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チェーンをかける女

作者: モロ

 心臓が飛び上がって、女は目が覚めた。


 なぜ目が覚めたのか女には判っていた。夫の部屋の扉が軋んだ音だ。またか。女には判っていた。心臓が脈打っていたが、女はじっと身動きをせずに聞き耳を立てていた。頭も身体も一つの心臓となり心臓の音で枕もとの時計の音も聞こえない。


 しかしこの音だけは別だ。


 今の女には猫の足音でも聞き取れる。女はこっそり音を立てないように気遣いながら立てた音には気付くのだ。女が男のように眠ったら乳を欲しがって泣く子供の世話ができない。子供が生まれて3ヶ月、女は横になって眠っていなかった。いつもソファか床で子供を抱きかかえてうつらうつらしていたものだ。3ヶ月から1歳になるまでは何とか横にはなれたけれど3時間も続けて眠った事はなかった。一晩続けて眠れるようになったのは3歳になったつい半年まえくらいからだ。もちろん夫はその間、一度も子守りを替わることなく安眠を貪っていたものだ。


 と言っても、もちろん夜にいる時に限る。


 しばらくは何の音もしなかった。女自身の心臓の音と息遣い以外は。しかし辺りを伺う足音が廊下をためらいがちに進んでいく音が聞こえた。女は身動きできない。足音の主も女を伺っているのが判る。突然、玄関でチェーンを外す音が聞こえた。気持ちが急いているのか、自分の立てる物音に慣れたのか段々遠ざかっていくにもかかわらず、音自体は最初よりもはっきり響いていた。多分、気持ちを押えきれずにいるのだろう。玄関のドアを静かに閉める音が静かな家に思った以上に響いた。


 たばこを切らして買いに行ったのかも。女は思った。心にも無い事だったが、絶対間違いとは言い切れない。夜中に目が覚めてふとタバコが欲しくなる。女に喫煙の習慣はなかったが、そんなことも有るのかもしれない。たまたま切らしていたのかもと思いかけた瞬間、溜息と一緒に全身から力が抜けていった。絶望という温泉に首まで浸かったようだった。夕方タバコを買いにコンビニに走っていた事を思い出したのだ。


 女はやっと目を開けた。子供と2人で眠っている暗い部屋の天井をじっと見つめた。身動きは出来ない。身動きするには余りにも緊張して余りにも心臓が激しく脈打っているのだ。凍った地面からシートを引き剥がすように腕を持ち上げた。「大丈夫」と女は思った。感覚は全然無いけれどなんとか身体を動かす事は出来そうだ。


 恐る恐る、そしてゆっくりと起き上がると女は膝を抱えて丸くなった。


 もしかしたら夢なのかも、かなり立ちの悪い夢。そう思ったが、頭の隅では寒々とした理解があった。あの女のところに行ったんだ。枕元の携帯に手を伸ばして時刻を見ると午前2時。明日は水曜日、次の日が休みでもないのに深夜家を抜け出して女に会いに行ったのだ。


 深夜に。

 彼女に。

 わざわざ遭いに。


 毎日パートから帰ってきて夕飯の準備をし、子供に食べさせているのは私。皿を洗うのも私ひとり。毎晩洗濯して風呂を洗い沸かして子供と入る。ぐずる子供をなだめながら歯磨きをさせて寝かしつけ、やり残した雑用を片付けて、一晩に30分以上ゆっくり座っていた事も無い。夫はご飯と風呂の時以外はテレビを見てゲームをし、子供が泣けば自分の部屋にそそくさと引き上げ、彼女にメールか電話をする。女はここ2ヶ月と10日の間に何気なく通った夫の部屋の前で、携帯で話しをしている夫の声を何度となく聞いた。一度は君の事を大切に思っているんだよとさえ言ったものだ。夫は毎日必死で家事をこなしている妻の事など大切に扱ったことなど1度も無いのに。子供の事すら邪魔で面倒だと言わんばかりの態度だ。


 一体私はなんなんだろう。


 暗闇に向かって声にならない問いかけをする。夫にとって私はなんなんだろう。夫にとって子供はなんなんだろう。世間体?一体私は・・・・・・どうしてこんなことに・・・どうして・・・・どうして・・・・


