承5 琴の音は不安を煽る
ぽろん、ぽろんと室内から漏れ聞こえる旋律は、流れる水のように清らかで聞くものの心を洗うような音色であった。
クロムウェルは、演奏の邪魔をしないようにそっと扉を開けると室内に最近見慣れた滝のように流れる銀髪の少女の後姿を見つけた。よほど集中しているのか、気配を消すように室内に足を踏み入れたクロムウェルの存在に彼女が気が付いた様子は無かった。見慣れない長方形の板のようなものに張られた線を、側室の少女がつま弾くと澄んだ音がこぼれる。
クロムウェルが名も知らない珍しい楽器をぎこちなさをみじんも感じさせずにつま弾く姿は、どこか神秘的で近づきがたい雰囲気を醸し出している。そのことに、なぜかクロムウェルの心がざわめく。ここにいるのにいないようで、水面に映し出された月のような様子にひどく心がかき乱された。
気が付いた時には、その手をつかんで止めていた。なぜ、自分がそのような行動をしたのかこの時のクロムウェルにはわからなかった。だが、あのままだと、目の前の少女がどこかに行ってしまいそうな気がしたのだ。それほどまでに、彼女の姿が幻想的だったのだ。
「ひゃっ!」
突然腕をつかまれたことに驚いたのか、桜色のくちびるから甲高い悲鳴が小さく漏れる。恐る恐るクロムウェルの方を振り向く姿は、肉食動物におびえた小動物のようだった。初対面の女には、大概今のような反応をされてたため、慣れていた。そのはずなのに、このラピスラズリの間の側室に、怯えられてひどく傷ついている自分を見つけた。
「俺だ! クロムウェルだ!」
気がついたらそう叫ぶように名乗っていた。女の前でこれほど、大きな声を出したことは今まで無かった。恐怖に拍車がかかるだけだったからだ。そう、何せクロムウェルの仇名は……。
「ま、まおー様!!い、いらしてたのですか。一声かけていただければよかったものの!あぁ、びっくりした~」
そうそう、「魔王様」と呼ばれて……。
「って、誰が魔王だ! 俺は、王太子ではあるが、魔王ではない!」
クロムウェルはつい昼間の男同士の茶会のノリで、突っ込みを入れてしまった。
「ぷはっ、あはは! やっぱり、みんな魔王様って呼ぶんですね」
銀髪に瑠璃色のはかなげ美少女とレナードが評していたが、言われてみればその通りだと思う。しかし、中身をひらけばこうだ。クロムウェルは、何十回とショーギという異国の頭脳ゲームをしていたのだ。彼女自身はばれていないと思っているかもしれないが、意外と駒運びなどにその人の性格が表れてくるものだ。特に、駒をどう動かすか思案している時など、彼女は意外に無防備に見える。人畜無害そうな笑みの下に、聡明さとずるがしこさが潜んでいて、慈悲深そうに見えてかなりあっけカランとしている性格だとかなんとなくわかり始めていた。
「おまえは俺のことをそう思っていたのだな」
正体不明なダレカに演奏中にいきなり腕をつかまれた恐怖であって、クロムウェルを恐れたわけではないと彼女の底ぬけた笑い声で分かり、肩の力が抜けた。彼女は、猫の皮をかぶるのにつかれたのか、それともやけっぱちなのか、頬をふくらまして抗議してきた。今まで見たことのない彼女の姿に、人間味のある彼女の仕草に胸の奥が暖かい何かで満たされていく。
「そうですよ! だっていかにも悪人ずらではありませんか! 殿下っていうよりも魔王様ってほうがしっくりします」
「お前は、そういう物言いの方がいい。俺の前だけでは、繕わなくていいぞ。お前、俺のこと心の中で魔王様って呼んでいたのだな」
驚いた時にとっさに出てきたということは、間違いなくそうなのであろう。図星をつかれた彼女は、ごまかし笑いを浮かべる。
「はい、おっしゃる通りです。だって、名前が長いし発音がしにくいのですもの。殿下って呼び名を口に出すときにしていますけど、魔王様の方がしっくりくるとご自分でも思いません」
「思わん。俺の名前はそんなに発音しにくいか?よし、命令だ! 俺の名前を読んでみろ」
「クロム……ヴェル殿下」
「なんで、ウ音がヴになるんだ? はぁ、まぁいい。おまえに俺のことをクロムと呼ぶことを許そう。親しいものは俺のことをそう呼ぶ」
