シーサイドへようこそ1
プロローグ
寄せては返す白波が赤く染まる。今しがた殺した男は浜辺に倒れたまま、腰から流れる血を止めることさえせず、ただじっと僕をみつめていた。
青い唇が何かを訴えるように小刻みに震えているが、耳をそばだてることはせず、僕はその体をサッカーボールみたいに蹴り上げた。
右手に持ったナイフからは僕のものじゃない血がぽたぽた垂れ落ちて、砂浜に小さな赤い斑点を作る。
僕は映画で見た武士のようにナイフを振って忌々しい血を振り落とす。ケンシンみたいにかっこよくはできないけれど、耳元をかすめた音は確かに風を切った刃そのもので、僕はなおさら気分が良くなった。
乾いた笑いが空中を舞う。男は眉を歪ませ目を閉じる。涙さえ見せない強情さにあきれた。もう少し命乞いなりなんなりして楽しませてくれてもよかったのに、この男ときたら、黙って僕に殺されたもんだから、ちょっと期待ハズレだ。乾いた笑い空中を舞う。ホラー映画のピエロみたいなその声が僕のものだとはすぐにはわからなかった。
「痛い?ねえ、痛い?」
尋ねるけれど、彼は何も答えない。
「死なないなら、もう一回刺したっていいよ。それとも、このまま足で蹴って海に転がしたっていい」
視線の先に広がるのは、灰色の海。息苦しい曇天と呼応するように、汚い長らく放置したような黴のようなグレイ。男を捨てるにはおあつらえ向きの、曇った冬の朝にふさわしい景色がそこにあった。
僕は顔面で潮風を受けながら、今度は自分の意思で心からじっとりと笑う。
「どうしようか、ね。御風」
さびた潮風に見守られながら、僕はまた男の背中を蹴り上げる。
「シーサイドへようこそ」
***
院帰り。
砂風にさらされつくした軽トラックの助手席の窓を全開にして、僕は運転手に許可も取らずに海風を招きいれた。淵に手をついて身を乗り出し、潮くさいそれを口を大きく開けて吸い込んでから、思いっきりあーっと外に向かって叫んでやる。僕の声は遠く海岸線にこだますることはなく、かわりに狭い車内に不協和音となって残ってしまった。
海外沿いを流すオンボロ車から見える景色はオレンジベージュの砂浜と灰色の海ばかりだ。これが真夏ならエメラルドブルーの景色が広がるけれど、残念ながら今は12月の終わり。こころおどるような夏めいた景色は当分お預けだ。
ハマーはわざとらしくラジオのボリュームを上げてため息まじりに「うるせぇ」とつぶやいた。同時に離合する対向車にププっとクラクションを鳴らす。運転が難しいマニュアルの軽トラの運転を同級生の彼がなんなくこなしているあたり、やっぱりあれから一定の時間が経っているのだと痛感した。最後に会った彼はまだ18歳になったばかりで、僕と同じく海沿いの工業高校に通っていた。当時は野球部で年中坊主だったけれど、今はツーブロックにした髪のうえのほうを明るい茶色に染めている。ただ、太い腕だけは当時のままで、無造作に羽織ったブルゾンが今にもはちきれそうだ。
「あーごめん。うるさかった?」
僕は体を戻して座席ふかくに腰掛けた。そこでようやくシートベルトをかちゃんと締める。ハマーは、べつにそうでもない、とこれまたつぶやくように答えた。ハマーは僕と違って無口で物静かだ。現に院を出てからの二時間あまりのドライブの間も彼は数えるほどしか言葉を発していない。そもそも、高校が同じとはいえ、ハマーと僕はそう仲がいいほうではなかったはずだ。まあ、僕は昔からこんな感じで頭が空っぽだから友達と呼べる奴も全くいなかったし、ハマーもハマーで顔が濃くていつも仏頂面でいるせいで、不必要に周りから怖がられていて、あまり楽しい高校生活を送っていたわけではなかった。
だから、正直なところ、院を出てすぐの鉄格子つきの駐車場でハマーからクラクションを鳴らされたときは、とっさに素通りしてしまった。まさか僕に引き取り人がいるなんて思わなかったし、そんな心構えもなかった。
とりあえずハマーが顎をしゃくって乗り込めというので、僕は荷物を荷台において乗り込んだ。幸いなことに外は朝からよく晴れていて雨の心配はなさそうだった。
糸島市は九州は福岡県の西方、天下の地方都市福岡市に隣接する人口30万人ほどの町だ。豊かな土と玄界灘に恵まれているおかげか漁業、農耕、畜産が盛んで、美しい浜辺の景色を目当てに福岡市から訪れる観光客の数も多い。また僕はよく知らないけれど、なんとか特区に選ばれているようで、ここ最近若い移住者が増え、海岸線に沿うようにおしゃれなカフェやレストラン、アトリエなんかが建てられているらしい。
「ねえ、そろそろ教えてよ。僕をどこに連れてこうっていうの?」
僕はハマーの横顔に6度目の質問をした。ハマーは視線を前に固定したまま、タバコの煙を吐き出すようにため息をついた。
