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「ありゃりゃ? “ちゃん”はまだなりぇなりぇしかったかなぁ?」
「あ、いえ、そんなことは……」
そう答えるマリアの顔に抱きついているエルの息が当たる。その息にマリアはむっとした生温かい匂いを感じた。
「おい、嬢ちゃん。酒飲んだろう」
マリアの後ろから伸びたディックの手が、エルの頭を指で押す。エルはニャハハと笑うと、首を横にぶんぶんと振った。ポニーテールの髪が左右に揺れる。
「のんれない、のんれないよー。酒はのんでものまれないのがエルちゃんなんらよー」
「思いっきり呑まれてんじゃねぇか。誰だよ、こんなガキに酒を飲ませた奴は」
額を指で突かれると、エルは「にゃん」と言って後ろに転がった。しかしすぐにむくっと起き上がり、マリアの手を掴んで引っ張った。
「そんにゃことはいいからさー。マリアちゃんもいっしょにおどりましょうよー」
「え? いえ、ですけど私はここの踊りはわからなくて……」
その言葉に一瞬エルの動きが止まる。そして「ひっく」と据わった目でマリアを見た。
「じゃあ、マリアちゃんのおどりを見しぇてよー。おひめさまのおどり見たーい! 見たい見たいのー!」
そこから別のスイッチが入ったように、エルが掴んだマリアの手をぶんぶんと振り出した。
「見たい見たいー!」
普段のしっかりとしたエルの姿とは別人のような駄々のこね方である。すっかり困惑したマリアは、助けを求めるようにディックの顔を見た。
「からみ酒だな。付き合ってやんなお姫様。でないともっと面倒臭くなるぜ」
しかし突き放される。マリアは恨めしげな目をディックにむけた。
「ですけど、私の踊れるような音楽もないですし……」
「見たいのぉー!」
泣き声まで混じってきたエルの駄々に拍車がかかる。まわりもこの騒ぎに気付いたのか、徐々に周囲に人が集まってきた。
それに見るに見かねたように、ディックが声を上げた。
「ダック!」
「へい、兄貴! なんでございやしょう」
その声にすかさずといった素早さで、背の低い口髭スキンヘッドの男が現れる。ダック・ラックである。
「俺の楽器を……」
「へい、兄貴!」
ディックが最後まで言う前に、ダックは楽器の入ったケースを得意気に差し出していた。
「用意がいいな」
「へへへ、兄貴がこいつを弾くのはあっしも楽しみなんですよ」
受け取ったケースを開くと、そこには細長い首に丸くくびれた胴を持つ、六本の弦が張られた楽器があった。横に弦を弾くための弓も収められており、その両方を取り出したディックは、弦の張りを確認しながらマリアに言った。
「旋舞曲だ。嬢ちゃんが離れてくれねぇなら、一緒に踊ってやんな」
「は、はい」
ディックが弓で弦を弾く。緩やかに流れ出した音に、周囲の賑わいが小さくなる。酔態を晒していたエルもその澄んだ音色におとなしくなる。やがてディックの弾く曲の音しかしなくなった頃に、その踊りが始まった。
エルの手を引き甲板の中央に立ったマリアは、音の流れに合わせて円を描くように動く。川のせせらぎのような曲の調べに、水に浮かぶ木の葉のようなステップで長い黒髪を翻し、手をつなぐエルを中心にしてくるくると回る。
六本の弦で高音と低音を重層的に弾くディックの演奏と、それに合わせて新大陸では見ることもない華麗で優美なステップは、蒼い月の明かりの下で、一層に幻想的に観る者を魅了していった。
「妖精だ……」
誰かが言った。それは確かに月夜の湖に人を誘い、湖上で踊る妖精の姿に見えた。
そして曲の終わりとともに踊りも終わり、膝をついたマリアがエルの手の甲に口づけをした。顔を真っ赤にするエル。そこに拍手と歓声が降り注いだ。
「たいしたもんだ。男役、女役を入れ替えて、素人相手にここまで踊るたぁな」
周囲の喝采に戸惑うように身じろいでいたマリアに、ディックが声をかける。マリアは慌てて首を振った。
「い、いえ。エルさんが私の動きについてきてくれたおかげです。とてもお上手でしたよ、エルさん」
「ど、どうもです……」
踊る前の勢いはどこにいったのか、悄然とした様子のエルは弱々しくそう答えた。
「酔いは冷めたかい、お嬢ちゃん?」
「……だからお酒は嫌いなのよ」
ニヤニヤと笑うディックに、苦り切った顔のエルは頭を押さえながらそうこぼした。それからエルはじっと眉根を寄せてディックの顔を見つめ、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にするようにして訊いた。
「なんでこんなキレイな曲が弾けるの?」
その質問にディックの眉が上がる。ディックは鼻を鳴らすと、いつもの調子で答えた。
「フフン、これでも育ちはいいもんでね。教養だよ、教養」
「ふーん。どんな汚いものでも、少しくらいキレイなところはあるものね」
「ハハハ、そうそう汚い奴にも……って、おい」
「あー、アタマいたーい」
ディックが突っ込みを入れる前に、エルは頭を押さえながらその場を離れていった。
「チッ、あんのチビガキめ」
「もう大丈夫みたいですね」
舌打ちをするディックの横にマリアが並ぶ。そしてディックが手にしている楽器を見ながら言った。
「……この楽器、ガルティエですね。王国の宮廷音楽によく用いられる楽器です」
「ほう。よくご存じで――というのも当然か。あんたは帝国のお姫様だもんな」
「王国の宮廷には何度か父と訪れたことがあります。その晩餐会で演奏されていた曲に先ほどの旋舞曲がありました」
「そいつは偶然だな。知っている曲でちょうどよかった」
マリアが視線をディックに移す。そのいつもと変わらない人を喰ったような態度に、マリアが目を細める。
「あなたは……」
「育ちのいい『デリク』もいるのさ。それ以上の理由は必要かい?」
「……いえ」
軽く肩をすくめてそう答えたディックに、マリアは継ぐ言葉を持たなかった。その様子に口端を上げて笑ったディックは、月を見上げて言った。
「もう、いい夜だ。明日からは忙しくなるからな。先に休ませてもらうぜ」
月はだいぶ高く昇り、すでに夜半は過ぎていた。
「じゃあな、お姫様。いい夜を」
もの言いたげなマリアの視線を払うように、ディックは背中をむけて片手を振りながらその場を離れた。
「ん?」
「お疲れ様でございます」
その行く手に大きな人影が立った。広い肩を持った大柄の眼鏡男――トルパットである。その姿を認めたディックは、ぐっと側に詰め寄ってその顔に指を突きつけた。
「おい、あんた。おたくのお嬢様があんなんなる前に止めてやらないのかい。なかなかにいい迷惑だったぞ」
文句をつけるディックに、トルパットはわずかに首を引くだけで、かしこまることなく答えた。
「こうしたときくらい自由にさせてあげるのが、私の仕え方です」
その言葉にディックの勢いが止まる。突きつけた指を下ろし、腕を組んで鼻を鳴らす。
「ふん、そうかい。そんだけ普段はご不自由な訳かい」
「返す言葉もありません。ありがとうございます」
そこでトルパットが広い肩を小さく丸めて頭を下げた。その頭をしばらく見下ろしていたディックは、馬鹿馬鹿しいといった様子で両腕を開いて首を振った。
「礼を言うなら手当で付けてくれ」
「進言いたしましょう」
そうトルパットが顔を上げたときには、ディックは『ハウンドドック』につながる渡り梯子の上を歩いていた。