突然のことで驚いた様子を見せたのはほんの一瞬で、顔をしかめながら仕方なく名前を口にする。そういえば、名前を彼女に読んでもらったことはこれが初めてかもしれない。殿下という役職名しか呼ばない彼女に、失敗したとはいえクロムウェル個人の名を読んでもらえたのは嬉しかった。もっと名を呼んでほしいと思った。名前を読んでもらえたくらいでどうして自分はこんなに、嬉しいのだろう。
「お言葉に甘えさせてもらいます。クロム様、先ほどのぶれいを重ね重ねお詫び申し上げます。すみませんでした」
彼女がクロム様と呼んだ時、聞きなれた愛称のはずなのに妙にこそばゆくなって、ぺこりと勢いよく頭を下げる時に、ふわりと宙を舞った銀の糸のような髪に触れたいと思った。クロムウェルが、腕をつかんだ時に髪に触れたとしても彼女は驚きはしても起こることはないだろう。彼女は、皇太子の側室―――つまり自分の妻であるの女性。妻の髪に触れたところでおかしくもなんともないだろうに、それが、できなかった。他の側室に対してこのような気遣いをしたことはなかった。クロムウェルは、そういえば自分が、彼女の名をあまり口にしていなかったことに気が付いた。
「お前の名は、ディアナだったな。愛称は、ディーとかか?」
心の中の戸惑いをごまかすようにして発した言葉に、一瞬、ほんの一瞬だけ彼女の顔が曇った。陰りを帯びたその顔に浮かんだ色は、「絶望」「拒絶」に似た何か。すぐに、その顔にはいつもの笑みが貼り付けられて、見えなくなってしまった。だが、その反応はあまりにも不可解だった。
「まぁ、そんなところです……」
照れくさそうに、告げる言葉は偽りで、あの一瞬の表情が本物だ。どうして、あのような表情をするのかわからなかった。思い当たる可能性の一つとしては、彼女が自分の名が嫌いだということくらいだ。しかし、「自分の名前が嫌いなのか?」と口に出すことができなかった。これ以上この件に触れたら彼女に拒絶されてしまう予感がした。
「まぁ、お前は、お前で十分だな。ふむ、名を呼んでほしかったらもっと女を磨け」
不敵な笑みをつくりぶっきらぼうに、そう言ってやることしかできなかった。何かこの気まずい空気を変える手はないだろうか。クロムウェルの頭によぎったのは、レナードに釘を言われていた来月の夜会でのパートナー選びのことであった。
「来月、女神の降臨祭に合わせてパーティがあるのは知っているな? お前に、俺のパートナーを頼みたい」
「は! っ、ごほん。あの、殿下。なぜ、わたくしめなのでしょうか?殿下の隣にはもっと美しく身分の高いものの方が……」
「クロムだ」
「うっ、クロム様は、なぜ私に頼むのです? クロム様の後宮にはほかに美しい女性も異国の姫君だっているではありませんか」
瑠璃色の瞳でクロムウェルの赤い瞳を射抜くように見つめ「嫌だ」と無言でビシバシと伝えてくる。先ほどから聞いていれば、美人な女性やら身分の高い女性という単語が出てくるが、その両方に自分も当てはまることを知って行っているのか、それとも知らずに行っているのかどっちなのだろうか。
「それ、お前にも当てはまることを自覚しているのか」
「あっ」
どうやら、聡明でもあると同時に少し抜けているようだ。
「と、言うわけで引き受けてくれるな」
「う、謹んでお受けいたします。……ところで、殿……じゃない。クロム様は、何色の衣装をお召しになりますの」
嫌そうに引き受けた割には、ちゃっかり準備するつもりであるようだ。クロムの衣装の色は、毎度変わり映えしない「黒」だと告げてやると、彼女は「クロム様が、黒なら私は純白のドレスにしますわ」と嬉々として答えた。満面の笑顔が、ものすごく怪しいが、まぁ機嫌が直ったのならいいだろうと思いなおすことにした。クロムウェルも、まさか自分の側室が「魔王様にささげられた生贄」という構図になるから「純白」と答えたとは、思いもよらなかった。
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