「気付かないのか?」
「何が?」
何も言わないハマーに僕はいらいらしていた。たしかに迎えに来てくれたのはありがたいけれど、目的も知らされずどこかへ連れて行かれるのはやはりいい気はしない。僕みたいな前科者を誘拐したって何の得にもならないというのに。
「今走ってるところ、知らないわけじゃねえだろう」
「うん。そうだね」
じつのところ見覚えはありすぎるほどある。潮風の匂い、泥の匂い、国道沿いに不気味に続く浜辺たち。最近は都会のオアシスだとか一時間で行けるリゾートとか銘打って町おこしがされているらしいが、どうにも言葉に表しがたい鬱めいた雰囲気がぬぐえない。そんな俺の故郷、糸島の海を知らないわけがなかった。
軽トラはいったん松原が生い茂る道にはいる。陰った視線のなかで、ハマーの目がぬるりと光った。
「みかぜ」
「えっ?」
反射的に聞き返す。脳みそがフリーズドライになったみたいだ。ハマーの唇から出た名前に僕は言葉をうしなった。手をぎゅっと握って全身を硬直させて次の言葉を待つ。
「御風がお前を連れてこいって。だから俺がわざわざ高速に乗ってお前を迎えに少年院まで迎えに来たんだよ」
ハマーは御風、と、少年院、にわざとらしいアクセントを置いた。けれども、そんなことは些細なことでしかなく、あくまでも僕の頭のなかに残ったのは前半部分、すなわち、「御風が僕を連れてくるように言った」という部分だけだった。
「御風?ね、ね、ハマー、御風がってそう言った?たしかに言ったよね?御風、御風、御風って!」
僕のなかでとたん御風の存在が風船みたいに膨らんでいった。御風。この七年間片時も忘れたことのなかった、最愛の女。金も知恵もない体力もない頭がおかしいこの僕が唯一自慢できる宝物、御風。その御風が汚らしい僕に興味を持っている。それだけで十分だった。
「なんで、なぜ御風が僕を?君も僕に会いたかったのかい?待たせてごめんね。ようやく忌々しい監獄から赦されて戻ってきたよ!御風!御風!」
気づくと僕はまた窓を全開にしていた。向かい風に逆らうように、叫ぶ。みかぜぇ、と叫んでいる間に変な感情がどばぁと溢れてきて、いつの間にか叫びながら僕は泣いていた。ダッシュボードを叩いてヘドバンしながら絶叫する僕をハマーはあきれ顏で頬杖をついて眺め、シスコン野郎、と呟いた。
「悪かったなあ、シスコンでぇ」
「あーったく、うるせぇぞ。もうすぐ着くから静かにしてろ。この松原を抜けたら見えるから」
そのとき、トンネルを抜ける直前みたいに足元のあたりからぼんやりと明かりが見えはじめた。最大地点まで上昇したジェットコースターが一気に落下したときと同じような感覚だった。
塗装されたばかりの滑らかな道路を軽トラはばたばたと走る。そこから見えたのは、冬まだというのにエメラルドブルーに染まった海と、ホワイトベージュの砂浜、そして、その中央にどっしりと鎮座した白いガラス張りの建物だった。
「あれ、?」
もともとここは僕と御風の家があった場所だ。地中海に建つ教会みたいな建物に見覚えはない。僕が尋ねると、ハマーは、御風御殿、とつぶやいた。
「御殿?」
「お前の妹の家だよ。あまりにも立派だからって、このへんの奴らは大体そう呼んでる」
「え?俺の御風はあんなところに住んでんの??」
御風が住む家はてっきり院に入るまで僕と一緒に暮らしていた木造住宅のことだと思っていた。築45年の二階建ての家。勝手口から外に出るとすぐに浜辺に行けることだけがとりえの小さな家だ。それが、見える景色はそのままに、かつて家があった場所に知らない建物が建っている。ひどい違和感だ。それに、見覚えのない人影がゆらめいている。
「住んでるだけじゃねえぞ」
ハマーはウィンカーをあげ、御殿の脇にある駐車場めがけてハンドルを切った。
「御風はここで店をやってんだ。んでもって、エントランスの前に立ってるあの金髪女がお前の妹だよ」
僕はもう泣いていなかった。代わりに目を見開いて、左折する軽トラックから店の前に立つショートパンツの女の姿を見つめていた。ハマーの言葉はもう聞こえなくなっていた。なぜなら僕は確信していた。目が慣れていくうちに、ハマーに言われなくたって、彼女が僕の妹であることがわかったからだ。
妹に会うのは5年ぶりのはずだった。僕の手のひらよりふたまわりほど小さい顔に大きな目。やや緑がかった瞳、通った鼻筋。たぶん化粧という化粧はしていないのに、すべすべとした肌。僕に全く似ていない細身で長い手足を持つ長身の女性は、この街に住むすべての男が夢中になった、御風その人だった。
「みっ、かっ。ぜっー!」
僕はできるだけ派手に大きく手を振った。