうなんでしょう。なんというか、斜め上すぎて想像が追いつかないっていうか……」
僕が頭をかきながら答えた。牧村はくすくす笑いながら、酢キャベツと焼き鳥数本が乗った皿をこちらのほうへ引き寄せた。さきほど、店主が置いていったものだ。ちなみに彼はまた気を使って席を外している。
「だろうね。いい歳したオジザンがこういうことを言うなんて思いもよらないだろうし」
「はあ、どうなんでしょう……僕、そういうのさっぱりわかんないから……、セックスレスってあれですよね?エッチしないやつ?でしたっけ?」
「平たく言えばそうだろうな」
牧村は串ではなく、キャベツをひとつ摘んで口の中に放り込む。ぱりぱり、と歯切れの良い音が響く。
僕はスーツ姿の彼をまじまじと見つめてみる。そして、昨日見た彼の妻の姿を並べてみる。
たしかに二人からは、性の匂いがしない。
けど、それを言うなら、生々しく「セックスしてます」なんて顔して歩いているカップルなんかいるはずがない。結婚して子供もいる夫婦ならなおさらだろう。結婚してある程度時間が経っているのなら、セックスレスになるのも、さして珍しいことでもないような気がした。
「セックスレスだなんて声を大きくして言うことじゃない。珍しいことでもない。歳と共に体力お性欲も落ちていく。ある程度歳をとれば、セックスしなくても生きてけるような体になる。でも……」
牧村はそこで言葉を切り、大きく息を吐いた。
「何年も触れることさえ許されずにいると、だんだん心が乾いて、頭がどうにかなっちゃうんだよ」
と、心臓のあたりを指で指し、そのまま、上に持ち上げ、こめかみあたりを、とんとん、と叩いてみせた。
「それって……」
「まあ、彼女は私よりほんの少し潔癖だった。それだけの問題さ。かといって、不貞行為を働いたことに変わりはない。なら、私にできることは誠心誠意、彼女に責任を取ることだろうね。もちろん、君の妹さんにも」
牧村は僕から視線をそらすと、軽く手を上げて新しいビールを注文した。
「さ、飲も、飲も」
と、僕の背中を叩く。どうやら彼はそれ以上「夫婦関係」について話すつもりはないようだった。僕はもやもやした気持ちを飲み込むように、手元の烏龍茶を一気に飲み干した。そして、牧村に習って軽く手をあげ、
「大ジョッキ!ひとつ!」
と、踊るような声で注文した。