 堪えきれず涙が大雨の降り始めのようにぱたぱたとこぼれ落ちてきた。声を出さないように、子供を起こさないように気をつけながら息をする。大声で号泣しないように、布団をしっかりと握り締めた。 心臓がどたばたと身体の中を走り回っている。全身の毛穴という毛穴から一斉に冷や汗が噴出しインフルエンザの高熱を思い起こさせる震えが襲ってきた。頭が心臓と同じ調子でどんどん脈打って、目の前がくらくらして立つこともできない。10kmも走ってきた犬の息遣いを押えながら女は慌てて自分のクローゼットに這っていった。


 女の記憶の中にカウンセリングルームでの出来事がよみがえっていた。心臓が今のように脈打って息が苦しくなり、水揚げされた魚のように口をパクパクさせて喘いでいた。カウンセラーに息が出来ないと叫んだが声が出なかった。慌てて駆け寄るカウンセラーを掴みながら彼女は空中で溺れていた。過換気症候群を伴なうパニックの発作を起こしていた。そのまま意識が朦朧としていった。


 あの時は人がいたけれど、今は誰もこのうちに居ない。このまま自分が気を失って万が一死んだりしたら、この子はどうなってしまうんだろう。女は這ってクローゼットまで行く途中、何かをこぼしたような気がしたが今はそれどころではない。なんとかたどり着き、引出しをひっくり返して目的のものを探した。


 それはすぐに見つかった。青くて新品なカッターナイフ。2ヶ月前にそれ専用に購入しておいた工作用の特別切れ味のいいのだ。手で持つところは青っぽいシルバーの塗料が塗ってあり、刃は新品を入れてちゃんといつでも切れるように折ってあった。パジャマのズボンを急いで脱ぎ捨てた。ショーツがずり下がったが、呼吸がどんどん速くなり、目の前がぼんやりしてきて失神するまでにたいした時間は残っていない今はどうでもいいことだ。しかもココは自分のうちだ。誰に見られるわけでもない。


 目の前が暗くなる一瞬前、太ももの内側にカッターで切りつけた。呼吸が止まり、太ももに10cmの血で書いたラインが現れた。同じようなラインが薄いものからかさぶたが出来ている真新しいものまで何本もついている太ももを、魔女の涙のように血が流れていった。まるで生理みたいね、と思うと同時に呼吸が楽になっていくのを感じた。痛みが絶え間なく脳にメッセージを送り、血が滴り落ちていく感覚が自分を少しづつ癒していくのを体全体で静かに感じていた。また切ってしまったというささやかな後悔の気持ちも無いわけではないが、それもごくわずかな部分でしかない。そもそも目覚めた子供に自分の母親が死んでいるのを見せるのが防げるのなら、切り傷くらいたいした事ではない。


 目をつむって太もものキズを感じながら女は思った。今なら考えられる。夫は可愛い彼女のもとへ、こんな夜中に忍び足で出掛けていった。

「ばかにするのもそろそろお仕舞にしたほうがいいわ」

 自分の発した言葉の力に女は驚き、目を開けた。言葉には力がある。女はそれを奥深いところで感じた。言葉の力を自分に確かめながら言った。

「もう、十分。そろそろこんな事はお仕舞にしましょう」


 太ももの傷が痛んだ。血が滴り落ちないように、シーツは洗う事が出来るけど布団は簡単には洗えない。ましては血液は簡単には落ちない事を女なら誰でも知っている。手のひらをおわんの形にして血をすくい上げながら枕もとまで行き(まるで子供のよだれをぬぐっているようね)置いてあったティッシュで傷口を押さえた。すぐ1枚は血液でべたべたになり使えなくなった。2,3枚箱から取り出すとなれた手つきで傷口に当てて強く押さえた。出血は続いていたがじきに止まるだろう。手についたべたべたする固まりかけた血もティッシュで拭った。涙も拭こうと思ったが頬と目の周りはいつのまにか完全に乾ききっていた。自分の涙が乾いている事に少し笑い、笑った事にまた少し笑った。また少しリラックスするのを感じ、自分の感情が檻に入ったトラのように制御されているのを感じた。トラは折の中でまた静かに眠りについたのだ。


 傷口をティッシュで押さえながらひっくり返した引出しのところに戻り、かなり大き目のばんそうこうを2つ拾い上げた。ティッシュを離すと再び血が滲んできた。丁寧にばんそうこうのシートをはがすと傷口に貼った。またシートを剥がして貼る。女が思ったとおりばんそうこうは傷口には小さすぎたが、ないよりマシだ。後からガーゼを当ててきちんと手当てをすればいい。それだけの事だ。


 ばんそうこうがその役目を果たし、肌にしっかりと留まり血液を受け止めてくれるのを目で確認すると、女の顔に晴れ晴れとした表情が戻った。女はしっかりとした足取りで部屋を出て暗く魔物が住んでいる廊下に出て、玄関まで歩いていった。


 夫の靴は無かった。

 もちろんいつも履いて出かけている靴だ。


 しかし女にはもう夫に対する何の感情も湧いてこなかった。少なくとも今のところトラは変わらず眠っている。女は扉に手をかけてチェーンを掛けた。チェーンを掛ける音を聞くと晴れ晴れとした感じが全身に行き渡り、笑みがこぼれた。これでこちらが開けてやらない事には夫は帰っては来れない。夫は鍵は持っててもチェーンを切る鋏は持っていないのだから。全ての鍵を握っているのは私、入る時には私の許可を取って下さい。そう夫に命令する自分を思い浮かべてくすくす笑いがこみ上げてきた。部屋はマンションの5階だし玄関以外からは家に入って来れない。さぞかし焦る事だろう。想像したらまたくすくす笑いがこみ上げてきた。


 とはいえいつまでも笑ってはいられなかった。今は夫を締め出せても、自分もいつまでも部屋に篭って夫を締め出すわけには行かない。保育園にパートの仕事もある。子供の事もあるしこれから先の事を考えなくては。


 女は元々はきちんと筋道立てて考える性格だった。学生の頃も夏休みになるときちんと計画を立てて宿題にも取り組んだものだ。ほとんどの友人が8月の終わりに焦って宿題の山をやっつけている時、彼女には夏休みの日記ぐらいしか宿題は残っていなかったものだ。もちろん今は夏休みの友も計算ドリルも必要ない。それよりももっと大きくて取り組みがいのある課題があった。


 夫に後悔させる事、そして離婚して自由の身になることだ。


 準備が整うまでは騒ぎ立ててはいけない。あくまでも今日のところは気付かなかったフリをしよう。とはいえ女は一度掛けたチェーンを外す気はさらさら起きなかった。チェーンを外したら悔しさにまたトラが騒ぎ出すだろう。ふと額に手を触れると少し汗ばんだ額がひんやりと冷たかった。パニックを起こしている時にこぼしたものが何かも気になっているし、傷口の手当てをさっさと済まして睡眠薬を飲んで少し眠りたいと思った。


 薬。


 女の意識の中に前置きもなく言葉が浮かんだ。あぁ、薬。そんなものも有ったんだわ。薬を飲んで寝ぼけたか混乱してた事にしよう。女が睡眠薬を飲むと、起きても頭がボーっとして何の判断も出来なくなる事を夫も知っている。薬のせいにすれば多少の不自然なところもカバーできるだろう。薬を飲んで眠ったが夜中にトイレに起きた時に、チェーンが掛かったから戸締りし忘れたと思ってチェーンを掛けた、そういうことならいかにもありそうな話だ。普段の女ならありえない話だが、睡眠薬を飲んでいたらそういうこともあるかもしれない、そう夫も思うだろう。女は洗面所に向かいながら思った。薬でフラフラになっているのはまずい。余計な事を言ってしまわないように薬を1/2錠だけ飲もう、それなら若干ぼーっとした雰囲気を漂わせながら夫の反応も読めるはずだから。


 洗面所につくと、棚に直してあったガーゼを半分に切り、太ももの傷を綺麗に覆って紙テープで止めた。睡眠薬は1週間前に精神科から処方してもらったものがたくさん余っている。薬の金色のシートにはTu NR-010と緑にも青にも見える色で書いてあった。眠れない時に1/2錠、次の日が日曜日のときだけ1錠飲んでいた。朝、ふらついたりぼーっとしたりするのが辛くて今まで出来るだけ飲まないようにしていたのだ。女はコップに半分水を注ぐと1/2錠飲み下した。10分もすれば心地よい睡魔が襲ってくるだろう。さっきこぼしたものの片付までする時間のゆとりは十分にある。


 女は今、帰ってくるであろう夫の反応が楽しみで仕方なかった。


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